つやつやのだし巻き卵
黄色くて、つやつやで、一切の焦げ目なし。
(そのままパッケージングしてしまえば、なかなか良いお値段で売れそう。それこそ包み紙に料亭の名前を書いても、誰も疑わないレベル)
粉ひきの柔らかい風合いの皿にのせられた卵焼きの一片をしげしげと見て、藤崎エレナはそっと溜息をついた。
――和食の課題で卵焼きが試験に出る? ん~、作れるけど、作ってみようか。
朝の光が窓から差し込む台所にて。
顔を合わせた家主の椿香織との間で何気なく話題にしたら、簡単に最高級品を仕上げられて、言葉も出ない。
(器用過ぎる。和菓子職人、和食もプロレベルだなんて。香織さんってやっぱりハイスペック。只者じゃない……)
「おはよう。その卵焼きうまそう。俺の分ある?」
台所に顔を出した西條聖が、テーブルの横を通り過ぎながら言う。
冬に髪を切り落とした聖だが、少し伸びてきていて今は後頭部でざっくりと一房結んだ髪型。カーキのシャツにダメージジーンズで、休日感のある気楽な普段着姿。
エレナは、早朝の作業から戻ってきた作務衣の香織とテーブルで向かい合ってお茶を飲んでいたが、ちらりと聖の背を見上げた。
引き締まった細身で、背筋が伸びていて、抜群の存在感。一瞬、高校時代の彼の後ろ姿が重なる。その隣には、彼と結ばれた親友の西條常緑の幻。
光を浴びながら聖を見上げて、微笑む。
(あの二人は、一緒に暮らした時間、すごく短かった……)
流しで手を洗った聖が振り返った瞬間、幻はかき消えた。
「おはよう。鍋に味噌汁。あとおにぎりあるよ。今日は藤崎さんが」
のんびりと香織が言う間に、聖は戸棚に向かってお椀を取り出し、まだあたたかい味噌汁をよそってテーブルまで戻ってきた。
ごく自然にエレナの隣の席に座ると、手を合わせて「いただきます」と言って味噌汁を一口。
「美味しい美味しい。藤崎、これから学校なのにありがとう。おにぎりももらう」
箸でテーブル中央の大皿に置かれた小ぶりのおにぎりを二つ、取皿へ。一口食べて「美味しいよ」と言ってから、香織の方へと顔を向けた。
「米も水も美味しいんだよな、ここ」
湯呑を手にしていた香織は「そうだねー」と相槌を打ってから続けて話す。
「野菜も肉も魚介類も美味しい。鮮度も良いまま使える。だけど素材が良すぎるから、工夫しなくても美味しい料理ができちゃって、街場の料理人の腕が上がらないって。ヒロシェフが言ってたけど、わかる。切って焼いて出せば全部それなりの味だから、どこの店でもわざわざ手をかけないんだよ」
「それはある。市内何軒か食べ歩いてみたけど、素材のわりに料理がぱっとしない印象だった。由春みたいに、修行に出た料理人自体が少なそうだ。英司なんかはよくやってる方だと思う」
「英司って、フェリチータの?」
「そう」
聖は話す合間に、卵焼きも一切れ。箸でつかんで、口に運ぶ前に止めて、感嘆の声。
「すごく綺麗な卵焼きだな。断面が芸術品。藤崎こんなに上達したの」
湯呑に口をつけていたエレナは、噴きそうになって慌ててお茶を飲み込んだ。
「違う違う、それは香織さんが作ったの。調理師学校の初級テストの課題が、洋食がオムレツ、和食が卵焼きで。卵を割って出汁を入れて焼いて巻けばいいってわけではなくて。それだけでも私レベルだと手一杯なのに、求められている水準が高いのなんの」
「そりゃそうだ。学校は一応、プロの養成を看板に掲げているわけだから。洋食のオムレツだって、極めようと思ったら一生ものだぞ。出来はどうだ?」
卵焼き美味いな、と食べて呟きつつ、聖がいつもながらに手厳しい口調で言う。
「オムレツも、先生の見本のようにふわトロがいかに難しいかがわかってきたところ。自分では出来ているつもりでも、火の通り方が全然違っていたりして。家庭用のコンロの火力じゃうまくいかないとも言われた。放課後に、調理室の使用ができるから、学校で練習している子もいる。卵十パック買ってきて、えんえんとオムレツを……。食べ切れるわけがないから、全部捨てるの。料理の道は厳しいと知ったわ」
「そういう環境で短期的にうまくなろうとすると、そうなるのかな。食材を無駄なく使うことはレストランの基本だけど、失敗品をお客様に出すわけにもいかないから、上手くなるまでは……」
話題が料理ということもあり、朝から思いがけず三人で話し込んだ。
血の繋がりもなく、恋愛関係にもない男女三人同居生活。全員、今年三十歳。和菓子屋の店主、レストランの出店準備中の料理人、調理師学校に通うレストランアルバイト。
(三十歳の自分が、こういう生活をしているとは思わなかったな)
大学を卒業して企業に勤めたら、そのまま大きな問題もなく年数を重ね、結婚しても退職せず、産休育休をとってキャリアを継続するのだろう。たとえばそういう未来を思い描いていた。
それがいま、縁もゆかりもない地方都市で、専門学校に通いながらアルバイト。高校時代に憧れていた相手と、元彼氏と三人で暮らしていて、それなりに仲良くやっている。
将来には少し不安もあるが、現状大きな不満はない。
ぬるま湯のように、心地よい生活。就職してから東京でずっと忙しく生きてきたのに比べると、びっくりするほど人間らしく暮らしている。
世間的には、あまり理解される関係ではないかもしれないが。
(西條くんがこの家を出るとか、香織さんが結婚するとか。何かしら動きがあれば解散。その日はいつか必ず来る……)
先日、香織の誕生日の席で、初めて柳奏と顔を合わせた。香織に助けられて以来、猛アタック中で、ついには椿屋で働き始めた高校生と聞いていたが、いざ本人を目の当たりにすると少し想像とは違った。
年齢より幼くも見えるが、ときどき影のある表情をする。
香織は「高校生なんて雇いたくない」とぶつぶつ言っていたが、結局引き受けたのが少しだけわかる気がした。危うく、目の離せない印象の女の子。いかにも香織が放っておけない空気。
あの二人はこの先もしかして長い関係になるのでは、と思ってしまった。ただの勘。
一方で、聖が家を出て行くというのも、そう遠くない未来でありえそうだと覚悟している。
であればそのとき、自分も慌てないために、身の振り方をよくよく考えておかねばと思うのだった。
頃合いと見てエレナが席を立つと、聖が顔を上げた。
「藤崎。今日『海の星』休みだろ。夜に行きたい店があって、二人で予約入れてるんだけど、どう?」
「私と?」
「そう。フレンチでコース料理。一人より二人の方がいいかなと。その方が店の雰囲気もわかるから。支払いは気にしないで、俺の勉強だから」
二人が話し始めたのに気を使ったわけではないだろうが、香織も「俺もそろそろ戻るね」と言いながら席を立つ。「食器俺が洗うから、そのままで」と聖が声をかけた。ありがと、と言いながら香織はさっさと出て行ってしまう。
その後ろ姿を見送って二人きりになってから、エレナは「ええと、はい」と間の抜けた返事をする。
聖は気負った様子もなく「当日に誘って悪いな」と言って湯呑の茶を飲み干した。エレナは気の利いた返しも特に思い浮かばず「じゃあ、学校行ってきます」と頭を下げて、その場を後にする。
「藤崎。予約十八時半だから。店の詳細あとでメッセージ入れておく。向こうで直接待ち合わせで」
声が追いかけてきて、振り返って「はい」と答えてから、足早に台所を出た。
(待ち合わせ。フレンチでディナー。西條くんと。仕事。勉強)
それ以外の意味なんかあるわけがない。
何せ、朝食の席で、香織もいる場所で、何気なく誘ってきたくらいなのだから。他の理由がなく、勘違いもしようがない食事だから。
わかってる、わかってる、と思いながら歯を磨く為に洗面所へと急ぐ。
洗面台に向かい、三つ置かれた歯ブラシスタンドのひとつから歯ブラシを手にして、顔を上げた。
鏡の中の自分の顔を見る。
「意識するようなことじゃ……」
明らかに、顔が赤い。言い訳がましく独り言を言いながら、洗面台の縁を強く掴んで、エレナは小さく呻いた。
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