花束と文庫本
「こんにちは」
ベンチに座っていた男が、通りすがりに声をかけてきた。
さわさわと風に緑を揺らす街路樹の下。読んでいたらしい文庫本を膝の上で閉じて、顔を上げている。
濃い茶色の髪。眼鏡をかけており、レンズの向こうの瞳はガラスのように澄んだ茶色。モノクロ映画の外国人俳優のように、整った面差し。年齢を感じさせない容貌だが、四十代程度には見える。
声をかけられ、そこまで見て取った岩清水大豪は「どうも」と無難に返事をした。知った顔ではないが、思い出せないだけかもしれない、と記憶を探りながら。
男はゆったりと背もたれに背を預けたまま、透き通るまなざしで見上げてきた。
「お墓参りですか」
大豪は、目を瞬く。
手に抱えていたのは、大ぶりの花束。およそ墓前に供えるようなものではない。街中で、墓地が近い場所でもない。
それなのに、なぜそんなことを確信めいた口調で言い出したのか。
心臓に指をかけられたような奇妙な息苦しさ。目を細めて、尋ねる。
「誰だったか全然思い出せないんだけど、名前を聞いても良いだろうか」
「穂高です。西條聖の育ての親です。岩清水さんだと思って、声をかけています」
あるか無きかの風が、するりと吹き抜ける。
間をおいてから、大豪は「当たりだ」と答えた。口にした途端に、笑みがこぼれる。
綺麗な、何もかも見透かす瞳には覚えがある。圧倒的な純度。似ている。他人を寄せ付けないほどに澄み切っていながら、慈しみと悲しみの光を湛えたその瞳。
頭上の枝から、羽音。若葉を突き抜けるように、空へと鳥が飛び立った。
「墓参りだと思った理由は?」
「僕はいま旅の途中で、そこの椿屋さんにお世話になっていました。先代の息子さんが、桜の季節に亡くなったと聞きました」
答えながら、穂高と名乗った男は立ち上がる。姿勢がよく上背があり、薄いトレンチコートがよく似合っていた。
視線を合わせたまま、大豪は告げた。
「亡くなった息子の息子が現当主だろ。昨日誕生日だったと聞いて、花を」
「両手に余るほどの花束を?」
「花屋に行くと、ここからここまで全部使ってくれ、と言ってしまうので。大きくなる」
嘘ではない。色合いや予算を適当に告げ、後はお任せ。
それなのに、穂高はいまだ不思議そうに見てくる。
その鼻先に、花束を突きつけた。かすみ草が頬をかすめた。穂高は目を伏せて、花を確認するようなまなざしになる。そのまま、聞き取りやすい声で話し始めた。
「本当かどうかわからないんですけど、以前聞いたことがあります。年末より、年始の方が少しだけ死者が多いと。新しい年を迎えるまで、とその数日頑張るひとがいるとのことです。椿の家で亡くなった方も、息子さんの誕生日を越えるまでは生きたそうです。よほど、死にたくなかったのでしょう。本当はもっとずっと、生きたかったはずだ。子どもと自分、どちらかが死ななければいけない状況なら、子どもを生かしたい親はたくさんいると思います。だけど本当のことを言えば、幼い子どもを残して死んで良いと思っているわけがない。生きられるなら、その次の誕生日も、次の次の誕生日も、ともに迎えたかったのだろうと思います。死にたくないというのは、そういう思いの積み重ねだと、僕は考えています」
色のついたガラス玉のように透明な瞳に、鋭い光が宿っていた。大輪の花とかすみ草の向こうから、痛いほどの視線を投げつけてくる。
それは、有無を言わさぬ気迫。咄嗟に言葉が出て来ずに大豪は黙り込んだ。
目の前にいるのは、弛んだ生活とは縁のない、野生の獣の獰猛さを漂わせた男。日常より遠く離れた場所に生きていると思わせる、異質な存在感が垣間見えた気がした。
風が吹いて梢が鳴る。
穂高は瞬きひとつで光を包み隠し、柔らかい調子を取り戻して、言った。
「夕方、仕事が終わってから、お墓参りにいくと言っていました。十六時くらいでしょうか。行くおつもりならその時間帯が良いと思います」
「さて、どうかな。墓に行っても、死んだ人間に会えるわけじゃない」
くす、と穂高は声をたてて笑う。
「僕もずっとそう思っていました。いつでも行ける。行きたくなったときに行けば良い。だけどある日気づいたんですよ。よその家の、知らないお墓を探すのって、大変なんです。ドラマや映画で、お墓参りのシーンを見ることがありますけど、あんなの現実では不可能です。どこの墓場の、どのへんにあるのか、きちんと聞いておかないとまずたどり着けません。行く気があるなら、お墓の場所を知っているひとと一緒が良いと思います」
「行くと、決めている口ぶりだ」
「はい。岩清水さんは、他人に人生を決められるのを良しとするひとでは無いと思いますが、この場では僕が決めておきます。行った方が良いです。行きましょう。墓は墓でしかありません。そこに故人はいない。だけど、『死』を見つめるきっかけにはなる」
言い終えてから、少し顎をひく。
花束から立ち上る香りを胸いっぱいに吸い込むような素振りをして、微笑んだ。話しすぎました、とひそやかな声が花の向こうから届いた。
「まったくだ。初対面だぞ」
大豪が呆れて言うと、「そうでした」と悪びれなく答えられる。
そのまま、一歩後退した。
「それでは、僕は行きます。旅の途中なので。聖をよろしくお願いします。僕は料理に関しては応援しかできませんが、聖はまだまだ未熟者じゃないかと。導いてくれる存在を必要としていることと思います」
軽く頭を下げてから、用事は全部済んだとばかりに歩き出す。
すれ違いざまに、「では」とだけ言って、去った。知り合いとも言いがたい微妙な間柄ながら、「おう」とだけ応じる。
足音はすぐに聞こえなくなった。
ふと、彼が座っていたベンチに目を向けると、文庫本が一冊置き去りにされている。
意外と抜けているのか、それともわざとなのか。
近寄って、拾い上げて、ため息とともにジャケットのポケットに入れた。聖に渡せばいいのかな、と考えるでもなく考えながら、若葉の向こうの空を見上げる。
――僕が決めておきます。
(飄々としてとらえどころがない割に、強引な口をきく)
見透かすような瞳を思い出し、大豪は今一度深いため息をついた。