悩まないひと
ホールの片付けとレジ締め業務を終え、ドアの施錠を確認して灯りを落とし、伊久磨はキッチンへと向かった。
ちょうどオリオンが一足先に帰るところで「お先に」と肩越しの笑顔で言って、裏口から出ていく。
由春は煌々とした光の下、包丁を並べて研いでいるところだった。
「お疲れ。終わったらさっさと帰れ」
「岩清水さんも。そうだ、明日の件はありがとうございます。貴重なお休みなのに」
「べつに。椿の誕生日を祝うのも面白そうだ。何を持って行こうかな」
聖から持ちかけられた、香織のバースデーパーティーが翌日に迫っていた。「海の星」の定休日。
明菜が加入してから、一週間が経過している。特に大きな問題もない。明菜は平日はランチの時間帯の勤務。一方、エレナは調理師学校が始まった関係で、平日は夜のみ。この二人が顔を合わせるのは土日で、今の所ランチとディナー通しで出ているが、明菜が慣れてきたら二人のうちどちらか片方は休んで、と話している。
とはいえ、最近の土日のランチは二回転するのが普通になってきたので、人手はいくらあっても足りない。
聖は、自分の用事もあるので、現状では週三日ほど顔を出していた。この日はオフ。普段は大豪シェフと行動をしていることも多いらしい。いずれ、「海の星」を離れていく。
「西條さん、最近元気ないですよね」
事務室のロッカーに向かいながら、伊久磨は由春の前で足を止めた。
拭いていないグラスでもないかと視線をすべらすが、ステンレスの作業台はどこもかしこも綺麗に片付いていて、仕事は残っていない。
「考えることが多いんだろう。いま椿邸に穂高先生も来ているらしいから、心配しなくて大丈夫だ」
「そうなんだ。香織と連絡とっていなかったから、知りませんでした。明日もサプライズ……」
話しながら物音に気付いて、裏口に目を向ける。
夕方に帰ったはずの明菜が、ひょっこりと顔を見せていた。
「どうしました、こんな遅い時間に」
「忘れ物です。明日はお店閉まってるから、今のうちにと思って」
伊久磨の問いかけに、明菜は照れ笑いのような笑みを浮かべる。
(忘れ物? スマホだったらすぐ気づくだろうし。財布とか、明日手元に無いと困るもの……)
漠然と考えて、ハッと小さく息を呑む。
由春は、伊久磨の反応を気にする様子もなく、包丁を手早くまとめて片付けながら明菜に問いかけた。
「車で来たのか?」
「いえ、風が気持ちよかったので、散歩がてら歩きで来ました」
「こんな遅い時間に一人でふらふら出歩くな。今日、車で来ているから送る。少しだけ待っててくれ」
二人の会話を聞きながら、伊久磨はさっさと帰ろうとロッカーに向かった。
後ろから由春に呼び止められた。
「伊久磨も家まで送るぞ」
「馬鹿な」
全身全霊で拒否。
由春はきょとんとしていたが、伊久磨は(どうしてわからない? 鈍感か)とうっすら苛立ちながら早口にまくしたてた。
「乗るわけないですよ、歩いて帰ります。岩清水さんは明菜さんと一緒にどうぞ」
そのまま事務室に飛び込み、ロッカーから取り出したジャケットを羽織り、ワンショルダーバッグにエプロンを詰めて戻る。
由春はコックコートを脱ぎながら伊久磨に目を向けてきた。何を焦っているんだ、と今にも言い出しそうな気配を感じ、伊久磨は「お疲れ様です!」と裏口に向かう。
(明日は休日。明菜さんの忘れ物は岩清水さん! 仕事終わるの見計らって来ているのにまさかわかっていない……!?)
明菜とすれ違いざまに、微笑みかけて「お疲れ様です」と声をかける。
細かな会話に発展する前に、有無を言わせぬまま言い切った。
「あの人たぶん本当に鈍いので。健闘を祈ります」
* * *
(岩清水さんと明菜さんってどうなってるんだろう。仲は良さそうだけど、会話はいつも果てしなく事務的だし。岩清水さん、本当にわかっていないのかな)
首を捻りながら夜道を歩いていると、ジャケットのポケットでスマホが振動した。街灯の下で立ち止まって取り出し、画面を確認する。
光樹からのメッセージ。
――伊久磨さんが忘れっぽいのは知っているけど、連絡事項に関しては気をつけてね。香織さんの誕生日の件、知らなかったんだけど。今日西條さんに会ってはじめて知った。「あいつ言ってねえのか」って呆れられたよ(・∀・)
「あっ……ああ……そういえば」
伊久磨は、思わず呻いた。
急いで返信を打つ。
確かに、聖から聞いていたはずなのに、光樹に伝えていなかった。身に覚えがありすぎる。
――ごめん。すっかり忘れてた。
――明日だよ(・∀・)
続けてメッセージを打とうとして、ふと指の動きを止めて画面を見つめた。
わずかに躊躇ってから、通話にする。すぐにつながった。
「ごめん、光樹。普通に忘れてた。いま電話大丈夫? 明日の件、何か困ったことある?」
――お疲れ様。いま帰り? 誕生日プレゼントが無い。香織さん、何を欲しいひとなのかさっぱりわからない。伊久磨さんは何用意しているの?
(香織の欲しいもの……?)
聞かれて返答に詰まる。
大人なので、身の回りの品は自分で買っている。質の良い物を揃えているせいか、物持ちが良く、新しく何かを必要としているかどうか、よくわからない。
「俺は、静香が何か選んでおくって言っていたから任せてしまって……。光樹か。光樹からは何が欲しいかな……。香織の場合、物を捨てるタイミングわからないで使ってるところがあるから。箸とか、そういうのでも良いかも。今のは古くなっていそう。別に高いものじゃなくても喜ぶと思う。あとはハンカチとか靴下。そんなにこだわりはないと思うけど、ラルフローレンとか、百貨店で」
――高校生だからお金かけなくても良いように、って気を回してない? バイト代出てるよ。
「知ってるけど、無難なところで。俺も真面目に考えたことなかったな……。家に帰って、静香が何を用意したか聞いたら連絡する。日本酒とかじゃないかと」
――ありがと。お願い。伊久磨さん、疲れてるだろうし、気をつけて帰ってね。おやすみ。
おやすみ、と言って電話を切る。
ブラックアウトしたスマホをポケットに戻して、伊久磨は歩調を速めた。
(香織の生活をずっと見ていたはずなのに。何が欲しいか全然思い当たらない。何が足りないのか、見当もつかない)
それにしても、光樹は、最近ずいぶん大人びてきたような印象だ。
出会った頃よりも受け答えがスムーズで、どことなく気が利いている。「海の星」でバイトをし、香織とも知り合い、年上の友人が増えたせいだろうか。
手に負えない弟のような雰囲気だったのに、あっという間に大人になってしまって、戸惑いがないと言えば嘘になる。
(今は高校生だけど、音大という線もあるかもしれないし、進学するとすればここには残らないだろう。すぐにいなくなってしまう)
少し寂しい。
結婚する相手は静香だが、そのおかげで家族が増えたような気がしていたのに、もう別離の予感に苛まれている。
伊久磨はまとわりついていくる寂寥感を振り切るように、歩き続けた。
* * *
「香織の誕生日プレゼント? あるよ! ラッピングは明日しようと思っていたんだよね! 見る!?」
家に帰ったら、静香が玄関まで飛んできて満面の笑みで出迎えてくれた。
靴を脱ぎながら話をすると、すぐに乗ってくる。
二人の住まいは、今まで通りの伊久磨のアパート。更新時期まではまだ間があったので、静香の腕が本調子になって引っ越しができるまで、当面そのまま暮らす運びとなっていた。
部屋はもともと片付いていたし、何しろ伊久磨が週六日間も仕事で家を空けている。
休日以外満足に顔を合わせないので、二人暮らしでもワンルームの不便さを実感する暇すらない。
なお、静香は日中は実家に戻り、祖父の造園業を手伝っている。
「通販で買ったから、梱包といたら商品そのままで。ラッピングツールはこれから買ってこようかと。見てみて。そうだ、伊久磨くん試着してみる?」
「試着? 香織に、服?」
どんなセンスで選んだんだろう、と単純に興味をひかれた伊久磨の目の前で、静香は床に置かれていたダンボールからいそいそとホワイト系のロングジャケットを取り出した。
じゃじゃーん、と明るい口調で広げて見せてくる。
「『貴族服』だよー。ハロウィン用とかで、コスプレ衣装、結構種類豊富なんだよね。香織っていえばこう、貴族かなと思って。伯爵とかヴァンパイアコスにオススメって書いてた」
光の下で見ると、やや光沢のある生地に複雑な織り模様が浮かび上がって見える。シンプルな立ち襟で、正面に黒真珠を精緻な銀細工で飾ったようなボタンがずらりと並んだ意匠。ただし、軍服のように装飾性のあるボタン留めも、ボタンそのものも、どことなくチープで、まさに既製品のコスプレ衣装感はぬぐえない。
「貴族服……。これをもらっても、この先どこに着ていくんだ……?」
「その場で着ればいいんじゃない? パーティーの主役なんだし。これってパーティー衣装でしょ。いやもう今から楽しみ。絶対似合うって、香織なら。伊久磨くんもちょっと着てみない? 貴族しない?」
(どういう誘いなんだそれ。初めて聞いたぞ)
「あの……今日はもう疲れてるから良いかな」
「そう? じゃあ明日着てみて? せっかくだから伊久磨くんの貴族も見てみたい。伊久磨くんならやっぱり黒かな~。他に青と赤もあったよ?」
「カラーバリエーション説明されても。まだ買うの? 貴族何人必要なの?」
「シェフと西條さんも貴族っぽいし、着せてみたいなぁ。でもみんな同じでも戦隊モノみたいで芸がないか。西條さんなんか、着ぐるみでもいいかな。絶対怒るよね。面白そう。着せたい」
「静香、プレゼント、全然悩まないひとなんだ」
「ネタに走って良いならね!」
にこにこと話している静香を眺めながら、伊久磨は(俺の彼女はこんな邪悪なひとだったのか)としみじみと思い知った。
それから、嫌がりながら着ぐるみを着る聖を思い浮かべて、つい、笑ってしまった。




