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ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
5 そこに吹く風
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Bon Appetit !!

 午後の日差しの射し込む中、夏月は客席でパソコンを開いてしずかにキーを叩き始めた。


 空調はきかせていたが、ここまで歩いてきて暑かったのか、上着を脱いで椅子の背にくたりとかけている。

 飲み物でもすすめようと、伊久磨は驚かせないように少しだけ足音を立てて近づいた。


「上着、ハンガーにかけておきますね」

 控え目に、声をかける。

「ん。そんなにたいしたものじゃないよ。形状記憶で、洗濯機に突っ込んで洗ってる。皺にはならない」

 夏月は、指で顎をつまんで、画面から目を離さず答えた。


 ロイヤルブルーのシャツに、黒のサスペンダー。ネクタイはしていない。横顔は若いが、童顔の印象なので、実際は三十歳を超えていそうだ。黒髪に、少しだけ若白髪が見える。

 伊久磨は、上着を手にした。

「クロークに入れておくので、必要な時は声をかけてください。お茶飲みますか」

「うん……」

 無意識のように、ビジネスバッグからのぞくペットボトルに手を伸ばしてから、思い直したのか夏月は顔を上げた。


「お願いして良い?」

「コーヒーと紅茶と、あとは……」

 夏月は、クスッと笑いながら、伊久磨を面白そうに見上げる。

「コーヒーがいいな。はるすけ、豆の管理うるさいでしょ」

 ハルと呼んだり、はるすけ、と愛称のように呼んだり。

 どういう距離感なんだろう、と考えつつ、聞かれたことに答える。

「はい。鮮度が命、ですね。コーヒーの味を決めるのは値段よりも鮮度だと言われているので。焙煎しているお店で、使い切る量で買うようにはしていますが」

(しきみ)?」

 話の流れを読んだように単語で尋ねられて、伊久磨はついまっすぐ見返してしまった。


「樒さんをご存知ですか」

「うん。あの人まだ店潰さないでやっているんだ。あのやる気ない店。他にもっと良い店見つけたら乗り換えちゃいなよ。付き合いで使う必要ない」

 からりと明るい口調でシビアなことを言う。

 樒はコーヒー豆を仕入れている店の店主の名前だ。椿屋の並びの、観光地的に整備された小綺麗な通りに喫茶店を構えており、伊久磨の知人でもある。由春も古い知り合いと言っていた。

 この人は。

(部外者にしては、詳し過ぎる)

 伊久磨は、微かに目を見開く。

 SEとは言っていたし、同業者らしさはないのだが、過去のいつかの時点で、由春の道に関わりを持っているのではないか、との感触を得た。


 ――夏月、遅ぇぞ。

 ――俺が遅ぇって言ったら遅ぇんだよ!! 昼飯食ったかって聞いてんだ


「おい、できたぞ」

 キッチンから皿を持って由春が現れた。夏月がぱたりとパソコンを閉じて、隣の椅子のバッグの横に置く。

 由春はおしぼりと氷水の入ったグラスを左手でテーブルに置いてから、夏月の正面にやや芝居がかった過剰な仕草で皿を差し出す。パンチェッタと小エビ、唐辛子やハーブを散らしたシンプルなパスタ。

 置いた流れで皿を手で示し、張りのある声で料理名を告げる。

「アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ」

 夏月が顔をほころばせて由春を見上げた。顔を見合わせて二人で笑う。同時に口を開く。


Bon(ボナ) Appetit(ペティ)!!」


 声が揃って、言い終えてから夏月が笑い出す。

「なんだ、食えよ」

 照れ隠しのようにぶっきらぼうに由春が手で促すと、小首を傾げて夏月が軽やかに言った。

「そうは言っても、ハル。フォークくらいちょうだい」

「ああっ!?」

 やりとりを背で聞くタイミングで伊久磨は身を翻してパントリーに向かっており、籐製のカトラリーケースにダークブラウンのナプキンをのせ、スプーンとフォークを入れて引き返していた。


「どうぞ」

「ありがと。ハル、慣れないことするから。抜けてんだよな」

 おしぼりで手を拭きながら、夏月が遠慮なく由春を弄る。

「お前何好き放題言ってんだよ。この店三人でやってるんだぞ!? 俺、今はバリバリホールもやっているからな!」

 腹の底から声出しているんじゃないかというくらい、うるさい発声をする由春。夏月は目を閉ざして首を振る。

 そして、言い終えたタイミングをはかったように目を開いてちらりと伊久磨を見た。


「邪魔してない? こいつ本当に役に立っている?」

 一瞬。

 自分のことを言われたのかと思って、息が止まった。

 その後に「こいつ」が由春のことを指していると気付いて、夏月をしげしげと見てしまった。


「一番働いていて、一番仕事ができると思います……」

 ばしっと由春に背を叩かれた。「痛い」とそれなりの音量で主張したが、続く大声にかき消された。

「ほら!! 夏月お前適当なこと言ってんじゃねーぞ!! 俺は!! 働いている!!」

 どこを吹く風といった様子でフォークでパスタを一口すくって食べてから、夏月は再び伊久磨に目を向ける。

「よく教育されていることは確かだ。だけどハルは結構だめなところあるからね、だめだと思ったらはっきり言ってやった方がいいよ」

(ええと)

 言う時は言っていたりして、言い過ぎたりもしたりして。

 迂闊に他人に言うに言えない「VS由春」の歴史を思い浮かべて言葉に詰まる。

 そんな伊久磨の微妙な空気に構わず、夏月はもう一口食べて、口の端に笑みを浮かべた。


「……ハル」

 ひそやかな声で名を呼ぶ。

「おう」

 ふんぞり返って答えた由春に対し、夏月はひどく優し気な口調で告げた。


「すごく美味しいよ。料理は、すごく成長しているんだね」

 料理は、と念押しのように続けた。


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