女難の相
「椿香織、すっっごく優しくて、気持ちよくて。もう夢見心地」
きゅっと、細い腕を腰に回されて力を込められた瞬間、背筋を怖気が駆け抜けた。
反射的に振り払わなかったのは、理性。体格差のある男の自分が、こんな小さな相手に本気を出してはいけない、その一心。
香織は、奏を支えていた腕を速やかに離し、冷ややかに告げた。
「おい柳。離せ。離れろ。誤解を招くことは言うな」
「誤解ってなに? 椿香織は、わたしをこの部屋まで連れてきて、寝かしつけながら熱いね、って。そのまま灯りもつけないで、二人で一緒に寝たよね?」
「変な言い方すんな。それは柳が熱出していまにも倒れそうだったからで、応急処置的な……ッ」
本気で言い返してから、はっと息を呑んで廊下に佇んでいる二人を振り返る。
伊久磨はともかく、光樹に誤解されるのはいたたまれなさすぎる。辛い。
「ちがっ、違うから、光樹っ。俺は柳と何もしていないし、本当にただ寝ていただけだから……っ」
「椿香織、わたしの体に気を使って、すごく優しく尽くしてくれたよね。あんなにしたら、自分も疲れちゃって当然だよ」
「柳!」
「にゃ?」
(ふっざけんなよクソガキ)
クソガキどころか、間違えて口に出したら「間違えました」では済まない類の暴言が、いくつも頭の中を駆け巡った。堪えた。
奏は、にやにやと笑いながら小首を傾げている。尻尾があったら、ぶんぶん振っていそうな楽しそうな笑顔だ。犬か。
持て余すほどの、絶大な忌々しさを抱えて伊久磨に目を向けると、神妙な顔で見返された。
「香織。暗くてよく見えていないせいかもしれないけど、相手、子ども……」
「伊久磨、よくわかってないならしゃべらないでくれる!? 話がややこしくなるだけだから!! あと光樹も、そんな目で俺を見ないでお願いだから! どう見てもこの状況、誤解だってわかるでしょ!?」
眉をひそめた光樹からは、妙に物悲しい目で見返されてしまった。
「寝乱れた布団とか、生々しくて。見られない」
「何言ってんの!? 座布団敷いてるだけだって!! 布団なんかないから。足元のこれは毛布だし。ちゃんと見て!!」
「見せちゃだめだろ香織。その辺は考えろ、光樹は未成年だ」
「伊久磨もほんと何言ってんの!? ちょっと表に出ようか!!」
勢いのまま言って、息をついたその隙に。
狙っていたかのようなタイミングで、奏の澄んだ声が耳に届いた。
「椿香織って、見た目優男なのに、アグレッシブだよね。そういうの、嫌いじゃないよ」
きゅうっと、抱きついている腕に力を込められ、頬を寄せられる。好き、という囁きが聞こえた気がした。切実に、幻聴であって欲しいと思う。
香織は、心の底から、掛け値なしの本音を口にした。
「俺は嫌い。離せ。いま本気で怒ってるから。これ以上はさすがに許さない」
* * *
四人で居間に向かうと、紘一郎と立ったまま話していた静香が、どうして、と呟いて口元を手で覆った。
「誕生日パーティーって聞いてきたのに。誰のお葬式? 顔色も雰囲気も空気も最悪だけど大丈夫?」
(静香うるせぇ。久しぶりに会ったと思ったら、それかよ)
香織は静香にきついまなざしを向ける。
「大丈夫じゃない。そうだ、静香の結婚がだめになった件は一応伊久磨から聞いてる。残念だったな」
「うわー! 香織が嫌味言ってる!! 大人げない嫌味言ってる!! シェフだってそんなこと言わなかったのに!!」
出会い頭の挨拶とばかりにやり合う二人をぼんやりと見ていた光樹が、投げやりな様子で呟いた。
「二人とも大人げない。ていうか、大人ってなんだろうね……?」
今そこにある暗黒。底なしの闇から、冷たい風が吹き付けてくる。
固まった静香と香織をさておき、伊久磨は「大人っていうのは、岩清水さんとか、湛さんみたいな」と光樹に話しかけ「それはわかります。納得」とすかさず光樹が頷く。
「誕生日って誰の?」
奏が首をかしげた。しがみつく腕はきっちり引き剥がしたものの、横にぴたりとつけられていた香織が、見下ろしながら答える。
「俺の。柳は今のうちに家に送る。行くぞ」
奏が香織のシャツの裾を掴んだ。
「仲間はずれ?」
「仲間にした覚えはない。そもそも柳は熱がある。一緒にはしゃいでいる場合じゃないだろ」
「家に帰って、ひとりで冷や飯を食えと……」
(同情ひこうとして。そこまで面倒をみる義理はない。絶対にない)
たしかに、こんな風にみんなで集まって、今しも楽しい時間が始まろうとしているのを見た後で、家に帰されるのは辛い。同年代の光樹もいて、まったく知り合いがいないわけでもない以上、少しくらい、という気持ちにもなるだろう。しかし、だめなものはダメ。
「寝て楽になったかもしれないけど、柳は病人だ。食事が始まって、俺が飲んでしまえば送れなくなる。今のうちに」
「柳さん。家に帰っても食べるものがないなら、食べていけばいいんじゃないか。ひとにうつる病気でもないわけだし。親御さんが帰ってくるの何時?」
居間は襖を払って、隣の部屋とひとつづきになっている。普段は使わない折りたたみのテーブルも出してあり、長くつなげた卓上にはオードブルのような料理が並んでいた。
声をかけてきたのは、隣室の隅ですでに席についていた水沢湛。その横で、和嘉那が「どーもー」と笑顔で頭を下げている。
「妊婦さん、畳に座って大丈夫? 辛くない? 椅子が必要なら出すよ?」
焦った香織に、湛が軽く首を振って「いいから」と言った。
「そのへんは大丈夫だ。長居しないし、辛いようなら適宜対処する。柳さん、体調はどう?」
「熱が出ているんですけど、落ち着いています。よくあることで。親が帰ってくるのは十九時過ぎ……」
「まだ時間あるな。うちも帰るのは早めだし、俺が運転するから飲まない。送るから、食事だけしていけばいい。帰ったらすぐに寝るように」
(湛さんが柳を甘やかしやがる。ちくしょう)
それで、と勝手に話を進めてまとめているのを、香織は歯噛みしたい気分でやり過ごした。
そのとき、ちょいちょいと背中をつつかれる。振り返ると、静香が満面の笑みでピンクの包装紙に真っ赤なリボンをかけたプレゼントを渡してきた。
「香織、三十歳おめでとう。これ、絶対似合うと思って買ったんだけど、いま開けてみて。着て?」
「なんで年齢強調したんだろうね、静香。同学年のくせに。プレゼントはありがと。服?」
受け取りながらリボンをほどき、包装紙を丁寧にはがす。
中から出てきたのは、どう見ても実用的ではないロングジャケット。
決して、センスが壊滅的に悪いわけではないが、用途がわからない。
無言になった香織に、静香はにこにこと説明をはじめた。
「貴族服なの。これを着ると! なんと! 貴族になれます! 絶対似合うから、お誕生日会の間、この服装で過ごしてよ」
「伊久磨、静香が何言っているのかわかんないんだけど」
直接の会話を避けて伊久磨に話をふると、大変優しい笑顔を向けられてしまった。
(そうか。伊久磨はもう、そっち側か)
俺の味方はいないんだな、と思いながら、渋々とジャケットの袖に腕を通す。サイズ感はぴったりで、近くで見れば作りはややチープだが、着心地も悪くない。
そのとき、廊下の方から話し声が聞こえてきた。また誰かが到着したらしい。
居間の戸口に現れたのは、由春とオリオン。その後ろに明菜。
「おう、椿。誕生日おめでとう。その衣装は?」
含むところのない、爽やかな挨拶をしてきた由春。
答えたのはなぜか静香で、得意満面に言い放つ。
「シェフ、お疲れ様です! 今日は主役の香織を貴族にしてみました! 似合うよね!? 椿伯爵って感じ! 貴族よくわからないけど」
由春の横で、のほほんとした笑みを浮かべて聞いていたオリオンが「かおりって、伯爵だったんだ」と長閑に言った。
一瞬、不思議な静寂が訪れる。
あれ? と首を傾げた静香を見て、由春が笑いながら言った。
「貴族といえばオリオンも貴族なんだ。なんだっけ?」
「侯爵」
たった一語でも印象的な、澄み切った発音。
事態を飲み込めていない静香の横で、伊久磨が「あ」と小さく声を上げた。
「本物の貴族だ」
* * *
熱でふらふらの従業員を介抱していたら、いかがわしいことをしていたと誤解を広められる。
貴族服を着てみろと言われて着てみたら、本物の貴族が現れて、「偽物の貴族」扱いされる。
(なんなの。俺の誕生日、なんなの。この絶妙な運の無さ、なんなの……)
テーブルの上には、聖が腕によりをかけて作った料理が並んでいた。次々と運ばれてくる。主役なので手伝わずに食べていろと言われている。主役だと認識されていたことに、軽く感動してしまった。
ドリンク類は由春からの差し入れで、シャンパンもワインも聞いたことのある銘柄が揃っている。
「香織くん。その衣装、似合ってますよ。先日の着物と少し印象が似ています。白が似合うのかな。お酒はどうします? もう少し飲む?」
テーブルの端、お誕生日席に座った香織のそばに来た紘一郎が、微笑みながら声をかけてくる。
(今日一番の癒やし)
「似合って嬉しいか自分でもよくわからないんですけど、先生に褒めてもらえるのは嬉しいです。ヴーヴ・クリコ飲んでいました。そのまま頂きます。西條はまだかな」
手伝いに入っているエレナや伊久磨は行ったり来たりをしている。あとは適当に盛り上がっていて、湛だけさりげなく時間を気にしている様子に見えた。
紘一郎がボトルを傾け、グラスにシャンパンを注ぐ。その手付きを眺めながら、香織はふと胸につかえていたことを呟いた。
「西條、元気無いなって。先生はどう思いますか」
「聖……は自分でどうにかするとして。僕が気になるのは香織くんかな」
クスッと優しく笑みこぼしてから、紘一郎は香織の瞳を覗き込んできた。
「香織くん、女難の相が出てます。かなり深刻な」
「心あたりはありますけど、先生、それ、もう終わっ」
香織の訴えに、紘一郎は笑いながらふと姿勢を逸らす。
不安になるほどの、優しい横顔だった。