ここで生きていく
――悪い奴じゃない。とにかく会ってみればいいかも。
まだ雪深い季節に椿香織にそう言われて、後にレストラン「海の星」となる古い洋館を訪れた。
そのとき初めて出会った眼鏡の男。
家族の死後、一時期心は闇をさまよっていた。日常に戻りつつある時期ではあったものの、まだ本調子ではなかった。喋れてはいたが、ろくに笑えなかった。記憶に混濁もあった。
その自分を、どうして引き受けようと決めたのか。
募集をかけて待っていれば、もっとマシな人間が現れるとは考えなかったのか。
(こんな不安定な人間を手元に置くなんて、普通は嫌だ。見合わせる。なのに)
どこをとっても「見所」なんか無かった。自分自身で確信している。
そんな蜷川伊久磨という人間を、彼は雇うと即決した。
真冬の雪の夜に手を差し伸べて命を繋いだのが香織なら、そのままではただの抜け殻でしかなかった自分に生き方を示したのは、間違いなく。
岩清水由春。
打ち解けるまでは、時間がかかった。すぐにわかりあうなんて無理だった。仕事に対する要求水準は凄まじく、憎しみに近い感情を抱いたこともたびたびあった。
いつも眼光が鋭く、触れたら切れそうで、遠くて、苦手で、扱いにくく、話すだけで緊張する。
その由春に対する意識が変わった日のことを、今でも覚えている。
彼の言葉を。
レストランで働くなんか自分には無理だと諦めかけたときに、言っていたのだ。
* * *
「それでは、キッチンへご案内します」
岩清水大豪のインタビューが終わり、伊久磨が先導して個室から大沼をキッチンへと連れ出す。
大豪と政道は、残って少し二人で話してから見に行く、とのこと。
「岩清水シェフは、料理も素晴らしいけど、やっぱり人柄だなぁ」
しみじみと大沼が呟き、ちらりと視線を向けた伊久磨も同意を示した。
「料理は人柄といいますからね。人間が、生き方が出るとはいいます。それをもって、人格批判をする批評家もいるのかもしれませんが」
「シェフの経歴の輝かしさが、そうさせるんでしょうね。往々にして名を挙げた人間に対し、押さえつけようとする風潮はどこにでもある。目ン玉くり抜いて『何見てんの?』って言ってやりたいくらいだわ。あの場所まで行くには、並大抵の苦労じゃない。あまりにも眩しくて、正面から見られないから、惨めったらしく『自分の好みに合わない』だけのことにもっともらしい理屈をつけて批判の刃にするのでしょう」
彼女にとっての憧れ「伝説の岩清水シェフ」と話し終えた直後で、頬が上気したように染まっていた。
力強い言葉に耳を傾けながら、伊久磨も視線を前に向けながらごく素直な考えを口にした。
「そういう方は、相手を傷つけることでしか『自分』を表現できないんでしょうか。俺にはわかりません。レストランで働いていると、そんなこと考えている暇が全然ない。この場に来たひとが幸せになるように気を配るのが普段の仕事ですから」
「あら」
声を上げられて、何を見つけたのかと目を向けると、目が合った。見られていた。
「いま何年目?」
「丸三年くらいです。大学卒業して、そのままここに」
「どこかで働いていたわけじゃなくて?」
「俺に一から仕事を教えたのは、岩清水由春シェフです。シェフに言われたことを守って働いています」
赤いルージュのひかれた唇がにっと笑みの形になった。
「あの岩清水シェフの甥ね」
「正確にはもう少し遠いみたいですが。父親同士が従兄弟だと言っていたので」
「若くしてこの店を率いている、と。楽しみだわ」
弾んだ声を聞いて、伊久磨は声もなく笑みこぼした。
(最初、眼中なさそうだったのに。大豪シェフに気を取られすぎていただけか)
一瞬、大沼に由春を軽んじられたかと、臨戦態勢になりかけた自分を反省した。
自分の欲望に忠実で、猪突猛進型、たぶんそういうひと。今は第一の目的を果たしたから落ち着いて、周りを見る余裕が出てきた。
東京から来た人間に対し、心に防壁を築いていたのは、自分もまた同じ。
(まだまだ全然未熟なんてものじゃない。「詮索」はしない。でも「推し量る」のは必要。店の流儀や考え方を「押し付ける」ことをしてはいけない。こちらの考えを通す前に、相手をよく見て「何を望んでいるか」を先読みする。その上で、心地よく過ごせるように気をつける。普段の仕事から心がけていても、すぐにできなくなる。身についていないな)
彼女に対して構えていた気持ちが解けつつある。
神経が過敏になっていたことをひたすら反省した。
ただし、いまのこの空気は、大豪によるところも大きい。
インタビューを横で聞いていた伊久磨も憧憬に胸が焼かれそうになった。
* * *
楽しそうに嬉しそうに。子どものように、偉大な巨人のように。
親しみやすいと、簡単には言えない。踏み込ませない線を引いている、そういった緊張感はあった。
馴れ馴れしさやなれ合いを優雅にかわす、そうして容易に手が届かない人間なのだとその存在で思い知らせる。
それでいて、限りなく目の前の相手を、周りの人間を受け入れている。
――「座右の銘」? 本当にそんなの聞くんだ。書くなよ
“敏い者は受け入れる。愚者は我を通す”
声を上げて笑いながら話していた。
――あらゆる意見に謙虚に耳を傾け、自分の中で生かす。肥大した自尊心など邪魔だ。
――だいたい、インタビューではよく「シェフのこだわり」なんて聞かれるけどな。聞いてくる相手はすでに結論ありき、己の中で導線を引いていることが多い。一言で、ずばっと人生や仕事を言い表すような何かを。そんな都合の良い言葉なんかそうそう無い。日々の仕事の中で「これを大切にしよう」「守るべき一線」と思うことはある。だけどそれは繰り返して体になじませるうちに「当たり前」「習慣」となる。それを「こだわり」と言うのは、しっくりこない。たとえば言葉にすると「いつも清潔な服装、清潔なキッチン」そういうことになるかもしれないが、それは「こだわり」ではなく「日々のこと」だ。
(偉大な人間に対する、畏れ)
威圧されるのではないかと、構えてしまう。
だけど大豪の話す内容は、謙虚でむしろ一歩身を引いているように感じた。
そこに、侵し難い「芯」がある。
越えられない線。触れられない高み。見上げるしかない。
聞こえる。
通奏底音のように響き続ける、たしかな緊張感。
――若い料理人たちに言いたいこと? 勢いのある奴がずいぶん俺の前を走っているよ。走っているつもりになっているみたいだけどな、実は周回遅れで俺の方がまだまだ何周か先行ってる。おいそれと追いついたり追い越せると思うなよ。
今日のインタビュアーだって、「伝説の岩清水シェフ」に期待する言葉はあったのかもしれない。
それを理解しながら、凌駕した答えを返している。強気と謙虚のバランスが絶妙で、空気が心地よく張り詰めていた。
彼が語るその場が、まるで一流と呼ばれるレストランそのもののようだった。
にこやかに語り続けた最後に、大豪が少し咳き込んだ。あら、シェフ風邪ですか。どこかお悪いんですか? と尋ねるインタビュアーの大沼。
伊久磨は、そっと横に立って話に耳を傾けていた岩清水政道に目を向けた。
穏やかなまなざしで、窓からの光を受けて楽しげに笑う、真っ白で染みも皺も一つもないコックコート姿の大豪を見ていた。