あの空に輝ける星(前編)
「店の規模を縮小しようと思う。もう少し、目の届く範囲でやっていきたい」
いつかそういう話が出ると思っていた。
「良いですね。せっかくですから、一日一組様限定でも良いと思います。『海の星』総力を上げて、最高のおもてなしを」
「どうかな。さすがに一組だけだとお前がヘマしそうな気はする。何年やってきても、暇な日はどうも締まらない。満席で、想定外のオーダーが重なって。頭をフル回転させているときのほうが、笑ってるだろ、お前」
そうですかね。いつも笑っていると思います。
それは、笑顔でいるのも仕事のうちだから。むしろ笑うのが仕事だ。
確かに。この仕事についてから、毎日笑っていますよ。ここのところ、何年も、毎日。
何年どころか何十年か。ずいぶん長く続いたもんだな。俺もお前もこの店も。
いつか歩くことも立ち上がることもできなくなるその日まで、二人でそんな会話をしていたい。
* * *
「お料理、素晴らしかったです。岩清水大豪シェフの正統な後継者は日本の、しかも地方にいた! ということね。盲点だったわ~。『海の星』の岩清水シェフ、お会いできて本当に良かった」
食事を終えた大沼がいよいよ由春に話を聞きたいとのことで、日の当たる席で二人で向き合っている。
やや距離を置いた位置に控えた伊久磨は、極力表情を変えないようにしていたはずだが、隣に立っていた仁科にふきだされてしまった。
「蜷川さん。もう一回ぶちかましてくる? 良いんだよ、言って。三年間きっちりお客様がついて営業してきた店だ。東京者が知らなかったとしても、『新大陸を発見した!』みたいな言い様はないよなって」
(心。読まれてる)
視線を流すと、にこにこと笑いながら見上げてくる。
光に透ける茶髪に、透明度の高い瞳。極端に痩せているわけではないが、頬や顎のラインがシャープで、引き締まった印象。
飄々とした話しぶりながら、カメラを構えた瞬間に空気が変わるのは、今日何度も目撃している。
取り繕っても隠せないと、伊久磨は正直に告げた。
「成果を出せるひとは、半年や一年でも成果を出す世界なのだとは思います。二十代で独立して、メディアで有名なシェフも珍しくないですよね。開店から三ツ星まで最速二年かからなかった店もあるはず。そういう成功者を見慣れていると、『三年間店を潰さずに営業してきた』というだけでは物足りないのかと。それでも、俺は岩清水さんの料理が、好きです。岩清水さんがこの場でこの店を続けていくことで、幸せにしているひとがたくさんいると信じています」
もっと上を目指せ。もっとできるはずだ。稼げ。有名になれ。店を大きくしろ。もっと。
声は絶え間なく聞こえる。
それで良いのか。小さくまとまるな。大海に出ろ。世界と勝負をしなくて、一流となれるはずが。
ずっと聞こえている。
焦り。自分の無知や経験の無さに対する消せない不安。
ここにいる場合じゃない。もっと刺激を受けなければ。もっと知らなければ。
仁科は目をそらさないまま、明るい声で言った。
「ひとを幸せにするって、その心意気はすごく大切だよね。それはもちろん良いと思うんだけど、こうは考えない? 人口の多い場所で営業したほうが、当然お客様も多い。田舎じゃなくて都会で勝負するってそういうこと。今のやり方を続けていても、世界からお客様は来ない。蜷川さんは、もっとたくさんのひとを幸せにしたいと思わない?」
咄嗟に、言い返せない。言葉が浮かばなかった。
遠方の知人に「ぜひ行って欲しいお店がある」と言うほどではない。
「ここは近くて良いけれど、このくらいの店なら首都圏にはいくらでもある」と思われている。
もし、そういうことであるのならば。
(お客様には選択肢が無数にある。俺にとってここが唯一で、誇りで、かけがえのない場所だとしても。次の記念日は違うお店に行こう、そうお客様が思うのは自由だ。自分だってそれが自然だと思う)
仁科がにっと薄い唇を持ち上げて、目を輝かせて続ける。
「一日あたり百人、二百人、もっと来客のあるお店なら、仕事の密度が全然違う。尊敬できる先輩もたくさんいる。若いうちに多少無理してでも、身に着けられるものは身に着けるべきだ。蜷川さんはいつまでここにいるつもり? 本当に『たくさんのひとを幸せにしたい』なら、もっとできることがあるよね? 蜷川さん自身がレベルアップする必要があると思う。三年間で築き上げたものがあるなら、今蜷川さんが抜けても店が潰れるってことはないはずだ。一度外に出たら?」
全部が全部、ド正論。
突き崩せる隙は特に無い。
愉快そうに見上げてくる、色素の薄い茶色い瞳を見下ろして、伊久磨は慎重に答えた。
「仁科さんの言っていることは正しいです。正論は『言っている人間だけが気持ちよくて、誰も救わない』とか『言われなくてもわかっている』だなんて言いますが。俺は、そうやって正論を抑え込むのは、あまり好きじゃないです。正論に背を向けて、『なにか別の方法があるはず』と逃げ道を見つけようとすると、『邪道』になる恐れもある。正しいものは正しくて、否定はしません。自分の選択肢として『ここ以外で修行して、最終的にここに帰ってくる』それはもちろん考えるべきことだと思います」
仁科は頷いてから口を開く。
「ここしか知らないから、ここを最上だと思う。他を見てくれば、それは思い込みだとわかる。世界が狭い。まるで初恋を実らせようとしている少年みたいだ」
仁科が見ているものは、自分とは全然違うと、感じる。
仕事柄、最前線で戦うひとにたくさん会っているはず。比べたときに、今の伊久磨に何が足りないのか、冷静に見極めて話しているだけ。それでいいと思っているの? と。
(正しい。これは折に触れて俺自身が自問自答すべきこと。悩むのも迷うのも当然。考えが変わる瞬間がきたら、そのときは以前の自分を裏切ったと思わずに次の展開を迎えるべき。だけど)
「その件に関しては、全然言い返せません。そもそも戦うべき意見とは考えていません。仁科さんはたくさんの成功しているひとを見ていますよね。もしかしたら、失敗したひとも。その上で、今の時点で出した結論があり、それを俺に言っているとすれば、すごく貴重な意見だということもわかっています。そこに向き合って、俺が言えることがあるとすれば『この初恋に、生涯を捧げる生き方』も、ひとつの道としてありだと思います、ということです。ひとにはひとの成功の道筋が、必勝パターンがある。それは正しく、信じる道は信じる道として貫けば良いんです。俺もこのまま、貫きます」
この日初めて、仁科が本当に笑った、と感じた。
シャープな印象の目元や口元がくしゃっと一瞬崩れる。
すぐにそれを押し隠すように、ニヒルな表情にすり替えて、軽く息を吐いた。
「言ったね」
「言いました。俺は、俺の信じたやり方で、成功例になりたいと思います。たくさんのひとを幸せにしたいし、世界から『海の星』を目指して来るひとが増えたら、それはもちろん嬉しい。同時に、目の届く範囲の身近なひとたちも、オープンから今までこの店に来てくださっているお客様も幸せにしたい。キッチンにシェフがいる限り、俺も、いつか立ち上がれなくなる日まで、ここに立っていたいんです。この店で起きることを毎日見つめて、蓄積して、この店の歴史の一部になりたい。世の中には、初恋と添い遂げるひとがいても良いと思うんです」
血が上ってきたのを感じて、落ち着こうと思ったところで、ぱし、と背中を軽く叩かれる。
気さくな距離の詰め方だったが、間合いが絶妙すぎて嫌な気分は全然なかった。
目が合うと、存外に真剣な顔をしていた。
「『初恋』なのはわかったし、そこにロマンがあるのは知っている。けど、休暇は大事だよ。休むときは休んで。毎日店に立つのはシェフに任せておけばいい。俺はたくさんの料理人を見てきたけど、成功するひとは本当に気力と体力が化け物だ。仕事に関することはほぼすべて苦にしないし、前向きだし、くじけない。岩清水シェフはどうかな」
「SSRです」
「了解」
空気が少し、和んだ。
それが自分の手柄ではないのは、伊久磨自身が痛いほどわかっている。
(助けられてばかり。「要領が良くない」を自分への言い訳としてはいけない。この仕事をしていて、要領が悪くて許される場面なんてそうそうない。良くないものは磨かなくては)
反省は反省として、思いがけず話し込んでしまったことに今さらながらに気付いて少し驚く。
仁科は気にした様子もなく、考えながら付け加えてきた。
「ひとつ言えることがあるとすれば、時代にあった生き方をすることだと思う。たとえば老舗がよく言う『味を守り続ける』って良い意味に聞こえるし、それはそれで大切なんだけど、『求められる形に変化させる』のも大切だ。実際、大体の老舗は毎日努力をして少しずつ改良しているから、支持され続けるんだ。レストランの仕事も、『自分が良いと思っているものを押し付けること』じゃないよな。お客様が『これじゃない』って思っているならたぶんそれは違う。料理でもサービスでも。やりたいことだけやって、『これがこの店のオリジナリティだ、自分のやり方なのだ』と増長したらそこまで。相手に合わせて出方を考えるのは絶対に必要だよ。これだけ小さなお店でリピーターがついているなら、当然一番力を入れている部分だと思うけど」
「気をつけてはいますが、言葉にして教えて頂くとありがたいです」
深々と頭を下げてから、軽い雑談をしている大沼と由春に目を向ける。
大沼が、テーブル上に置いていたメタリックな赤のボイスレコーダーを持ち上げて「スイッチ入れるの忘れていたわ」と厚い唇を吊り上げて笑った。
そこからインタビューが始まった。