緑に染まった日々
「蜷川って、結構、短気だよな」
キッチンに戻ってきた伊久磨に対し、聖が悪戯っぽく笑いながら言った。
伊久磨はといえば、気の利いた返事もできぬまま、暗い面持ちで「料理をはじめてください」と告げる。
「いくま、笑顔だよ、笑顔。沈んだ顔は似合わない。お店にもそぐわない」
「お店に合わないのは問題ですね。笑います」
優しく声をかけてきたオリオンに対し、伊久磨は即座ににこりと微笑んだ。目元は仄暗く、声も平坦で感情がろくにこもっていないまま。
重症だな、という空気が流れる中、キッチンの境目に立っていた静香が声を上げた。
「えー!? 伊久磨くんって短気かなぁ。そんな風に思ったことないけど」
グリーンの搬入を終えた後、「見学しててもいいよ」と言われて店内に残っていたのである。聞き役は明菜で「落ち着いてみえます」と真剣な口調で相槌を打っていた。
二人の会話が聞こえてしまった由春が、苦笑を浮かべながら言った。
「短気というより、怒りのポイントがひとと少し違うんだよな。普通なら怒りそうなことをやり過ごすくせに、突然『そこなのか!?』ってところで怒る。よくよく考えればわからないんでもないんだけど、知らない相手から見たら不可解だろうなとは」
言われた伊久磨は、今にも頭を抱えそうな落ち込みっぷりで瞑目した。
「本当にすみません。喧嘩を売るつもりはなかったんですけど。どうしてあそこであんな……。自分でもびっくりです。未熟者ですよ」
「俺は、お前は怒るんじゃないかって思ってたよ。伊久磨は、自分はともかく、周りの人間がダメージくらうと本当にヘコむから。気にしすぎだとは思うけど、それがお前の良いところでもある。落ち込まなくて良い。あとは俺がどうにかする」
「結局岩清水さんに迷惑をかけてしまって」
「気にするな。ここは俺の店だ。俺が良いと言っているなら良いんだ。伊久磨は自分の仕事に集中しろ」
伊久磨の申し訳無さそうな態度を意に介すこともなく、由春は軽やかに言い放つ。
ぐずぐず言うのをやめた伊久磨は「はい」と短く返事をした。
そこに、ひそめているつもりらしいが全然ひそひそ声になっていない静香の声が届く。
「シェフかっこいい。明菜さん、シェフ、本当にカッコいいね。プライベートでもあんな感じ?」
「どうでしょう。あの、プライベートのお付き合いってあんまりないんですよ」
「ええっ、なんで? あれ、なんで? プライベートで付き合いがないっていうと、どこで付き合っているの?」
「どこなんでしょう……。あんまり会っていないんですよね。でも不満は別に。きちんと食べて寝て健康でいてくれればとりあえずはいいかなって」
「うっそぉぉぉぉ!! 会いたいでしょ!? 会いたいはずだよ、こんな近くにいるんだから!!」
「静香」
遠慮のない話しぶりを遮るように、伊久磨が冷ややかに名を呼ぶ。
「ごめんなさい。ひとの恋路が気になっちゃう年頃で」
「うん。わかるけど、明菜さんに迷惑かけてる場合じゃないから。そういうのは後で」
淡々と忠告をされた静香は、申し訳無さそうな顔をしつつも、明菜相手にさらに言い募った。
「伊久磨くんは短気ではないと思うのよ。たまに口うるさいけど、言っていることはわかる」
「はい、そう思います」
生真面目な調子で、明菜は返事をしていた。
* * *
「一口食べた瞬間に、目を瞠って『これは』と唸る料理を目指しているわけじゃないです。一口めだけ美味しくても意味がないから。最初から最後まで美味しい料理を作りたい。それで、大切なひとと一緒に食べているなら楽しく話しながら食べて欲しいし、食べさせたい相手がいるなら『次は一緒に』と思う。そういう料理を作っていきたい」
――彼の作る一皿一皿は、彼自身の繊細で優美な見た目からは思いもよらぬ大胆さや素朴さがある。
「フランス料理を取り巻く思惑は国内でも変遷があって、ここ半世紀の間にもいろんな場面でいろんな言葉が残されていると思います。そこには、いくらフランスで修行したからといって、フランス生まれフランス育ちの料理人と日本人は根本的に違うという気づきもあったでしょう。俺はどうかな……、日本で料理を作るなら日本の食材は使う。『和食』に寄せるつもりはないけど、近くはなるかもしれない。そういうのも含めて、『自分の料理』を突き詰めていきたいとは考えています。ん?」
――「何のために?」と尋ねると、彼は目に優しげな光を浮かべて即座に答えたのだ。
「それはもちろん、食べたひとを幸せにするためです。『自分の料理』と言うと、押し付けがましく『俺を見ろ』という意味に捉える方もいるかもしれませんが、それは一面的な理解だと思います。俺が、俺の知識や経験、感性で作るということは、自分のフィルターを通して見える世界をお客さまに味わってもらうという意味だと、俺は考えています。俺は、人並みに辛いことや悲しいことを経験してきているつもりです。苦しみから這い上がったり、足掻いたりしてきて今がある。自分の生き方を、自分でずっと見てきた。だから、他人の人生や幸せについても、真剣に考えることができると思っています」
――才能にも容姿にも恵まれて、経歴も輝かしくて。ずっと光の当たる場所を歩んできた人のように見えますが。
「もしそう思うなら、もちろんそれでも構いません。そこに光があると感じられて、料理を食べて幸せな気分になってくれるなら、それ以上望むことはないです。料理を食べてくれるひとを、幸せにしたいんですよ。どう、いま幸せじゃないですか? 足りない? おかわりします?」
西條聖は、野菜やハーブといった「緑色」の使い方に特に長けている。
この日、取材用に作ったのは蕗と蕗味噌を使い、ガラスの皿に盛り付けた清涼感のある春らしい料理。
食材が意外だとインタビュアーの大沼に言われた聖は「いまここでしか食べられない料理ですよ。わざわざお越し頂いたので」と笑いながら答えていた。
大沼の満足げな様子を見れば、一連の会話がどのように誌面に起こされるのか、わかるような気がした。
(西條さんらしい。「緑」は常緑さんの、西條さんの色だ。「いま、ここでしか食べられない」というのも、地方で料理人としてやっていく上では大切なことだと思う)
海の星で働いているときに「この料理、東京ではこの値段じゃたべられないよ」とはよく言われる。
それを伊久磨が由春に伝えたとき、由春は真剣なまなざしで答えた。「お金を払えばどこでも食べられる、と言われないようにしないとな」と。
インタビューを受けている聖を、エレナがじっと見つめていた。
その目の縁に浮かんだ光は、涙かもしれない。
あまり見ないようにしようと視線を逸して、伊久磨はキッチンへと向かう。
壁に張り付くようにして立っていた静香が顔を向けてきたことに気づき、「なに?」と小声で尋ねると、目を瞬きながら囁かれた。
「西條さんって、すこーし怖いと思っていたけど。真面目に話していると印象が違うね。たぶん、優しいひとなんだなって、わかった。こう、真正面から『ひとを幸せにするために』って言えちゃうのがすごい。西條さんの緑色も、あたしは好きだな。あたしも緑を扱うけど、あの人の緑の使い方、好き」
少しだけ目を潤ませている。
エレナの涙の意味はわからないけど、静香の場合は純粋に「感動」なのだろうなぁと考えつつ、伊久磨は頷いた。
「うん。信じているからだと思う。本気で、自分の生き方を。うちのシェフもそうだよ」
「わかるわかる。岩清水シェフは器が大きいし、カッコいいし。わかる」
(静香は岩清水さんのこと、何かに付けて「カッコいい」と言うけど、どうなんだろう。さっきは明菜さんが困るくらいに言っていたし。カッコいいのは確かだけど、そんなに言わなくても)
妙にひっかかったが、気にしたら負けだ、と自分に言い聞かせた。何に負けるのかは定かではないが、何かに負けるのだ。
「次は岩清水シェフだねっ」
「仕上がりを見てきます。静香はそのままおとなしくしていてくださいね」
「あ、うん。気をつける! 伊久磨くんも頑張ってね!!」
キッチンへと戻ると、ちょうど一皿仕上げていた由春が待ち構えていた。
ちらりと伊久磨に眼鏡越しの視線を向けて言う。
「聖は」
「空気良いです。完全に助けられてしまいました」
「それはそうだ。食事をしに来た相手を喜ばせるのは、レストランの基本だ。聖だってわかっている」
「わかってないのは俺ですね、わかります」
「伊久磨」
つい卑屈になりかけた伊久磨に対し、由春が強い調子で名を呼ぶ。
いけない、と口を閉ざすと、それ以上話題を蒸し返すことはなく、告げた。
「料理はお前が運べ。ワインもお前が選んですすめておけ。勝負はまだ終わってないんだ。お前もできる限りのことをしろ」
ハードル上げたんだったよな、と口の端を吊り上げて笑いながら、付け加えた。