平穏と不穏
最近、西條聖の元気がない。
(落ち込んでいるのかな。珍しくぼーっとしている)
キッチンに立っている間は以前と変わらない。歯切れのよい口調で由春やオリオンと話している。
ひとりで昼食をとっている時や、昼下がりに庭に出て日差しの中に佇んでいる姿を見ると、明らかに表情が優れない。
物憂く、不穏。
その日、たまたま昼時に見送り客があり、店外に出ていた聖は、涼やかなドアベルを鳴らして正面玄関から戻ってきた。
ホールを横切ってキッチンに向かおうとしたところで、ランチを終えた女性客に目ざとく見つけられ、声をかけられる。
「西條さん、西條さんちょっと。今日のお料理も美味しかったわ。それでね、お見合いに興味がない?」
「文章の接続がよくわからなかったんですけど、興味は無いです」
「奥さんがいると張り合いがあるんじゃないかしら。独身よね?」
「独身は独身ですが、今は結婚はべつに。仕事がありますので」
「仕事ばっかりしていると、あっという間に年とるわよ~。今は晩婚化なんて言ってみんな遅くても気にしないけど、子どもは早い方がいいわね。遅く生まれればそれだけ子どもと過ごせる時間が少ないもの。成人まで生きていられないかもしれないわよ」
「なるほど、それはわかります。なんとなく、自分は長生きしないような気がしています」
(米屋さん……!)
聖とはすっかり顔なじみになっている、ランチの女性客二人。
以前伊久磨にさかんに縁談を持ち込んできていた相手だが、最近はターゲットが聖に移っている。「相手はお客さまですよ」と言いたくなるほど聖の態度はつれないものの、双方まったく気にしている様子はない。その状態で会話が成り立っている。
「蜷川さんも結婚するって聞いたし」
ちらっと女性客から視線を向けられる。
空いたテーブルを片付けていた伊久磨は、反射的に微笑み返したが、すかさず聖に言われてしまった。
「あいつ、結婚だめになりましたよ」
「あら」
(なってねーよ)
おいふざけんな、と心の中で毒づきつつ、伊久磨はにこにこと微笑みを絶やさぬ努力をする。それでやり過ごすつもりだったのに、女性客に手招きされてしまう。
「いよいようちに来る気になった?」
「なってないです。結婚します」
「またまた、蜷川さんたら強がって。捨てる神あれば拾う神ありよ。任せてみない?」
「任せてみないですね。大丈夫です、捨てられてないので」
隙を見せるものかと、満面の笑みを浮かべる伊久磨。
その横で、聖が伊久磨に肩を寄せて、青い瞳を輝かせて言った。
「結婚が延期になったのは事実だな。みんなで心配しているんだ」
「面白がっているの間違いでは。大丈夫です、絶対に結婚します」
「愛のために?」
「愛のためにですね」
何を言わされているんだろう、と我に返ったときには、店内に残っていた各テーブルから視線を集めてしまっていた。
伊久磨は表情を変えないまま、く、と拳を握りしめる。
(西條さん、覚えてろよ)
* * *
「何かに似ているなと思ったんですけど、ホストクラブでしょうか」
ランチ客がすべて退店し、ノーゲスト。
順番にまかない食べて、という空気の中。
勤務初日にしてすでに馴染んでいる明菜が、フォークを構えつつ、向かい合って座ったエレナに切り出した。
粉チーズを盛大にふりかけたジェノベーゼを口に運ぼうとしていたエレナは、フォークを皿に戻す。
ちらっと明菜に目を向けて、小声で言った。
「思っても言わないようにしてきたのに……。というか明菜さん、ホストクラブに行ったことがあるの?」
その場に由春をはじめとした男性陣はいなかったが、エレナは念には念を、とばかりに周囲に視線をすべらせる。
当の明菜は特に緊張した様子もなく、のほほんと続けた。
「行ったことはありません。でも、今日の海の星、ランチは見事に女性客ばかりで。蜷川さんは爽やかで会話も気が利いているから、皆さんテーブルに来るのを待っているご様子でした。西條さんは、ホールに出てくると空気が変わりますよね。藤崎さんや私もいましたけど、明らかに男性目当てのお客様もいませんでしたか。あの女性二人組ですとか」
明菜に前のめりに尋ねられ、エレナは苦笑しつつ「あの方々は少し特別」と答えた。
「女性二人組、最後に西條くんと蜷川さんに縁談持ちかけていたお二人よね? 予約名は米原さん。ずっとなのよ。最初は蜷川さんを婿に欲しがっていたみたいだけど、指輪をするようになったから。最近は西條くんにターゲットが移っているの。お米屋さんで、娘さんと結婚して跡をついでくれる若い男性を探しているみたい。娘さんご本人は、一度もお見えになったことはないけど。お母様の強いご希望なの」
注意深く耳を傾けていた明菜は、視線を鋭くして確認するように問い返す。
「岩清水シェフには、そういうお客様ついているんですか」
短い休憩時間を無駄にしないよう、パスタを口に運んでいたエレナは、飲み込んでから、考えつつ言った。
「シェフはどちらかというと、中高年の男性に気に入られていると思う。ディナーでシェフに会いたいと仰る方もいるけど、たいてい、お連れ様の女性の前で薀蓄を語りたいようなギラギラした男性かな。あとは893」
「893はだめですよね。だめです。お得意様ですか?」
「そういうわけではないんだけど、カタギのファミリー、つまり一般人の子どもたちと一緒で、たまたま同席していたということも。そういうとき、シェフはやっぱり従業員のこと気にしているし、必要であれば自分が前に立つから」
明菜の表情が目に見えて明るくなったのを確認し、エレナは微笑を浮かべつつ食事を再開する。
「時間少ないから、早く食べちゃいましょう。いずれにせよ、安心して働ける職場だとは思っているわ。今後は、西條くんが抜けると思うから、今とはまた雰囲気変わると思うけど……。ホストクラブだなんて言うと、静香さんが気にしそう。今も結構やきもきはしてると思うの。蜷川さん、どうしても女性と話すことも多い仕事だし、女性に優しいから」
伊久磨と結婚据え置きになった静香を思い浮かべて、エレナは考え考え口にする。
パスタをつついていた明菜も、大きく頷く。
「優しいのはそうですね。見ていてわかります。最初のお客様はドアの外でお出迎えとか、荷物をお持ちするとか、動作が全部自然で洗練されています。そういうホスピタリティが行き届いているレストランって、案外少ないと思うんです。ファン掴んでますよね」
「私はまだまだ全然で、周りの皆さんから学ぶことばかりで。明菜さんも経験者ということで、私が教えていただくことも多いと思います。よろしくお願いします。これから、平日の昼間は調理師学校があるので、ほとんどいない状態ですが」
「こちらこそ! 経験者といってもブランクもありますし、藤崎さんは先輩です。私が何か変なことをしていたら言ってください。努力します」
特に場が緊張することもなく、女性二人は和やかに会話を交わしながら、まかないを食べていた。
* * *
カウンターで予約問い合わせ電話を受け、入力を終えた管理画面を見直していた伊久磨は、気配に気付いて顔を上げた。
ホールから歩いてきた聖が、手持ち無沙汰な様子でカウンターに入り込んでくる。
「どうしたんですか。軽率に愛を語る西條さん」
「おう。お前結構怒ってたな」
「結婚はだめになっていないので。延期しただけなので」
にこ、と伊久間が微笑みかける。
それを受けて、聖もまた白皙の美貌に非の打ち所のない笑みを浮かべた。
「蜷川の誕生日に入籍だっけ。それまで別れないように気をつけろよ。お前のところ、なんか危なっかしいから」
「心配ありがとうございます。気をつけます。危なくないです」
表情筋にぎりぎりと力をこめながら応じていると、聖は伊久磨の横まで近づいてきて、予約画面をのぞきこむ。
マウスをいじり、四月のカレンダーを表示させて、ぼそっと言った。
「誕生日といえば、もうすぐ椿の誕生日だ。集まれる人間で集まって何かしようと思う。お前のところはどうする? 彼女も椿の知り合いだろ」
「……少し相談します。参加は保留で」
「そうか。あと、光樹だな。親が夜出歩くのを気にするなら難しいかもだけど、保護者がいるわけだし。声かけて聞いておいてくれ」
「わかりました」
言うだけ言った後も、聖は四月のカレンダーを見たままぼんやりとしている。
これまであまりなかった状態だ。
沈んだ横顔を見て、伊久磨はしずかに声をかける。
「西條さん、何か疲れていませんか? 新店準備の件で自分を追い込みすぎなんじゃないですか」
「べつに。すぐに店舗の物件が見つかるなんて思っていないし。コンセプトも……割となんでもできるから難しいってのはあるけど。考えがないわけじゃない」
顔もあげずに答える聖の態度に拒絶めいたものを感じつつ、伊久磨から続く言葉が出ないうちに、「それだけ」と言って聖は背を向けて立ち去った。