表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
40 いつかこの日々も
278/405

自覚するのが少し遅い

「由春は間違いなく、受け身だぞ」


 台所でテキパキと立ち働いていた聖が、断言した。

 様子見に、伊久磨と明菜で連れ立って顔を出したところ、すかさず聖が「由春と大丈夫なのか?」と尋ねたのだ。「大丈夫も何も、何もないです」と明菜が苦笑いで答えたのを、聖は見逃さなかった。


「受け身?」


 言われた明菜は、テーブルまで中途半端に近づいた位置で足を止め、聞き返す。 

 作業台として使っているテーブルの上には、ずらりと小さめの皿が並んでいた。

 本日のメイン、照り焼きにしたリ・ド・ヴォーと、バターで炒めたホタテ。

 香ばしい匂いが漂う中、聖はフライパンからスプーンを使ってソースをまわしかけつつ、言った。


「由春は気が利くし、優しいし、先回りして考えるけど、欲がない。何をするときにも自分が自分がって感じじゃないし、他人に譲ってしまうこともある。仕事を離れると余計に、その傾向が強い。だよな、蜷川」


 カツン、とフライパンの縁にスプーンをあてて、聖は顔を上げた。

 伊久磨は、水を向けられて頷いた。


「確かに。以前よく素材探しに沿岸まで車走らせていたんですけど、『飲んでいいぞ。帰りは俺が運転する』って。ジャンケンで決めましょうって言っても、全然本気にしないで。仕事でも一番早くから遅くまで働いてますが、必要以上に稼ごうという欲は無いですね。仕事があれば他に何もいらないような」


 男二人の会話を神妙な顔で聞いていた明菜は「そうですか……」と考え深い様子で呟いた。


(欲がない。他人に譲ってしまう。仕事を離れると、特に。仕事以外いらない。……恋人として考えるとどうなんだろう)


「待っててもだめだぞ、あいつ。洞察力はあるはずなのに、察しが悪い。ヨーロッパにいたときに一緒に暮らしたり旅行したりしたけど、モテても気づかないんだよな。不思議なくらい」

「そういえば西條さん、前に言ってましたよね。一緒にバーに行って女性に話しかけられたとき、岩清水さんがいきなり海老の話を始めたとかなんとか」

「あったあった、そんなこと。こいつ大丈夫かって思ったな。お、これはもう運んでいいぞ」


 居間に料理を運んで帰ってきたエレナが、台所に顔を出す。

 足を踏み入れた瞬間「えっ」と小さく悲鳴を上げて、絶句した。視線の先には明菜。

 俯いたまま、どす黒い空気を放出している。


「モテ……ますよね。春さん。考えなかったわけじゃないんですけど。見た目だけでも、背が高いし、お母様もお姉さんも美人ですけど、似てるし。落ち着いていて親切な性格です。職業は料理人で、社長で、ご実家も……。モテないわけないですよね」

「ちなみに三ヶ国語くらい話せて、趣味は掃除、特技はピアノです。死角なしですよ」


 ついつい、シェフ自慢においては譲れないところのある伊久磨は言い添えてしまった。

 明菜は「ですよね」と答える。

 雲行きの怪しさを見つつ、エレナが「温かいお料理、運ぶね」と明るく言って、手にしていたお盆に皿をのせはじめた。

 一つには収まりきらなかったので、伊久磨もテーブルに置いてあったお盆に皿を並べる。

 行きましょう、と二人で台所を後にした。

 その背後で、聖が「今さらグズグズ考えても仕方ないだろ。押し倒してしまえ」と物騒な進言をしているのが聞こえた。

 それに対し、明菜も即座に答えていた。


「受け身ということは、つまり、そうなりますよね」


(……なるのかな?)


 * * *


 朝が早い湛は、妊婦の和嘉那と熱のある奏とともに早々と席を立った。

 香織は玄関先まで見送ってから、居間に戻ってきて、由春の正面に腰をおろした。

 相変わらずの貴族服を笑い飛ばすこともなく、由春は「何を飲むんだ」と問いかける。

 テーブルに日本酒の瓶があるのをちらりと見て香織は「同じの」と答えてから、向き直った。


「答えにくいなら答えなくても良いんだけど。別にそこまで聞きたいわけでもないし? 岩清水、明菜ちゃんが職場に加わってどう?」


 並んでいた青い江戸切子のグラスに冷酒を注いでから、由春は気負った様子もなく答える。


「率直に、助かっている。藤崎が昼間入れなくなるタイミングでちょうど良かった。一度ひとが増えてみるとわかるんだが、オープン以来よく三人でやっていたと思うよ。仕事はいくらでもある」

「公私混同は大丈夫?」

「何をどう混同するんだ?」


 グラスを香織の側のテーブルに置き、由春はごく落ち着いた声で返した。

 香織はその顔をじっと見つめて、片目を眇める。


「昔は岩清水と明菜ちゃん、二人で一緒に働いていた頃もあるけど、あの時といまは状況が違う。いずれは結婚するんだよな。……結婚、するんだよな?」


 由春は赤い江戸切子に口をつけて、返答を一瞬遅らせてから、香織に目を向けた。


「なんでいま二回言ったのか知らないが、そのつもりだ」


 香織もまた、グラスに口をつけて一口飲んでから、いつになく熱の入った調子で言う。


「見えないんだよね、そういう風に。立ち位置がさ。相手が従業員で、年下。何をするにしてもお前の方が立場が強い。自分が何か言えば、相手が従わざるを得ないってわかっているからこそ、プライベートでも言葉を選んじゃうんじゃない? それは俺もわかるよ。身分とは違うけど『立場』ってそういうことだ。上下関係や序列をはっきりさせておかなきゃいけない場面は絶対にある。単純な話、たとえば教師と生徒は同じ人間で優劣などないとしても、『静かにしろ』って教師が言ったときに生徒が誰も言うこと聞かなきゃ学級崩壊だよな。会社も同じ。上の人間が『従え』って言ったときに、全員同じ方角を向けるようにしておかなければいけないこともある。その意味で、社内的に絶対的な上下関係がある二人のプライベートってどうなのかなって」


 長広舌をふるった香織の言い分を、由春はグラスを傾けながら聞いていた。

 やがて、一言。


「椿、何か悩んでいるのか」

「はーっ!? そういうのやめてほしいんだけど!! なんだろうねその余裕。俺の話なんかしてないでしょ、岩清水はどうなのかって聞いているんだけど!!」 


 入り口から、明菜と伊久磨が現れて、テーブルの空いているところに皿を並べていく。

 奥の席では紘一郎、オリオン、静香で妙に盛り上がっていたが、「美味しそう!!」とひときわはしゃいでいる静香の声が響いた。


「すでに絡み酒だな。まだそんなに飲んでいるとも思えないんだが。疲れてる? ああ、そうだ、少し前に裏の川に飛び込んだって水沢から聞いてる。体調大丈夫か?」

「あははは、湛義兄さん、お前にそんな話までしてんの。お陰様で元気だよ~~、ご心配なく!」

「女子高生を助けて、その縁で雇ったとか。さっき水沢と出て行った、若いののことか?」


 にこっと香織は微笑んだ。ぴしっとこめかみに血管が浮いた。


「うるせえな。俺のことはいいって言ってんだろ。お前の話を聞いているんだよ。さっさと答えろ」

「答えるも何も、会社でもプライベートでも特に変わらない」

「それはまずいだろ。本気でそう考えているなら頭冷やせよ。会社での扱い、お前のことだから他の従業員と変わらないんだろ。それはそれで良いとして、プライベートもそのままだったら、ただの上司と部下だ。それを恋人とは言わないと思うんだけどね、俺は……!」


 特に危機感を覚えてない様子で由春は「そうか?」と言う。

 そのとき、戸口で立ち聞きしていたらしい聖が、「ひでぇ」と呟き、由春のそばに膝をついた。


「上司がプライベートでも上司面していたら、部下からはどうにもできない。そういうの、世間では膠着状態って言うんだ。しかもお前のことだから、隙も見せないんだろ。どうするんだよ、それじゃあ何も進まねーわ」

「そうだ西條、もっと言ってやれ」

「椿は黙れ。お前も人に言えるようなアドバンテージは何もない」


(たしかに。全員独身だけど、既婚者の西條さん、結婚間近の岩清水さん。香織はただの独身貴族……)


 話を横で聞いていた伊久磨は、そこで香織の貴族衣装に気付きひとりで横を向いてふきだした。


「隙……?」


 何を言っているんだ、と言わんばかりに由春は首を傾げた。

 聖は手を伸ばし、その後頭部の髪を鷲掴みにすると、目を細めて「隙あり」と宣言する。

 その次の瞬間、何が起きるか察したらしい明菜が「ややや、やめ、てくださいっ」と悲鳴を上げた。

 大きな声で、その場の全員が静まり返った。

 明菜は注目を浴びていることにも気付いていない様子で、聖に向かって必死にすがりつく。


「キス、キスしようとしましたよね……っ。だ、だめです。春さんにそういうことしちゃだめです」

「ん? よくしてるけど。こいついっつも隙だらけだから。受け身だし」


 聖は、相手構わずキスをすることがある。特に由春。

 今も完全にキスされそうになっていたが、このときばかりはさっと聖から逃れつつ、さりげなく明菜に手を伸ばしていた。


「今までとは違う。そういうのはだめだ、聖」

「だめってなんで?」


 にやりと笑った聖に聞き返され、由春も即座に返す。


「もう他の相手とはしない。明菜だけだ」

「春さん……!」


 静まり返った中に、その声はやけに響いた。

 聖はしてやったとばかりに、会心の笑みを浮かべて由春を見る。


「それでいいんだよ。最初っからそう言えよ。彼女不安にさせんな、馬鹿由春。さて、何飲もうかな」


 一件落着ムードを漂わせて、聖はいそいそと酒を物色し始める。

 その側で、由春にすがりついた明菜が「春さん」と涙声で名を呼びながら、その胸に頭を埋めていた。

 固唾を呑んで見守っていた伊久磨は、声に出すことなく胸の内でそっと呟いていた。


(いま? いまですか。「もう他の相手とはしない」って気づくの遅すぎないですか岩清水さん。それじゃあ明菜さん不安になりますよ。この二人まだまだ前途多難)


「大丈夫じゃないけど、大丈夫……大丈夫だ」


 呟きをもらしつつ、珍しく寄り添っている由春と明菜を見ながら、あとは若い二人に任せよう、と自分に言い聞かせた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 由春はスパダリであるものの、完璧すぎるあまり相手側に「この人って、本当に私が必要なのかな……?」って思わせちゃうような部分があるかもしれませんね~。 それにしても、そういった感情を由春から…
[一言] ぶるうちいず先生「由春さんは受け(身)なのかぁ」 >ついつい、シェフ自慢においては譲れないところのある伊久磨は言い添えてしまった。 流石正妻( ˘ω˘ ) >奥の席では紘一郎、オリオン、…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ