災い転じて福と
一軒家の民家のような外観。
ガラスの引き戸の上に掲げられた木の看板には、「海のご飯 嵯峨野」の文字。
隣接しているのは、シャッターが地上三十センチまで下げられた店舗らしき建物。隙間から、街灯も少ない暗い道へ、明かりが漏れていた。
「これは確かに、全然わからない。外から見たら営業しているかもわからないし、駐車場の位置も離れているから初見殺し。そもそもここまでの道も住宅街で、何も目印がないし……」
店の前に立って、素直な感想を述べた聖に対し、そこまでの運転を買って出ていた樒はにこりと笑った。
「中はいつも満席。入れるかどうかわからないんだけど。とりあえず、入ってみよう」
聖の前に立ち、引き戸に手をかける。
その瞬間、柔らかな明かりと賑やかな話し声が、あふれ出してきた。
* * *
――大変申し訳ないのですが、本日ご予約のお客様はすべてお断りすることに決めました。直前のご連絡となりまして申し訳ありません。
聖が樒を車で迎えて、さて出発という矢先の出来事。予約していたレストランから、着信。
――当店でお食事されたお客様が、食中毒になった疑いがあるとの連絡を受けました。まだ確定ではありませんが、場合によっては営業停止になる恐れもあります。それを受けて、本日も自主的に営業を取りやめることに決定しました……。
苦しげな口調ながら、丁寧な説明。
聖は同業者として大いに胸を痛めて、気落ちしないようにと相手を励ましつつ、「落ち着いた頃に改めて予約を入れます」と告げて電話を切った。
助手席で腕を組んで深く座っていた樒に、事情は筒抜け。「それなら俺のおすすめのお店でも行ってみようか? 魚屋さんがやってる料理屋さん。説明しにくい場所だから運転代わるよ」と言われて、代案もない聖は素直に連れられてきた次第である。
店はすでに混んでいて、入り口付近のテーブル席はほぼ満席、奥のカウンター席がいくつか空いていた。テーブルの間を忙しそうに歩き回っていた女性店員から、「お好きな席にどうぞ」と愛想良く声をかけられる。
聖が視線を滑らせて周囲を確認していると、樒に「あっちの方が良いんじゃない?」とカウンター席を促され、聖も頷いた。席の作りがぐるりと調理場を囲む形で、料理人の手元が見えていたためだ。
(客層はご近所の年配男性グループって感じかな……)
カウンターに近づくと、火にかけられた鍋から立ち上る湯気が熱気となって漂っていた。ぐつぐつという小気味良い音に、まな板の上で刻まれるトントンという軽快なリズム。
壁に貼られた、色のあせ始めたビールの宣伝ポスター、土産物風の三角のタペストリー。調理場の後ろの棚にずらりと並んだ日本酒のボトル。どこも年季の入った印象であるが、埃をかぶっているところもなく清潔そうだ。
「この店、何食べても美味しいよ。最初は刺し身の盛り合わせかな。お酒は? 帰りも俺が運転する」
「そういうわけには」
「とは言っても、目印なかったから、道覚えてないよね? 住宅街の中だからナビも新しい道把握してなかったりするし。いいよ、飲みなって。お酒と料理のバランス見るのも大切な勉強でしょ」
墨で手書きしたようなメニューに目を落とした樒は、店員に声をかけて、手早く注文。「お酒もオススメで大丈夫?」と聞いてきて、聖の分を頼んでしまった。自分はジンジャーエール。
その間に、仕事帰りと思しき若い男女が続々と来店して、あっという間に満席となる。
「すごい。この店、流行ってる。このへんで、平日のこの時間からここまで勢いよく客が入る個人店、あまり見た覚えがない」
「そうそ、メニューの値段も見て。手頃だよね。それで、料理は絶対に美味しいから。間違いない」
樒の再三の力説に耳を傾けているうちに、聖は口元をほころばせてしまった。
「樒さんの説明聞いていると、それだけでお腹空いてくる……。楽しみ。これはお世辞でもなんでもなく、そういう感覚、俺には新鮮なんです。いつもどうしても身構えてしまうから。楽しもう楽しもうと思っていても、どこかで『勉強しないと、何か少しでも学ばないと』って。美味しければ美味しい理由、まずければその理由。まずいのに店が混んでいればその理由。接客が良ければ、何を良いと感じたかを考える。結局、いつもずーっと考えている」
手元に白木の枡が置かれ、ガラスの細長い猪口がその中に収められる。カウンターの中に立った店員が四合瓶を傾け、冷酒を注ぐ。猪口から溢れ出し、枡いっぱいまで、なみなみと。
樒は蓋を開けただけのジンジャーエールの緑の小瓶を軽く持ち上げて「まずは乾杯」と言うと、グラスには注がずそのまま口をつけた。
聖は猪口を持ち上げて、唇を寄せてそーっと飲む。溜息が出た。
「美味しい。椿の家に暮らすようになってから、日本酒も結構飲むんですけど、好きなんです……」
カウンター側から、目の前に差し出されたのは刺し身の盛り合わせ。
「そっちの醤油とってもらえる?」
樒が、聖とは反対側の客に愛想よく声をかける。
並んで座っていたのは、同じ会社の先輩後輩、といった雰囲気の若い女性二人。「どうぞ」と、醤油さしを片手に持ち、もう片手を添えながら渡してきた。その仕草が、どことなく丁寧な印象で、聖も思わず目で追ってしまった。その間に、樒手ずから、小皿に醤油を注ぐ。
「刺し身食べてみて」
「うん。いただきます」
まぐろと白身魚と、見た目はふつう、と思いながら箸を伸ばし、一口食べて聖は動きを止めた
にこ、と樒がしてやったりというように微笑んだ。
「うま」
「でしょ?」
「なにこれ。値段千円もしてなかったような……、なにこれ、うまい。意味わかんない」
完全に意表をつかれて、聖は「隣の白身魚は」と箸を伸ばしているうちに、気づいたら一人前完食。
「さっきも言った通り、ここ魚屋さんの営業しているお店で、魚がものすごく良いんだ。それをきちんと料理にしているから、本当に何食べても美味しい」
「樒さん、何回も『何食べても美味しい』って言うなとは思ってましたけど、本当にうまい。びっくりした」
「良いねえその反応。ここ、俺のお気に入りの店。連れてきて良かった」
「うまい。自信満々だけありますね。通いたい。住み込みたいくらい。今度昼間に来て魚屋さんの方も見てみよう」
カウンターの中は、まるで家庭の台所のような調理スペース。コンロに流し。暖簾で仕切られた向こう側が魚屋のようで、注文が入るたびに店員が「まだあったっけー?」と材料を取りに行っている。
「煮物も焼き物も美味しいし、焼きおにぎりもいいかな。最後に絶対食べた方が良い」
「食べたい。全皿食べたい」
メニューを握りしめて、文字を目で追いながら聖は唸るように呟いた。
顔を上げて、樒へ視線を送る。
「美味しい料理って、すごい。勉強しなきゃって気持ちがいま全部吹っ飛んでました。普通に、食欲」
「好きなだけ食べなよー。今日は君の行きたいお店に行けなかったのは残念だったけど、こういうのも良いでしょ」
「良すぎてびびってます。樒さんのお気入りのお店教えてもらえて、俺の方が得してる。今日誘ったのが樒さんで良かった」
心の底から言っていたが、樒は瓶でジンジャーエールを飲みつつ「あっはっは」と笑い声をたてて、極めて軽い反応。
(流されてる)
猪口を傾けて日本酒を飲みつつ、聖は続けて出てきたなんの変哲もないエビフライを何気なく食べる。「何これ……」とまたもや轟沈。箸を置き、両手で顔を覆った。
「見た目普通なのに、中身が化け物クラスの」
「中身はエビだと思うよ」
「エビの魔王って感じですよ。うますぎて震えがくる」
「君、反応面白いね~。いま、魔王食べたんだ」
「真剣に言ってる」
相手にされている手応えがない。
聖は顔を上げるなり、前のめりに樒の胸元まで肉薄した。酒が入っていたせいもあるかもしれない。
樒は、黒縁の眼鏡を顔にのせていたが、隠しきれないほどに整った容貌をしている。穏やかに微笑んだまま見下されると、妙に雰囲気があった。
「まずはそのまま楽しんでよ。自分で気づいていないかもしれないけど、君、最近ずっと思いつめた顔していたよ。バリアっていうのかな。敷居を下げろとは言わないけど、ひとを寄せ付けないというのも、君の場合違うでしょ」
「顔?」
「歯を食いしばって前向いて歩いているの。近所なんだ、何度かすれ違っている。君は気づかなかったけど、俺は気づいていたよ。そういうんじゃなくて、もう少し気を抜くところは抜こうか。別に、何か手を抜いたり楽をしろなんて言ってない。たださ、もし君がこの先店を持ったとき、お客様を緊張させて、寛げない気持ちにさせるのは違うだろ。『俺は料理に真剣に向き合ってる。お前らも心して食え』そんな店、やーだよ」
真面目に聞いていたのに、最後はぴしっとデコピンをされて、「痛っ」と聖は額をおさえた。
実際はべつに痛くはなかったが、指の硬さに少し驚いた。
「弦楽器。樒さん、ゴーシュくんだって聞いた。指の皮、硬い。いつも弾いてる?」
「腕がなまらない程度には」
「聞きたい。どういう音色なのか知りたい」
額をおさえたまま、少しだけ目線の高い樒を見上げる。
ふ、と吹き出された。
「口説かれてるみたいなだなぁ。まさかの上目遣いで、甘えられるとは」
「上目遣……そういうんじゃ」
まぜっかえされた気配を感じて、聖は体の向きを変え、まっすぐ前を見る。カウンターの上に並んだ料理を確認し、どこから手を付けようかと、幸せな悩みに没頭しようとした。
そのとき、くすり、というひそやかな笑い声が耳に届いた。
「明日の朝、窓開けるか、庭に出て。川原で弾いてるから。今日は飲んで潰れてもいいけど、ちゃんと起きなよ。結構早い時間だから」
チェロを弾く、と。その意味を理解して、顔を向けると眼鏡越しの柔らかな視線。
「そ、そっちの方が口説いてる……」
否定も肯定もせぬまま、樒は声もなく、楽しげに笑った。