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ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
40 いつかこの日々も
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誰が為に

「空気が気持ち良い。香織、少し飲みすぎてる。こっちに来て頭冷せよ」


 縁側に出てガラス戸を開けると、沓脱石(くつぬぎいし)に揃えて置いてあったサンダルを履いて、伊久磨は庭に踏み出した。

 夜の冷ややかな空気に、溢れる緑と仄かな花の薫り。綻びかけた春の気配。耳をすませば、川のせせらぎがごく微かに聞こえる。


 ――音の無い夜は川の音がするだろ。今、桜がすごいよ。おいで


 記憶の底で、香織が話している。

 伊久磨は虚空に手を差し伸べた。

 かつてこの庭に香織に連れ出された夜、降り注ぐほどに散っていた桜は。

 視線を上向ける。


(葉桜。今日はもう、ほとんど残っていない)


 ――見える? 川の表面が桜に埋め尽くされているの。『花筏(はないかだ)』だよ。


 当時まだ伊久磨は声が出ず、意識は遠く彼岸にあって、会話は成り立っていなかった。それでも、自分で思っているより、耳は働いていたらしい。香織の声を覚えている。


 ――すごい痩せちゃったね。甘いもの好きだったのに。また食べられるかな。今度食べてみてよ。俺が作ったものでもだめ?


「桜散ったよ。ほとんど」


 幻の声をかき消す、現実の肉声。

 もう一つのサンダルを履いた香織が、足をふらつかせながら肩を並べてくる。

 目を向けた伊久磨は、そのまましげしげとその横顔を見つめた。

 年明けに髪を切って、黒くした。実はまだ少し、見慣れない。繊細な横顔はそのままなのに、出会ったときから確実に時間が経過していることを感じずにはいられない。


(香織。俺はあの時から前に進めているかな。香織に寄りかかって、朝から晩まで何もせずに、まるで死人のように過ごしていた。何のために生き残ってしまったかもわからずに)


 香織は、急かさなかった。否定しなかった。受け入れていた。他人なのに。

 どうして、そんなことが出来たのだろう。


「伊久磨? どうした?」


 視線に気づいた香織が、少し見上げるように顔を覗き込んでくる。

 耳に馴染む声。


(記憶にあるよりずっと多く、この声を聞いていたんだろうな。言葉を失った間、そばで話しかけてくれていたんだ。言葉を思い出させようとするように。或いはいっそ、一から言葉を教えようとするように)


「桜、こんなに散っていると、思わなくて」


 心の中の出来事とは無関係に、長閑な口ぶりで答える。


「ここ二、三日だよ。満開の頃西條とは飲んだけど、お前のことは全然頭にもなかった」


 やけに楽しそうに笑いながら、香織はそう言って、歩き出す。

 母屋から離れると灯りが届きにくく、月や星の光が頼り。ちらりと目を向ければ、(かそけ)き光の中にあっても、香織の白い肌がほんのり色づいているのはわかった。


(香織は酔ってる……わけで。多少のひっかかりは見逃す場面なのも、わかるんだけど)


「『全然頭にもなかった』って、俺を目の前にしてよく言う」


 伊久磨は、目を伏せ、手で口をおさえたが、遅い。

 はっきりとした恨み言を口にしてしまった後。


 話し声やざわめきは遠く、川の音がやけに明瞭に耳に届いた。

 立ち止まったのは、椿や躑躅といった低木の常緑樹に囲まれた空間。庭の際。


「そうは言っても、伊久磨はもうこの家を出た。自分の家庭を持とうとしている。以前と同じじゃないよね。というか、同じじゃだめだ。今日、静香いつもよりはしゃいでるけど。静香は静香なりにまだ複雑だと思う。伊久磨も本当は悩んだだろ、静香とこの家に来ること」


 聖に声をかけられたとき、「参加は保留で」と一度答えている。即決できなかったのは事実。

 香織は、それを見透かしていた。


「伊久磨はこの家に暮らしていたことがあるけど、人生でその時代はもう終わったんだ。お前がここにいたときと比べれば、俺と顔を合わすことは少なくなったし、会話も限られるし、お互いについて知らないことも増えた。だけどそれは普通だ。俺たちは一時期家族のように暮らしていたけど、他人なんだ。これからもっと、他人の距離感を取る必要がある。桜が満開で綺麗だと思ったら、伊久磨はそれをいま隣にいる相手と分かち合うんだ。俺のことを思い出すべきじゃない」


 理屈。


(一緒に歩いていく相手がいる。決めたのは自分。香織の言っていることはもちろんわかる。わかるけど)


「『優先順位を落とせ。俺じゃないだろ』って。香織はすぐにそう言う。反論を全部封じながら、すぐに自分を捨てさせようとするんだ。理屈はわかる。俺はこの先何があっても、静香の幸せを一番に考える。だけど、それだけの人間だと突き放すなよ。それ以外の人間の幸せも願って何が悪い。言っておくけどな、静香だって香織が大切だ。香織の幸せを真剣に願っている。その手まで振り払おうとするな。たしかに、疎遠になったよ。会わないし、話さない。だけど心まで離れたなんて、見くびるな。お前、自分が俺にとっての『何』か忘れたわけじゃないよな」


 感情が高ぶって、声を荒げそうになる。

 伊久磨を見上げた香織は、目を見開いて呟いた。


「何……? 俺は伊久磨にとって、何?」

「は……? 本当にわからない? 大丈夫か。大丈夫じゃないな。何せ、俺のことは忘れたって言うくらいだし。別に忘れたなら忘れたでもいいけど。香織が忘れても俺は覚えているから。それこそ、刷り込みみたいに、香織を見たら引き寄せられる。『命の恩人』だからなっ」


 言葉にするにあたり、照れを回避しきれず、早口で言い逃げてしまった。

 だが、生憎と伊久磨が香織に拾われた状況が「命に関わる」であったのは間違いがなく。「命の恩人」その言葉は限りなく真であり、香織もすぐには笑い飛ばせない。

 何度か口を開けかけて、閉ざす。そのうちに、俯いた。先程より、頬が赤くなっている。酔って血の巡りが良いせいか、普段より確実に感情が表情に滲んでいた。


(いつもなら隠してる。素の香織だ)


「だけど伊久磨、もし溺れかけて、一人しか助けられないボートに乗っていたら、迷わないで静香を助けてよ。俺のことは良いんだってば。放っておいても、ひとりでなんとかするから」

「香織が変なこと言い出した。なんの心理テストか知らないけど、そんな状況になったら、静香と香織を助けて俺はボートを降りるよ」

「だめだろ。俺と静香で助かってどうするんだよ。伊久磨がいないと」


 伊久磨が、あまりにも迷いなく言い切ったせいで、香織は焦ったように食い下がる。

 星明かりの下、川のせせらぎを聞きながら、伊久磨は香織をまっすぐに見つめた。


「『伊久磨がいないと』って言うひとが、この世にひとりでもいてくれるのがすごいことだと思う。俺はそれで十分。その上で、やっぱり二人に助かって欲しい。俺は、自分の大切な相手が、自分より先に死ぬことには耐えられない。……生き残ったせいで、大切な人間が増えた。ひとを好きになるたびに、自分が先に死ななければと思う」


 言い終える前に、香織は両腕を伸ばして、伊久磨の両腕を掴んだ。強く。


「何度でも言うよ。伊久磨がいないと、って。お前が思っている以上に、みんなそう思ってるから。お前もまた誰かにとっての『先に死んで欲しくない相手』なんだよ。そこはわかれよ。馬鹿」


 真摯な光を湛えた瞳に、貫かれる。心の底まで曝け出しながら、見透してくる。

 その思いに答えたいと願いながら、伊久磨は言葉を選んだ。


「すぐには難しいけど、少しずつでも……。いまは、忘れないで、覚えておく」


(自分が誰かに必要とされるなんて、現実感がない。それでも、信じることができたら。生き残った自分を大切に思える日がくるのなら)


 茶化さないで、真剣に受け止めた。香織の心を。

 その伊久磨を、訝しむように目を細めて見つめながら、香織はぼそりと呟いた。


「心配だな。お前ほんっと忘れっぽいから。ほんっとに。自覚あるよね?」


 * * *


「俺も風にあたりたかったんだけどな」


 伊久磨と香織がふらりと庭に出たあと、沓脱石を見下ろして、聖が呟いた。さすがに、履物がもう無い。

 諦めて縁側に腰をおろしたところで、隣にグラスを持った紘一郎が座った。


「お疲れ様、聖。すごく美味しかった。また腕をあげたね」

「そりゃ~~、ガキの頃から誰かさんのおかげで鍛えられてますから」


 冷酒の入っているグラスを、紘一郎のグラスにそっとぶつける。カツン、と小さな音がした。

 そこでようやく顔を見合わせる。

 紘一郎の表情に気づいた聖が、小さく首を傾げた。


「怒ってる?」

「よく気づいたね。説教されてみる?」


 声は静かだった。

 しかしそこに不穏なものを感じ取った聖は、グラスを傾けて、一口酒を飲む。

 二口めまで飲んでから、ようやく問い返した。


「なんだよ」

「聖がキス魔とは知らなかった。僕はされたことがないから。どうして? まさか、僕が怖い?」

「何言ってんだよ。なんで俺が紘一郎にそんなことするんだよ」

「シェフにはするけど、僕にはしないと。なるほど?」


 勘ぐっているかのような言いざまに、聖はむっと眉をひそめて縁側の板敷きにグラスを置く。片手をついて、身を乗り出した。やや下の角度から、紘一郎の顔に顔を近づけ――

 ごつん。


「痛ぇよっ」


 思いっきり、頭突きで返され、両手で額をおさえて呻く。「すごい音したんだけど」と近くで光樹が呟いていたが、紘一郎は涼しい顔で聖を見て言った。

 

「キスの件はどうでもいんだけど。聖、今日は表情が悪い。何か気にかかっていることがあるならさっさと話すように」


 頭突きされたあげくに「どうでも良い」扱いを受けた聖は、不満そうに顔を歪めていたが、ぐずぐずと食い下がることはなかった。気持ちを切り替えたらしく、言った。


「俺、年上に可愛がられるとこあるよな。年上キラーっていうか」

「年上の僕は聖にキルされたことはないけど、そう思っているなら否定しないでおく。それで?」


 聖は身を乗り出して「速攻で否定しただろうがいま」と食って掛かったが、またもやそんな場合ではないと思ったようで座り直した。

 大きく息を吸って吐いて、絞り出すように告げる。


「いまお世話になっている、由春の親戚のシェフのことなんだけど……」


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― 新着の感想 ―
[一言] これは伊久磨にしろ香織にしろ、どっちも言い分よく分かりますね~。 個人的には、香織の 「桜が満開で綺麗だと思ったら、伊久磨はそれをいま隣にいる相手と分かち合うんだ。俺のことを思い出すべき…
[一言] 伊久磨さんと香織さんのやり取りが、ふたりのいる光景が、儚くも美しすぎて読んでたら泣けてきたので……もう一度読んできます……かみしめてきます……。 最後のまとめ方も香織さん!って感じで最高でし…
[一言] 伊久磨さんと香織さんの関係は、いい意味で複雑ですよね( ˘ω˘ ) お互いのことを凄く大切に思ってるのに、家族ではないという( ˘ω˘ ) 親友ともまた違う気がしますし( ˘ω˘ )
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