春眠
特別気にかけている素振りは、見せないようにしていた。
少なくとも、建前上は。
(気にしないなんて、できるはずがないんだけどね。新入りで、高校休学中で、病気がある。いまだってほら、足がふらついている)
せめて渦中の相手、柳奏にだけは、自分が気にしていることを悟られないようにと思っていたのに。
作務衣姿のままの椿香織は、奏の仕事上がりのタイミングで、さりげなく店の外に出た。その結果、帰途につく後ろ姿を目にしてしまい、悩みはじめている。
元気がないというより、「具合が悪い」足取り。
すでに、奏の病気のことは両親に確認してあった。正確なところを教えて欲しい、と。
そこで、寛解はしているものの「健康そのものとは程遠い状態」という事実も聞いていた。
熱が出やすい。虚弱というほどではないが、日常生活に支障が出ない範囲で、脆弱であると。
香織は、歩道をふらふらと進んでいく小さな背中を見つめて、そっと息を吐き出した。
「柳」
声をかけて、歩み寄る。奏は足を止めなかったが、すぐに追いついた。前に回り込んで、見下ろす。
見上げてきた目は、ぼんやりとして、焦点が定まっていない。
「熱上がってるだろ。そういうときは、無理しないで早めに申告しろ。それと、親に迎えにきてもらえ」
「椿香織……。あれ、なんて呼べばいいんだろう。社長?」
「社内的に、古いひとは『香織さん』だけど。祖父と親父のいた頃を知っているひとからすると、椿姓だらけだから。今は俺だけだし、椿で構わない。というか、立ち話をしている場合じゃない」
舌がもつれたような、奏らしからぬ話しぶり。
笑みを浮かべているが、辛そうに見える。
(かなり具合悪いな。立ち仕事が向いていないんだろうか。だとすると、うちの会社でできる仕事はかなり限られてくるんだが。体力がないとつとまらない)
奏は、「それじゃ」と呟きながら、香織の横を通り過ぎようとする。その瞬間、足がふらついて体が傾いだ。
触れることには抵抗があったが、やむなく腕を掴む。
「送る。車出してくるから少し待ってて。歩いて帰ったら、家に着く前に行き倒れるよ」
「享年十八歳」
「アホか。そこのベンチに座ってな。絶対動くなよ。家にひと、いるよな?」
掴んだ腕を離しながら確認したのは、会話の流れで、深い意味はなかった。それに対し、奏は「いない。仕事で、遅い」と呟く。吐き出した息が肌を掠めたわけでもないのに、熱い、と感じた。「柳」と声をかけながら、袖から露出している手首や手に触れてみる。熱い。
「家より、病院の方が良いか?」
「大丈夫。平気、よくあるから。寝ていれば治る」
はあ、と息をつく。少し話すだけでも辛そうに見えた。この状態を、勤務時間終わりまで気づかれないように隠し通していたのだろうか。一緒に働いていたパートの女性からはまだ何も聞いていない。
香織は、ため息をこらえて言った。
「わかった。家にひとが帰る時間帯になったら送るから。それまで、うちで寝てな。その高熱で何かあっても、ひとりじゃ救急車も呼べないだろ」
「椿……さんの、家で?」
香織は「おいでよ」と言って、先に立って歩き出す。ゆっくりと。肩越しに振り返って、奏の動きを確認しながら。
「そばについているようにする。病み上がりなんだから、そのへんは遠慮しないで。用事があるから、夕方までになるけど」
* * *
椿邸で滞在中の穂高紘一郎は、朝から出てしまっていた。台所では聖が料理をしているが、近づかないようにする。
今日は「海の星」も休みなので、エレナも学校から帰ってきたら聖の手伝いに入るだろう。
ふらついている奏を、客用の空き部屋まで案内した。
灯りをつけるほどではないが、午後ということもあり、光の届きにくい室内は薄暗い。
布団を用意しようとすると「そこまでしないで」と拒否される。それもそうかと思い直して、座布団を並べて枕を置き、毛布を渡した。
熱い息を吐き出しながら、奏は春物のコートを脱いで座布団に横になり、毛布をかぶる。
(小さい。大人がひとりいるようには見えない)
体を丸めているせいもあるかもしれないが、座布団三枚におさまってしまっていた。毛布にくるまったシルエットは、まるっきり子どもだ。
「水持ってくる。他に何か欲しいものある? 氷枕する? 薬飲んだりしなくていいの? 服はもう少し脱いだ方が楽じゃないか。寒気がするようならストーブ持ってくるけど」
一度に用事を済ませようとしたせいか、質問攻めにしてしまう。
奏は毛布を首元まで引き下げて、濡れたような目で見上げてきた。
「過保護だ」
「病人慣れしているんだ。昔よく親父が寝込んでいて、あれこれ枕元まで運んだ。看病しているつもりになっていてね」
「お父さんは……」
「もうとっくに死んでる。体が弱かった。体が弱いって、そういうことだと俺は思ってる。無理がきかない、体がいうことをきかない。いつも寝床から世界を眺めている」
(それがよくわからなかった子どもの頃は、なんとか遊んでもらおうとした。わがままをきいてもらって、なおさら親父は寝込む日数を伸ばした。俺が親父の寿命を削っていることに気づいていなかった。いつも、笑っていたから)
「……そっか。それはわたしもよく思う。わたしの体は、なんで、熱を出してしまうのだろうと。体が弱いからなんだけど。諦めようと思っているんだ、ぜんぶ。ごめんね、迷惑かけて」
奏の言葉は途切れがちで、ときどき掠れる。
水を取りに行こうとしていた香織であったが、ついその場に膝をついて、奏の額に掌をあててしまった。
「熱い。『柳がそんなこと言うなんて、熱かな』って言い返せないな、これじゃ」
「椿、さんの手、冷たくて気持ち良い」
「俺は体温そこまで低くないはずだから、柳の熱が高すぎるんだ。寝てなよ。必要なもの全部持ってくる。まず冷やそう」
言い置いて立ち上がったところで、か細い声が背中を追いかけてきた。
「会社の社長って、一従業員にそこまでしてくれるものなの」
(そこはつっこむなよ。俺だって気にしてるんだ。あんまり入れ込まない方が、後々の為にも……。いや、贔屓にならないように、他の従業員と区別しない形で接しないと、だ)
入れ込むのを恐れていると認めてしまえば、それは奏に対し、何かしらの気持ちがあると言っているようなもの。そんなものは、少なくとも今の段階では何もない。
「柳が未成年だからだよ。大人として、気付いたときには見過ごせない。それだけだ。病人に冷たいことは言いたくないけど、期待はしないでおいて。今日はたまたまだから」
「うん。わかってる。期待しない、夢は見ない。そういうの、慣れてる」
独り言のような呟きが途絶えるのを待って、香織は障子戸を開けて廊下に出た。
胸の奥に、苦いものがじわりと広がり、心臓を締め付けてくる。夢ってなんだよ、と言いそうになる。
出会いがあり、知り合いになったとはいえ、仕事上では雇用主と従業員の関係でしかない。香織自身はなんの気持ちもないつもりだった。奏にもし自分への慕情が本当にあったとしても、年齢差や関係性を思えば取り合ってはいけない。
(難しいな。職場にそういう相手がいるって、難しい。岩清水は明菜ちゃんとどうしているんだろう。難しすぎるって)
廊下を歩きだす。
自分がまだ仕事着のままだと気づき、ついでに着替えてしまおうと、一度自室に向かった。
* * *
春の夕暮れ。
寒くも温かくもない、肌になじむ気温。庭の虫の声もうるさくはなく、日が落ちる間際の仄暗さは殊の外心地よい。
慣れない他人の家、しかも広い。何かあってもひとを呼ぶこともできないだろうと、眠る奏のそばについていた香織は、うっかりそのままうたた寝をしてしまっていた。
ざらついた砂壁に背を預け、あぐらをかいたまま。
スマホは、畳の上に投げ出してしまっている。
――香織ー?
遠くから声が聞こえた。
(伊久磨……? もう来てるのか)
今日は、聖が夕食を作ると言っていたが、それとなく自分の誕生日を意識して何か用意してくれているらしいのは知っていた。となれば、「海の星」も休みなので、何人か呼んでいることも予想はついていた。
――メッセージ送ってるけど、既読にならないんだよね。
――部屋に声はかけたけど、返事はなかった。中を見たら着替えに戻った様子はあったけど。
――靴も玄関にあったんだよな。じゃあどこかにいるはず……。
複数人の会話が入り乱れている。光樹や聖だろうか、と思いながら香織はゆっくりと目を開けた。
指をさまよわせて、スマホを手にする。画面を表示すると、メッセージの通知が数件たまっている。
ふっと、視線をすべらせると、毛布をよけて起き上がった奏が、ふらつく足で障子戸に向かっていた。
「柳。具合どうだ」
「起きたの。誰かが探している声がするから、ここにいるって言いにいこうと思って。ごめん、何か用事があるって言ってたよね」
眠りが浅かったのか、先に呼び声に気付いていたらしい。
「それは大丈夫。柳はもう少し休んでいていいよ」
言いながら立ち上がる。
ちょうど障子戸に指が触れかけた奏が、毛布を足にひっかけてバランスを崩していた。
とっさに手を伸ばして抱きかかえるように支える。小さくて、軽い体。
「香織ー?」
障子戸のすぐそばで、声がした。
探しに来たのが別の人間だったら、無闇に暴いたりはしなかっただろう。だが、声は伊久磨。勝手知ったる他人の家。
しかもここは伊久磨が以前使っていた部屋。ほとんど習慣のように、さっと障子戸が開かれる。
「香織……」
薄暗がりの中で、向き合う。香織は奏を小脇に抱えたまま。見ようによっては抱き合っている状態だろうなと頭の冷静な部分で考えつつ、香織は無言のままゆっくりと笑みを広げた。
伊久磨の背後から、一緒に邸内をまわっていたらしい光樹が、顔をのぞかせて言った。
「先輩? 香織さんとここで何していたの?」
香織の腕の中で、奏が答える。
「二人で一緒に寝ていただけよ」
(柳……!)