友達!
「順番待ちの紙に名前書いてきました」
ざわざわと人が行き交う中で、香織の元に戻ってきた光樹が告げた。
駅構内。
黄色やピンクといった原色でペイントされたアップライトピアノに、小学生くらいの女の子が向かって、きらきら星を弾いている。
聴衆はまばら。ちらっと目を向けるひとはいるが、足を止めることはない。
どこかで晩ごはんを、という話になった香織と光樹であったが、駅ビルに向かうと決めたところで「そういえば期間限定で、駅構内にストリートピアノが設置されているんです」と光樹が言い出したのだ。
「何番目?」
「すぐ。この後の後、持ち時間五分。何弾こうかな。香織さん、リクエストありますか?」
目を輝かせた光樹に問われて、香織は淡く微笑んだ。
「光樹の得意な曲がいいな。弾きたい曲は?」
「ストリートピアノだし、みんな聞いたことある曲が良いと思うんですよね。岩清水シェフだったらこういうときたぶん『Lemon』弾きますよ。あとウケが良さそうなのは『夜に駆ける』とか……」
「いまのひとが弾いてる曲?」
話を中断して、香織がピアノの方へと視線を投げる。
女の子の演奏が終わったあと、ピアノを弾き始めたのは全身真っ黒の服装をした少年。肩につきそうな黒髪や細い体の線をしているので外見はやや女性的でもあるが、自在に打鍵する骨ばった手は大きく、男性的。
横顔を見ると、光樹とさほど変わらない年齢に見える。
「上手いよね。音が軽くて粒が揃ってて、歌声が乗っているみたい」
「上手い、ですね。アレンジが独特。超絶技巧ってわけじゃないけど、すごく聞きやすい」
少年に目を向けて、考えながら呟いた光樹は、そこで口を閉ざした。耳を澄ませて聞いている。真剣なまなざし。曲が進むほどに、目の色が変わる。
少年の指が止まった。タン、と軽い余韻が消えていく。
辺りには、足を止めて少年の演奏を聞いているひとが何人もいた。
香織は自然と拍手をしながら、ちらりと光樹を見る。
「次、光樹。どうするの?」
「派手な曲。あいつよりたくさん、ひとが足を止めたくなるような」
唸るような低音で答えてから、光樹が香織を見上げる仕草をした。
瞳を炯々と光らせ、口元に不敵な笑みを浮かべている。
目が合った瞬間、喉元に食らいつかれるかと息が止まるほどに、物騒。
「いってきます。荷物お願いします」
香織の手に、背負っていたナップサックをするりと外して渡して、足早にピアノに近づいていく。
椅子を立って歩いてきた少年とすれ違った。少年はちらりと光樹を見たが、光樹は前を向いたまま、気づいたそぶりもなくピアノへ向かう。
椅子に腰を下ろして、鍵盤に手を置いた。
すぐに指が、黒鍵と白鍵の上を走り出す。
(ルパン三世か……!)
響き出したのは甘く艶めいたメロディ。
十指で弾いているとは思えないほど音が多い。右手が滑らかに主旋律を歌い上げている間、左手が軽快にリズムを刻む。互いの音が美しく噛み合い、手と手が近づいた瞬間、腕を交差させて役割を交換しながらも演奏は続く。
「すげ……」
呟きが耳をかすった。
香織の近くに立っていた少年が、目を見開いて光樹の姿を見つめていた。
たった一人の人間が、これほどの音量で、目裏を彩るほどに鮮やかな音色を奏でられるのかと。
言葉を失って、ただ聞くしかできない。
それほどに、空間に響き渡るは圧倒的な音色。
あきらかに、立ち止まるひとの数が増えている。スマホを構えているひとも何人もいる。
叩きつけるような重低音。
弾ける高音。
終わりまで、聴衆に息をつかせる間も与えずに、走り抜ける。
音が消えた後も、辺りを包み込んだ幻想が去らない。
我に返ったように、その場に足を止めていたひとたちが拍手を始める。
その中を突っ切り、最前まで立ち尽くしていた少年がピアノの方へと駆け出す。
ピアノからやや離れた位置に置かれた譜面台の待機用紙を見てから、後続がいないのを確認したらしく、椅子から立ち上がった光樹の元へと素早く歩み寄った。
「もっと聞きたい。すごい。もっと弾いてみて!」
掴みかからんばかりの勢いで、光樹に向かって声を張り上げた。
* * *
向かい合うと、光樹の方がわずかに身長が高い。見下ろすように睫毛を伏せて「なに?」とやけにクールに聞き返している。
「すっげえ超絶技巧アレンジ! よくあんなの弾けるな。もっと聞きたい」
「持ち時間五分」
「アンコールかかってるって。ほら! 後にも待ってるひといないし!」
少年は大げさに両腕を開いて周囲に集った人々を示してみせる。
(アンコール?)
ひとまず香織は拍手を続けてみた。周りのひとびとも拍手を続ける。
光樹がさりげなく辺りを見回す。香織と目が合うと、一瞬だけ目元に柔らかな笑みを浮かべてから、少年へと向き直った。
「さっき聞いた『夜に駆ける』もアレンジすごかった。えっと、何弾く?」
(あいつ、照れてる)
話し方のぎこちなさ。目がさまよっている。妙によそよそしく見えたが、おそらく動揺しているのだと気づいて、香織は小さくふき出した。
一方、光樹の態度が軟化したのを見て取った少年は、さらに前のめりになりながらひどく嬉しそうに言った。
「俺の、聞いてたんだ。ありがとう! 何弾くって、一緒に弾いてくれるってこと? 知ってる曲ならなんでもいいけど。そうだな……『情熱大陸』は?」
「わかった」
「待機表に名前書いてくる!」
少年はぱたぱたと引き返して、すばやくシートに名前を書き込んでから、ピアノの前に立っていた光樹の前へと戻った。
「名字変わってるね。下の名前は光に樹木の樹で『こうき』? 俺は飛鳥。飛ぶ鳥ね。行こう」
シートに書いてあった光樹の名前をしっかりと確認したらしい。
ぽん、と光樹の肩を押してピアノの方へと忙しなく早足に近づく。
つられたように光樹も歩み寄り、飛鳥少年と椅子を分け合って座った。
二人で顔を見合わせる。周囲には聞こえない音量で、二言、三言、言葉を交わす。飛鳥が光樹の肩を肩で小突き、光樹が口元に笑みを浮かべたまま、いきなり鍵盤に指を振り下ろした。
負けじと、飛鳥もまたメロディを奏で始める。
演奏者が二人になった効果は、目覚ましかった。音の厚みが、先程とはまったく違う。
さらに人々が足を止める。
たった今出会って、本当に簡単な打ち合わせだけで、息もぴったりに弾き続ける二人の楽しげな横顔を、香織は瞬きすら惜しんで見つめた。
* * *
「『何弾く?』って聞いたときは、リクエストを聞いたつもりで……。一緒に弾く? って聞いたつもりではなかったんだけど」
その後、駅ビルの中のラーメン屋で三人でラーメンを食べる運びになった。飛鳥が光樹に興味津々で「この後どうするの? ごはん食べるの? 一緒に良い?」と、離れなかったのである。
光樹も満更ではないようで、やや突き放したような口調ながらも、飛鳥がぐいぐいくるのをそこまで邪険にしている様子はない。
互いに学校名やピアノの先生の名前などを言い合い、今まで特に接点はなかったことを確認。光樹が「発表会関係は出て無くて……」と言うと飛鳥はひたすら「それだよそれ! もったいない! 不世出の天才! なんで出てこないの? コンクールとか勝てるよね?」と納得いかない様子でまくしたてていた。
若宮飛鳥。高校一年。勢いが、ある。
カウンター席で無言で並んでラーメンを食べていた香織は(若い)としみじみ思っていたが、不意に光樹越しに飛鳥に顔を覗き込まれる。
「お兄さんも言ってやってよ! 才能の持ち腐れだって!」
(お兄さん)
香織も光樹も、否定も肯定も出来ずに押し黙ってしまう。
その空白の一瞬をどう思ったのか、飛鳥はラーメンを口に運んで咀嚼してから「絶対すごいのに」と妙に悔しげに呟いていた。
「全然人前で弾かないわけじゃなくて、今はレストランで弾いてる。ディナーのときに生演奏」
飛鳥の剣幕に負けたのか、光樹が言い訳がましく言う。途端、目を輝かせた飛鳥に「それってプロじゃん!」と騒がれ、根掘り葉掘り「海の星」に関して質問攻めされまくっていた。
「香織さん、ゆっくり食べれてないですよね。なんかこう……」
先に香織が食べ終わっているのを見て、光樹が申し訳無さそうに眉間に皺を寄せる。
「ん、べつに。光樹も飛鳥くんも、麺がのびないうちに食べなよ」
「あの、香織さん、この後ゆっくり珈琲でも飲みませんか」
「そんなにオッサンに気を使わなくていいよ。若い者同士で仲良くやって」
香織は頃合いを見て立ち去る心づもりになっていたが、光樹は香織に向かって見透かしたかのように低音で言い放った。
「帰らないでくださいね?」
「だから気にしないでって。なんかすごいよね。ピアノって特技が共通点になって、今日会ったばかりの相手といきなり友達になれるなんて。おじさんになるとそういうことないから」
「飛鳥は特別ですよ。俺だってこんなこと今まであったわけじゃ……」
食い下がる光樹と香織が言い争いのようになる最中。
飛鳥が、目をキラキラとさせながら光樹の腕に手をかけた。
「俺って光樹の特別なんだ?」
「ああ? べつに、スペシャルの意味の特別とは言ってない。意味合い的には奇妙の方だよ、ぐいぐい来すぎなんだって」
またもや、じゃれあいを始めた二人の横で、香織はグラスの水を飲み干した。
(高校生さすが。こんなにすぐに「友達」になれるのか。そんな青春俺あったかな)
遠い目になりかけたところで飛鳥が「お兄さんのこと、名前で呼ぶの?」と光樹に対して明らかに余計な質問をしていた。
さてこの関係性をどう誤魔化そう、耳にした香織がそう思ったところで。
光樹に腕をしっかりと掴まれる。振り払うこともできないくらいの強さで。
「この人は友達だから名前で呼んでる」
「お兄さんじゃなくて?」
「友達! 仲良いひと!」
狭い店中に響き渡るほどに、やけにきっぱりと断言された。
(誤魔化さないんだ)
腕に食い込む指の力強さ。
友達。
何も言葉を挟めぬまま、香織は光樹の意志の強そうな横顔を見つめた。