山笑う
いざというときの都合の良い男→椿香織(30)
* * *
工場作業は早朝からだが、終わるのは夕方比較的早い時間。事務処理などのデスクワークをしていても、いつも十七時前には体が空く。
すでに日が落ちて暗く冷え込んでいる冬場ならまだしも、まだ宵の口というにも早い。春めいた空気、空も明るい時間帯とあっては、職場から徒歩数十秒の家に帰るだけの生活はいかにも味気ない。
(今日、西條と藤崎さん一緒に食事なんだっけ。ひとりなんだよな……)
自宅に帰り、作務衣から私服に着替えて庭をのぞむ縁側に腰を下ろす。誰かに会う予定も、出かけることもないのに、きちんとアイロンをかけたシャツに着替えてしまうのは習い性。
片膝を立てた姿勢でぼんやりと庭の草木に目を向けていると、人の立てる物音が耳に届いた。
「帰ってたんだ、藤崎さん。お疲れ様……?」
振り返って、相手を確認して、口を閉ざす。
誰が見ても「美人系」との認識になるであろう藤崎エレナは、普段は清楚な印象の服装が多い。ひきかえ、ルームウェアはビビッドカラーも多く、外向きよりは弾け気味だというのは、同居人である聖とも意見が一致しているところであったが。
この日は、フリル袖のクリーム色のトップスに、デニムのホットパンツ。首や腕にいつもよりアクセサリー多め。
(そういう服、持ってたんだ。西條とのディナー、そういう感じ?)
やや弾けた服装の藤崎エレナに動揺しつつも、香織は平静を装って口を開いた。
「普段と雰囲気違うけど、似合うね」
(足が綺麗。だけど寒くないかな。夜は冷えるよ)
思ったことの、半分も言えない。セクハラとの線引きが難しすぎる。言って後悔するより、言わない方がよほど良い。
エレナは抜群の笑みを向けてきた。化粧もいつもとは違うのかもしれない。目元の可憐さが際立ち、子猫のような可愛らしさが漂っている。
「ありがと。今日は子どもたちの引率だから。どういう感じが良いのか考えたけど、あんまり浮かないようにした方がいいかなって。若い子の間におばさん混じっている感じになるの、微妙にテンション下がりそうで。私じゃなくて、周りのね。でもそこまで若いふりもできないし、悩みすぎてわけわかんなくなったけど、似合っているなら良かった!!」
著しく、早口であった。
事情が飲み込めないまま、香織は問い返す。
「子どもたちの引率? 西條は?」
「未成年グループとカラオケなの。飲酒するとかタバコ吸うとか言い出したらどうしよう。大人として全力で止めないと。見て見ぬふりはできないから……っ!! 西條くんは知らない。ディナーの話はなくなったから」
「よくわからないけど、そうなんだ。えーと、いってらっしゃい。夜道気をつけてね」
「いってきまーす!!」
怒涛のような勢いで会話終了。急いでいる様子のエレナは、珍しくバタバタと忙しない足音で走り抜け、家を出て行った。
残された香織は、何をするでもなく座ったまま、庭に目を戻す。エレナが現れる前、何を考えていたか思い出せない。何も考えていなかったかもしれない。実のあることは何も。
いくらもしないうちに物音が聞こえ、ちらりと居間の方へと目を向けると、今度は聖が姿を見せていた。
フォーマル過ぎないライトグレーのジャケットに、白いシャツ。首元にシルバーのアクセ。黒のパンツ姿で足の長さが際立っている。
「あれ、ディナーなくなったんじゃ?」
「何が? 行くよ。樒お兄さんと」
真顔で言い返されて、香織は真意を図るように目を見つめてしまった。冗談の気配はない。
「お前見境ねーな。優しくしてくれる男なら誰でもいいのか」
「相手は選んでるよ。てか、なんの話だよ。藤崎に用事が出来たから代打を頼んだんだ。道を歩いていたから」
(歩いていたから、って。それ、野良犬でも良いってことじゃないのか)
口出しするようなことでもないので、香織は沈黙する。
聖は「あ、そうだ」と思い出したように言った。
「樒さんのこと、何か知ってる? NG食材も全然確認しなかった。アレルギーなんかあるなら店に早めに連絡しないと」
「知らない。町内会の集まりとか、ふつーに出されたもの食ってるイメージ。プライベートの話はあんまりしない。知ってることって言えば……、ああ、音大卒だよ。チェロ」
「へぇ。本当にゴーシュくんなんだ」
樒の店、セロ弾きのゴーシュの店名になぞらえて言う聖に、香織は「いやいや」と首を振る。
その名の童話作品における「ゴーシュ」は、楽団のあまりうまくないセロ弾きだが、樒の腕をたとえるには不適切。
「上手いよ。あのひと、アホみたいに上手い。ゴーシュくんではない。たまーに川原で弾いていたけど、音の響き方が神。珈琲淹れているよりどっかの楽団にいた方が良いようなひと。もったいない」
「そうは言っても、珈琲も美味いからな。この界隈の珈琲飲みからすると、いなくなられたら困るだろ。そうだ。俺も店出すときに豆お願いしよう。『海の星』で最初に飲んだとき、珈琲良いなって感動したんだ。ちょうど良かった」
言い終えると同時に、背を向けて出ていこうとする。
ディナーだよなと考え、「時間、早くない?」と声をかけると、戸口に手をかけていた聖が肩越しに振り返った。
「車出すから、洗車してくる。ここのところ、沿岸走らせたり山行ったりで、汚れてるんだ」
「そうか。いってらっしゃい」
「おう。じゃあな」
さっと出ていく後ろ姿。
再びの静寂。
(カラオケとディナー……。俺、予定ねーな)
誘う相手もいない。一瞬浮かびかけた伊久磨の顔はすぐに打ち消す。既婚者だ、と(※未婚)。
他に友達と呼べる相手がいないわけではないが、当日突然飲もうと気安く誘うことはできない。家庭があったり、仕事終わりが遅い相手で一緒に飲むと翌日の自分の仕事に響いたり。
しかし、春の陽気を感じていると、家でひとりぼんやりも間が抜けた気がする。
食事を作る気にもならないし、外に出て何か食べて来ようと決め、重い腰を上げた。
* * *
歩きだしてから、自分が(ばったり誰かに会わないかな)という薄い期待を抱いていることに気づいて、自己嫌悪。
商店街を通り抜け、川にかかる橋の上で、遠く正面にのぞむ山をしばし見る。
川面はオレンジの夕日を受けてきらきらと輝き、カモがぷかぷか浮いていた。
「山笑う……」
独り言を呟いてしまい、慌てて口を閉ざす。
さりげなく周囲を見回すも、気にしているひとなど誰もいない。走り抜ける自転車や、足早に通り過ぎていく数名の姿があるのみ。
(新作でも考えよう、かな。湛さんが育休に入る前に、相談しながら。SNSで映えるような可愛いの。可愛いのに関する感性ってどこで磨けるんだろう。本屋でも行く?)
ぐずぐず考えていると、近くを風が吹き抜けて、自転車が止まる。
「やっぱり香織さんだ。こんにちは」
「光樹……!」
積極的に誰かに声をかけないくせいに、知り合いにばったり会えたら良いなと期待していた三十歳。
未成年の知人に遭遇しただけでにわかに色めきたつ。
「ピアノの帰りなんですけど。天気良いから少し遠回り。香織さんっぽいひとがいるなと思ったら、香織さんだった。どこかに行くんですか」
尋ねる前から必要十分な説明をされて、香織は「ひまなの?」と前のめりに食いつきそうになりながら、自制する。聞かれたことに答える。
「俺はなんとなく、ぶらーっと。うん。光樹の気持ちわかる。春になったから、まっすぐ家に帰るの、もったいない気分にもなるよね」
「べつに俺は徘徊しているわけじゃないですけど。帰るときは帰りますし。でもま、ここの道、気持ち良いですよね」
光樹の目が、オレンジ色に染まった川の方へと向けられる。
香織もそちらに目をやってから、不意に合点がいった。
(そうだ。光樹の目的はネコ娘か。あいつも最近この辺うろついているから。なんだ光樹まで「うろうろしていたらばったり会わないかな」って考えか。会ったのが俺で悪かったな)
ネガティヴ寄りの思考でいじけるところまでセット。
もちろんそんなのは表に出さずに「今からなんか食べに行く?」と笑顔で尋ねた。
「家で、もう晩飯用意しているんじゃないかな。香織さんは、この後の予定は」
「……無いけど」
「ひとり? 香織さんって、お金持ってて見た目も良くて時間の融通もききそうですけど、付き合っている相手、本当にいないんですか。趣味は?」
無いけど。
(趣味ってなんだよ。趣味のある大人なんかそうそういねーぞ。よほど「このままじゃ人生だめだ」と思って無理に何か探さない限り、大人になるとなんにも無いんだよ。俺の場合、高校生の頃から修行していたから、そもそも若い頃から何も無いけど。そこまで時間の融通もきかないし)
「光樹はピアノがあっていいよな。習い事って大切だよ」
しみじみと呟いてしまった。
(樒さんのチェロや柳の歌に惹かれるのも、案外そのへんのコンプレックスだろうな)
光樹は沈んだ空気でも察したのか、自転車から下りて、押し歩くようにハンドルを握った。
「俺もこの後、これといって何かあるわけじゃないんで。家に連絡すれば晩飯くらいは。でも奢られるのは困るので、ラーメンとか、そのくらいなら」
「なんか俺に対して、ものすごく気を使ってない?」
「しけた顔して、川に飛び込まれたくないんで」
「柳じゃないし、飛び込まないよ!?」
混ぜっ返されながら言い返して、並んで歩き出す。
「そういえばさっきなんか言ってませんでしたっけ。『山笑う』?」
「あれ、聞こえたの? 春の季語だよ。『山滴る』『山粧う』『山眠る』って続くの」
「山見ながら季語呟くって、香織さんくらいだと思う。そういうの、なんか良いよね」
「そう?」
ちらっと横を見ると「はい」と軽く返事をされる。
(高校生にすごく気を使われた、けど)
周囲には誰もいなくて、自分には何もなくて、ゴーシュにもなれない。
鬱屈と抱えていた気持ちが不意に春の風にとけて、胸の中からさらりと流れていった。