Happy Wedding(※未遂)
「落ち着いて聞いてくださいね! あの二人、結婚できませんでした」
三月三十日。
斎勝静香の誕生日にして、「海の星」に蜷川伊久磨の名前でディナーの予約が入っている日。
夕方、夜の営業が始まる前に店を訪れた光樹が、キッチンに飛び込んで告げた。
「『結婚できなかった』……? どういう意味だそれ」
エレナと作業台越しに向かい合い、夜の予約の確認をしていた由春は、顔を強張らせて聞き返す。
聖とオリオンもまた、動きを止めて光樹を見た。
全員の顔をざっと見渡し、光樹はため息をつくように一言。
「書類不備」
「伊久磨だな。あいつその辺、妙に抜けてるから」
即座に断言した由春に対し、光樹は実に言いにくそうに続けた。
「姉ちゃんはここが本籍地だけど、伊久磨さんは違うから、戸籍謄本が必要なんだって。婚姻届提出しに行ったら『書類が足りないので受理できません』って言われたらしくて。さすがに、伊久磨さんの本籍地に今日中に行って戸籍謄本を取ってくることもできないから……。結婚は見送り」
「アホ。さすが伊久磨。自分の結婚なんだと思ってるんだ」
心底呆れた調子で「アホ」を繰り返す由春に、オリオンが「今日のウェディング特別コースはバースデーコースに変更かな?」とおっとりと話しかける。聖はその横で遠慮なくふきだしてから、由春の肩に手を置いた。
「パパさん、自分の結婚もまだなのに、証人のサインは何回目だっけ? ああいう抜けた奴には、今度からそこまで確認してやらないと」
「後にも先にも他にそんな奴いないだろ」
伊久磨と静香から婚姻届の証人欄をお願いされて書いていた由春は、ため息しか出ない。
結婚できなかった、と聞いた瞬間走った緊張が解けた後だけに、虚脱感がすごい。
「静香さんの誕生日に入籍しようって話でしたよね。次、いつ結婚するつもりなの? 直近の大安?」
困惑した様子で眉をひそめていたエレナが、光樹に尋ねた。
「二人ともショックだったみたいで、まだそこまでは……。俺が家に帰ったときに、うちの母親に『結婚できない』って報告してて。とりあえず、今日の結婚はナシです。『海の星』って、予約客のそういう情報大切にしてるみたいだから、来店前に伝えておいた方が良いのかと」
結婚できない……。結婚はナシ……。
光樹の発言が、そこかしこでこだまのように繰り返される。
「ケーキの文字変えるねー。『Happy Wedding』じゃなくて『Happy Birthday』に」
オリオンが場をとりなすように明るく言った。
* * *
「こんばんはー。夜の『海の星』のライトアップ、すごく綺麗ですね。毎日こんな場所で働いているの、羨ましいです」
エントランスに足を踏み入れた静香が、出迎えたエレナに笑顔で話しかける。
後に続いた伊久磨が、そっとドアを閉めた。
エレナが「コートを」と言う前に、伊久磨が静香の背後に回りこむ。片腕ずつ慎重にコートの袖から抜くのを手伝い、エレナが受け取った。そのついでに、伊久磨は「今日はお世話になります。皆さんで」と紙袋の菓子折りも手渡した。
「静香さん、腕の具合はどうですか」
「だいぶ良くなってきたんだけど、まだ万全じゃなくて。今日はシェフが、ナイフを使わないでもフォーク一本で食べられるようにしてくれるって。そういうところ、シェフは本当に優しいですよね」
「小さなお店ですし、お客様一人一人に向き合うことを大切にしています。今日は楽しんで行ってくださいね。光樹くんも、スタンバイしていますよ」
微笑みながら受け答えしていたエレナが、そこで言葉を詰まらせた。
傍目に、決して不自然ではなかったが、いつも見ている伊久磨にはわかった。戸惑い。話を続けようか、席に案内しようか、躊躇いがあるのを感じた。
伊久磨は、ここは自分から速やかに言わねば、と口を開く。
「すみません。今日の予約なんですが……」
「お誕生日。ということでうかがっています。光樹くんから、聞いています。静香さん、おめでとうございます。良い季節ですよね。冬が終わって、春になるいまの時期。日に日に空気が温かくなってきて」
決して、お世辞を言っている雰囲気ではなかった。
それでも、言葉が上滑りしている感は否めない。
あは、と静香が苦笑いを浮かべる。
「聞いちゃいました? 結婚できなかったの」
「ええ、まあ、その、でも、そういうこと、人生ですし、あるんじゃないですか。一度失敗していれば、次は大丈夫ですよ、間違いないです」
静香の顔をまっすぐに見上げながら、エレナは早口に言い募る。
それを受けて、静香も半笑いのまま頷いた。
「あたしも、まさか結婚で失敗するとは思わなかったけど、初めてだからそういうものかなって。次は間違わないようにする。経験だと思えば」
エレナの腕から静香のコートを抜き取り、自分の分と一緒にカウンター裏のクロークに置いてきた伊久磨は、その場の空気に無言でじっと耐えていた。
やがて、話が途切れたのを見計らい、ぼそっと呟いた。
「初婚もまだなのに、再婚に向けた会話になってる」
「違うって!! べつに伊久磨くんのこと責めたりしていないからね!? たしかに足りなかったのは伊久磨くんの書類だけど、あたしも一緒にきちんと調べていれば良かったのに、なんかごめんね!? 今日はだめだったけど、結婚はしようね!?」
「静香、声。もうほかのお客様が店内にいらっしゃるから。声、もう少しおさえて」
向かい合ってぎゃーぎゃー言い合う二人を、エレナは笑顔で見ていた。
* * *
光樹が、メイン料理の前のタイミングで、テーブルに姿を見せた。
「いらっしゃいませ。本日はお祝いの席ということで、おめでとうございます。リクエストを承ります。お好きな曲をどうぞ」
如才なく挨拶をされた静香は、シャンパンでほんのり赤らめた顔を光樹に向けた。
「どうしようかな。他にもお客様がいるから……。みんなが聞いて楽しい曲。ジブリメドレーとか」
光樹からちらっと視線を向けられた伊久磨も「それで」と軽く頷く。
わかりました、と請け負った光樹だが、そこでこらえきれなかったようにふきだした。
「それで、次の結婚はいつですか」
「光樹。一回も結婚していないのに、次も何も」
お前もか、と伊久磨が渋い表情になった。光樹は悪びれなく「すみません。気になって」と言い置いてからその場を立ち去った。
続いてメイン料理を運んできたのは聖で「一度の結婚の失敗くらい、気にするな」と言い出し、静香と伊久磨で揃って「もうそれわざとですよね!?」と食ってかかることになった。
食事中姿を見せなかった由春は、素知らぬ顔をしてデザートのケーキを運んできた。
真面目くさった顔で「大丈夫、今日は二人分だからこのサイズのケーキだし、文字も書き換えている。ウェディングケーキを用意していたとしても、なんとかしたけどな。今日のお祝いは誕生日だ。問題ない、おめでとう」と厳かに告げた。
さすがに、婚姻届の証人サインを頼んでいた伊久磨と静香は謝りかけたが「気にしなくていい」と存外に優しく遮られる。
「それはそれとして、今日はお祝いも用意していたんだが。正式に結婚してからの方がいいだろうな。戸籍謄本が手に入ったら、すぐ?」
「それなんですが……。なんでもない日だと、忘れそうだという話になって。俺が、ですね。たしかにお客様の記念日は覚えているんですけど、自分の記念日は毎日仕事していると簡単に忘れますから。それで、俺の誕生日が六月なので、その日にしようと。いま、話し合いで決めました」
「六月とはいっても、三ヶ月も空かないくらいか。そうだな。結婚決めるまでが早かったから、そのくらいの猶予期間をみてもかえっていいかも。だとすると……お祝いはまたそのときに、改めて」
お祝いが何かはわからないが、結婚していない以上「用意しているなら今でも」と伊久磨から言い出せるものでもない。「本当に申し訳ありません」と静香と二人揃って頭を下げることになったが、由春は「一番予定が狂ったのは本人たちなんだから、周りのことは気にするな」と言った。
こころなしか、慰めるような口調だった。
* * *
「今日は、結婚はできなかったけど、食事は楽しかったね」
食後のお茶を飲み、お土産を持たされて盛大に見送られ、二人でのんびりと夜道を歩き出す。
雪はだいぶ融けて、道は乾いている。空気はまだまだ冷たかったが、それでもほころびはじめた春の気配を含んでいた。
「その件に関しては本当に……。少しの間、お互い『独身』が延長になりましたね」
アルコールのせいか、浮ついている静香の足取りを気にしながら、伊久磨が呟く。
その視線の先で「うっ」と静香が躓きかけたのを見て、腕を伸ばした。
小脇に抱えるように抱き寄せながら「右腕を下にして転んだらどうするんですか」と耳元で苦言を囁く。
「ごめんごめん。今日ね、すごく楽しい誕生日だったから、まだドキドキしてる。なんだかんだで、クリスマスも一緒だったし、バレンタインも日にちはずれているけど会ってるし。出会ってから期間は短いけど、ちゃんと恋人しているよね」
腕の中で、伊久磨を見上げて、静香は満面の笑みを浮かべた。
見下ろしながら、伊久磨は言葉に詰まる。
一度、空に目を向けた。澄んだ夜気に、輝ける星。
「俺も、楽しかったです。いつも幸せをありがとうございます。今日は少し残念でした。早く静香を妻にしたい」
本音が口をついて出てしまう。
そっと体を離した静香は、すぐに左手で伊久磨の右手を握りしめた。
「そう言ってくれるだけで十分だよ。それに、戸籍はどうにもなってなくても、一緒の家に帰れる。ここまで来れて良かった。この先もずっとよろしくね」
手を繋いで、暗い道を再び二人並んで歩き出した。
「やっぱりもう少し、入籍早めます?」
「ううん、だめ。伊久磨くん、なんでもない日なら絶対に忘れるから。伊久磨くんの誕生日」
そこは譲れない、と笑いながら答えて、静香は繋いだ手に力を込めた。
第40話「星を掴む(後編)」はここでおしまいです。
普段ならアフターSSとして章をあらためるのですが、これはやっぱり40話の中に入れておこうかと。
作者の気持ち的に、ここで区切りとしました。
いつもお読み頂きありがとうございます!
ブクマや評価励みになります! この作品は少なくともこの後100万字は超えるところまで書きますし、作者が元気なうちは続くと思うので、完結まで★を取っておくタイプの方もどうぞ思い切って良いタイミングで(๑•̀ㅂ•́)و✧
作者が……元気になります……。
次回以降、35~37話「椿屋騒動編」直後と時間軸が合流する形で、香織の誕生日や、聖さんのお店作りの話につながっていきます。お付き合い頂けると幸いです。
以下は完全に蛇足のあとがきです。作者の話です。作品の邪魔になるのでふつうやっちゃいけないやつ。
大丈夫な方だけ。
「Happy Wedding(未遂)」
戸籍謄本がなくて結婚できない。
そんなひといる?
いますとも!! ソースは作者!!
役所の窓口で「受理できません」と断られ、双方の両親に「結婚できませんでした」と報告。
結婚記念日など飾りです(そうなのか)。
その後、べつの用事で役所にいったとき、窓口のひとに「ああああ、あのとき結婚できなかったひとだ!! すっごく気になってたんですよ!! 結婚できました!? 大丈夫!?」ときかれる。デキマシタヨー。
なお、そこまで心配されたのは、結婚(※やり直し)の日に両方とも用事があった関係で、夜になってから一応二人揃って閉まった役所に行き、24時間ポストに婚姻届を入れたので、日中役所の窓口にいかなかったからだと思うのです。
ちなみに私はその日、用事の帰りに「献血をお願いします!」と街で声をかけられ献血してきたんですが、献血カードを作るときに「今日婚姻届出す予定で、あと数時間で名字変わるんですけど、どっちの名前で作ればいいですか?」と聞いたら「なんでここにいるんですか!? 何してるんですか!?」って言われて「献血……おねがいされて……ええと……」ってなったのも今では良い思い出です。
という経験が小説に生きてきて良かったです。
戸籍謄本のことなんか知らなかったですからね。伊久磨だって調べているはずがないという確信のもと書きました。
おしまい。