四月朔日
――そんなに朝早くから大丈夫ですか? せっかくのお休みなのに。
通話状態のスマホからの問いかけに、岩清水由春はキッチンの時計を見上げた。
現在、夜の十一時。少し考えてから返事をした。
「やっぱり早いか? 朝の五時」
――私は起きるのは全然大丈夫ですけど! むしろ今から寝られないまでありますけどね!? 春さん、まだ職場ですよね? それで明日五時って実質全然寝てないと思うんですけどっ。
「俺は大丈夫。久しぶりに沿岸の方に行こうかと。運転は俺がするから明菜は車で寝ていても良い」
――いえいえ!? むしろ私が運転しますよ!? あ、でも春さんの車ってマニュアル車じゃないですよね。私、免許はマニュアルでとっているけど、運転は……。
「オートマだから心配ない。レクサス、ナビも使いやすいし運転しやすい。一緒に暮らすようになったら、明菜も自由に使っていていい」
うっ、と息を呑む気配を最後に、沈黙。
由春はスマホを持ち直して、耳を寄せる。
「どうした? 住む予定の家、駐車場は二台分あるから明菜の車も置ける。たしか軽だよな? 買い物程度ならともかく、遠出したり高速に乗るなら乗用車の方が安心だ。できれば俺の車にも慣れて欲しい。もちろん俺がいるときは俺が運転する」
――私、車に詳しくないですけど、レクサスは高級車ですよね。ぶつけたら怖いな。住む予定の家が駅前の新築というのも……。そもそも春さんのご実家が、あんな資産家とは知らなくて。
「車は俺のだから、ぶつけても修理すればいいだけだ。他人を巻き込んだり、明菜が怪我をしたりしなければ良い。家に関しては家賃も固定資産税も払う取り決めになってる。実家の資産は親のものであって、俺のものではないので、関係ない。何も気にすることはない」
キッチンの中を歩き回り、最終確認をして、裏口に立つ。警備システムのスイッチを入れる。
明かりを消してから外に出て、スマホを肩に挟み、ドアに鍵をかけた。
「朝の五時はやっぱり早いな。それで一日いっぱい、夜までだと明菜も疲れるだろう。明後日からの仕事にも障る。もう少しのんびりしよう。朝食の後だと何時になるかな」
――そこまで遅くしなくても! 朝ごはんから一緒が良いです!! なかなか会えないので、春さんの睡眠時間を確保しつつ、なるべく長めに一緒に……。
遠慮がちな声を聞きながら、歩き出す。
(なかなか会えない、か)
三月末日。
日付が変われば四月で、定休日を挟んでその翌日から明菜は「海の星」勤務になる予定だ。
そこからは、ほぼ毎日顔を合わせる生活になる。公私ともに。
その前に、一人の自由な時間があった方が良いかと、無理に時間を作って会ったりすることはなかった。
会いたい気持ちがなかったわけではないが、あまり考えないようにしていた。
働く場所も住む場所も、ほとんど選択肢らしいものを提示することなく、強引にペンションの仕事からさらってきた負い目もある。
明菜には、後悔したり、引き返したいと願っている徴候が見られないか。話す機会があるたびに、注意深く観察をしてきたつもりだった。
(大丈夫という意味で良いのだろうか。明菜は)
「朝から開いている気の利いた店というのもなかなか無いな。そうだ、『セロ弾きのゴーシュ』は意外と朝早い。あそこはうっかりすると、知り合いに会うが」
――樒さんのお店ですね! 良いですね、珈琲美味しいですし。行きましょう!!
口をすべらせてしまったら、そのまま決定事項となってしまった。
待ち合わせ時間を決めて、歩きながら少し話してから電話を切る。
時間帯のせいもあり、夜道に人影はない。
暗い空を見上げて、息を吐き出した。もう、白く曇ることもない。
風は冷たいが、かすかに芽吹き始めた緑の匂いがのっている。
「春、きたなぁ」
呟いてから、いつの間にか足を止めていたことに気付いて、歩き出した。
* * *
「蜷川さん、結婚できなかったんですか」
翌朝、喫茶「セロ弾きのゴーシュ」のカウンターにて。
明菜と並んでモーニングのトーストを食べながら、由春が共通の知人の話題を出す。
カウンターの内側で、ドリップ珈琲をいれていた樒が、横を向いてふきだした。
「全然意外じゃないのが、あの二人だよね。やりそう。まあいいんじゃない」
馥郁たる珈琲の香りが漂う中、樒の低い声が楽しげに響く。
「出会ってから、結婚まで早かったからな。しかもそのほとんどの期間、遠距離だったわけだ。少しクールダウン期間があって、良かったかも。伊久磨は……」
言いかけた由春の前に、青く艷やかな珈琲カップが差し出される。
ふわっと立ち上った湯気に、眼鏡が一瞬くもった。食事くらいなら支障はないので、由春は眼鏡を外してカウンターの上に置く。
視線を頬に感じて、左隣に座った明菜に目を向けた。
「どうした?」
いえっ、なんでもっ、と明菜は焦ったように言いながら顔を逸らして前を向く。わずかに頬が染まっているように見えたが、錯覚かもしれない。
由春は珈琲を一口飲んで「美味い」と呟いてから、話を続けた。
「伊久磨は、自覚していなさそうだが。恋人よりも、妻よりも、『家族』が欲しいんだろうな。そういう意味でも、これ以上ない相手だとは思う。両親も伊久磨を歓迎しているし、光樹もついてきた」
(それと……。伊久磨にとっては、かけがえのない「命」のような椿と、フローリストはどこか似ている)
他人には、はっきりとはわからない。きっと誰も口を割らない。伊久磨と静香と椿香織三人の間の、目には見えない絆。
「『家族』が欲しい? そういえば、蜷川さん、本籍地がここじゃないってことは、ご実家は」
トーストを飲み込んだ明菜に尋ねられ、由春はもう一口珈琲を飲んだ。
カップをソーサーに戻す。
その僅かな隙に、樒が「いないんだよね。実家も無い」と淡く微笑みながら告げた。
明菜は目を瞠った。とっさに、失言を避けるように、言葉を飲み込んだ気配。
樒の発言を引き継ぎ、由春は抑えた声音で説明した。
「本人が隠しているわけじゃないし、話題として特別避けているわけでもない。事故で死んでいる。両親と、妹がいたと聞いている。親戚づきあいもあまりなかったみたいで、いわゆる天涯孤独に近い境遇だ。家族との仲は良かったみたいで、当時はすごく落ち込んでいたらしい。生活に支障が出る状態で、他人の椿が縁あって面倒をみていたとか。『海の星』に入社する直前の話だ」
「家族の話……、蜷川さん、普通にするから。私、気付きませんでした」
「それでいい。本人も、いきなり説明するのは、難しかったはず。徐々に知っていけばいいんだ。これから職場で顔を合わせれば、何かと話す機会もある。そういうときに」
そうですね、と明菜は神妙そうに頷いて珈琲カップに手を伸ばしていた。なかなか、持ち上げることはできない。これまでの伊久磨との会話を思い出しているような横顔だった。
樒のやる気のない雰囲気は相変わらず。珈琲の美味しさも、いつも通り。それどころか、実は以前より美味しくなっているようにすら感じた。
侮れない男。
――ところでそこの結婚はいつ?
帰りがけに聞かれ、由春は支払いをしつつ「こうなると、伊久磨より早いかも」と答えた。
樒は、小銭を木製のカルトンにのせて差し出してきながら、ふわりとした笑みを浮かべた。
* * *
日中、新しい家用の家具などを見て歩き、夕方に由春の家へと向かう運びとなった。
明菜は気を使うのではないかと心配したが、むしろ「避けたいわけではないので、お邪魔します」とのこと。
家に着くと、珍しく静まり返っていた。ピアノの稽古もなく、母は外に出ているらしい。居候のオリオンも今日は一日出かけると言っていたはず。
「リビングでもいいけど、俺の部屋にでも行くか?」
由春から何気なく声をかけると、明菜が目に見えて全身を強張らせた。
「どうした?」
「いえいえいえ、全然予想していなかったので。びっくりしただけです」
「びっくり?」
何をだろうと思いながら、階段を上って二階に向かう。廊下を通って、自室の前でドアを開けた。
「どうぞ」
「はい。お邪魔します」
びくびくしている明菜を不思議に思いつつ、後に続いてドアを閉める。
その音だけで、明菜が文字通り、飛び上がった。
「なんだ?」
「いえいえいえ、こう、人目のないところで、二人きりになることって、今までほとんどなくてですね……ッ」
「何の話をしてる?」
由春は困惑のままに聞き返した。
窓から差し込む光は、ほんのり傾きはじめて夕暮れの気配。
その光の中でもわかるほどに、明菜は顔を赤らめている。
「あの、その……。春さん、何かします?」
「何かって? 悪い、話が飲み込めてない」
「いやいいんですけど! こう!! 後手でドアを閉められて、二人きりともなれば、な、何かあったりするのかなって。あの、あっても良いんですよ。大丈夫なんですけど、心の、心の準備もできてますし」
そこでようやく、由春も明菜の意図が見えた気がした。
(全然考えなかったわけじゃないけど、そんな獣ではないつもりなんだが)
さてどうしようこの空気、と悩む由春の前で、明菜が真っ赤になったまま小声で叫んだ。
「私ここで押し倒されたりします? あ、でも大丈夫だと思います。はい。いつでも」
由春は声に出すことなく、心の中だけで叫んだ。
(明菜の想像の中の俺、テンション高ぇな!! 自室に連れ込んで、後手でドアを閉めながら堪えきれない獣となって押し倒す……? マジでそれを求められているのか? 俺が?)
自分までつられて顔が赤くなるのを自覚しながら、由春は明菜にそっと腕を伸ばして、引き寄せた。
煽られすぎて心臓まで騒ぎはじめているのを感じつつ、柔らかな体を抱きしめて、額に口づけを落とす。
――ところでそこの結婚はいつ?
(「こうなると、伊久磨より早いかも」って言ったな俺。これだけでこんなに動揺しているのに?)
いきなり前途多難さを覚えた由春の脳裏に、樒の笑顔と言葉が蘇る。
――ああそう。幸せになってね。
※ここまで読んで頂きありがとうございました。
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