ひとの出会う場所
ドアベルが鳴り響き、伊久磨は素早く席を立った。
「見てきます。どうぞごゆっくり」
明菜と由春の父、政道に断りを入れて、にこりと微笑む。
席について話しはじめて五分といったところだが、政道の話しぶりには、明菜と揃って引き込まれていた。
見た目の通りに、自信に満ち溢れた態度で雄弁に語る、とは少し違う。
想像以上に謙虚で、「由春とはなかなか時間がとれなくて、私の方がお二人から教えてもらいたいことがたくさんあります」と切り出してきた。その上で、伊久磨には普段の仕事のことを聞き、明菜には「結婚の話、由春が急いでいるみたいだけど、大丈夫ですか」と丁寧に尋ねていた。
話題が移り変わった頃合いだったので、席を立つのはやぶさかではなかったが、少し後ろ髪を引かれる思いがあったのも事実。
(立場や年齢を考えれば、もっと偉そうでも不思議はないのに。ものすごく話しやすい。聞き役をしてくれているからかな。「自分の話」じゃなくて、「相手の話」を話題の中心に持ってくる感じ)
ほんの短い時間話しただけで、すっと胸のすくような清涼感があった。
自分が「海の星」で働いてなければ、決して出会うことがなかったひとの一人。たとえば普通の会社に勤めて平社員をしていたら、話す機会など無い相手のはず。
不思議な縁だと伊久磨が思っていたところで、さらりと言われた。
「ある有名なレストランで、一時的にひどく売上が落ち込んだときのこと。オーナーはシェフをすげ替えることなく、やり手と評判のメートル・ドテルを迎えて、見事に売上を回復したという話があります。お客様が何度も同じレストランに足を運ぶ理由は、料理よりもサービスの面が大きい。由春が蜷川くんに出会えたのは本当に幸運なことだ。いつもありがとう。おっと、引き留めてごめんなさい、行って大丈夫ですよ」
あたたかな笑みを添えて。
伊久磨は頭を下げて離席したが、背を向けた瞬間瞑目してしまった。胸が熱いような、痛いような。
(岩清水家、怖っ。骨抜きにされそう。コンサルタントってなんだっけ。詐欺師じゃないよな)
思わず「会社に入れてください」と転職希望を言い出しかねなかった。来客があって良かった。あとは明菜にお任せだ、と振り返らず足早に進む。
エントランスには、黒一色の私服に、軍手姿でシートにくるんだ木の枝を持った光樹が立っていた。
「伊久磨さん、おはようございます。グリーンと装花の搬入はじめるよ」
その後ろに静香が立っていて「それはここに置いて」と指示を出しつつ「おはよう」と挨拶してくる。
エントランスの大壺に枝ものを中心とした花を活け、撮影で使うテーブルには装花を入れる手筈になっていた。
静香はギプスは外したが、まだ右手でものを持つのを極力避けている。
運転は静香の母の紀子で、大きなものは春休み中で平日も動ける光樹が運んでいるらしい。
「まだ荷物あるよな。見てくる」
「大丈夫。俺がやるから、伊久磨さんは中のことしていて。姉ちゃんに仕事発注してくれてありがと。まだ全然働けないみたいだけど」
静香が何かを答える前に、光樹がすべて答える。あうあう、と静香は言葉を詰まらせていた。
その様子を見ながら、伊久磨は笑みこぼした。
「枝ものはいまの時期一週間余裕で保つし、テーブル装花も週末まではいけそうだから。今後静香には仕事をお願いすることもあるだろうし、撮影の為に特別ってわけじゃないんだけど」
「伊久磨さんがフラワーアレンジ習ってしまえば経費浮くんじゃない。うちは祖父ちゃんの造園の方で花の栽培もしているから、材料の発注もらえればそれで」
抜け目のない受け答えする光樹を、静香は呆れたように見上げていた。並ぶと、光樹の方が背が高い。
そこに、奥から由春が姿を見せた。
伊久磨の横に立つと、姉弟に視線をすべらせ、楽しげに言う。
「斎勝一家の到着か。ん、誰かと思ったらフローリストか? 髪黒くしたんだ」
「片手使えないと、いろいろ億劫になっちゃって。まめに染めるのも大変だから、黒に戻しちゃいました」
東京から帰ってくる前に、静香は髪を黒く染めていた。
「新鮮だな。どっちも似合うと思うけど。って、どうせ伊久磨がさんざん言っているな」
「いえいえ。話題にしてもらうと説明もできるし、気が楽です。ありがとうございます」
光樹はエントランスの床にシートを広げて、花の枝を置いていたいたが、しゃがみこんだ姿勢のままホールの方をうかがい、伊久磨に目を向けた。
「客席に誰かいます?」
「シェフのお父様と、婚約者の明菜さん。光樹もあとで挨拶して」
「明菜さんは会ったことある。佐々木さんの会食のときに、同席してた。シェフのお父さんは初めて」
「そっか、そういえばそうだ。光樹はもう、ヒロさんにも会ってたな」
立ち上がった光樹は、歩き出して静香とすれ違いざま「姉ちゃん、邪魔にならないところにいてね。無駄に手を出そうとして、怪我悪化させても面倒だから」と、釘を刺して出て行った。
言い返せないでいた、静香は「光樹……」とぼやいている。
由春は笑い声をたててから静香に和やかに話しかけた。
「光樹なついているよな、伊久磨に。そこの結婚、一番喜んでそう。そうだ、結婚するんだよな?」
「え、あ、はいっ、あのっ、シェフは伊久磨くんの上司だから、こういうときはもうちょっときちんと挨拶をと思っていたんですけど、流れ的にそう」
動揺しきりの静香に、伊久磨は「静香、言えてないです。落ち着いてください」と声をかけてからドアに向かった。
「手伝ってきます。静香は中で座ってて。ぶつかったりすると、危ないから。腕が」
「うん。伊久磨くんも光樹と同じことを言ってるね……」
切なげに呟く声を背に、伊久磨は外へと姿を消す。
見送る形になった静香に、由春が言った。
「光樹、最近服装変わったんじゃないか。黒が多い気がする。伊久磨の影響?」
「シェフも気づいていました? たぶん、そう。本人はバレてないと思っているけど。好きなんだろうなぁ、伊久磨くんのこと」
「多感な時期だろうに、素直だよな。素直で言えば姉弟揃ってなんだけど。伊久磨にはフローリストみたいな感じが良いよ。合ってる」
その声音がひどく優しげで、思わず顔を見た静香に、由春は穏やかに微笑みかけた。
「おめでとう。結婚祝いに関してはまたあとで改めて。来週、バースデイディナーの予約もらってるけど、入籍もその日か?」
* * *
「いや~、さすがにまだ肌寒いですね、北国は。こんにちは、今日はお世話になります!!」
昼近くの時間帯になり、伊久磨が駅まで迎えに出ていた取材の二人組が「海の星」に到着した。エントランスに立っていたエレナに向かい、大きな声で挨拶。
ライターはショートカットの明るい印象の女性で、カメラマンは細身のひょろりとした男性。
「店の外観からすごいですね。何か由緒ある建物なんですか? 内装も豪華。あ、食器類の販売がある。もしかしてアンティークも販売しています?」
到着早々矢継ぎ早に言われて、伊久磨はいつも客に答える通りに如才なく応対する。建物のこと、「和かな」の食器のこと。
「アンティークは販売していません。時々聞かれるんですけど。大人のお客様が多いので、みだりに手を触れることもないですね。『価値がわるから、壊すのが恐ろしい』なんて言われて。あっ」
言っているそばから、カメラマンの男性がエントランスにあったアンティークチェアに触れ、早速写真を撮りまくっていた。
「すごい、これ明治か大正あたりの和製アンティークだ。形はヴィクトリアンだけど、木製部分に漆蒔絵が施されているし、生地は西陣織かな。こんな保存状態良いの、文化財の指定受けていても不思議はないんじゃないですか。店内全部こう?」
勢い込んで言われて、伊久磨は笑みを絶やさぬまま「テーブルや椅子はもう少し普段使いできるものです。この椅子は目を引くから、季節ごとにディスプレイを入れ替えるときに置くこともありますが」と説明をする。
「伝説の岩清水シェフが田舎に引っ込んで何を始めるのかと思いましたけど、これは期待しかないですね!」
さらにはライターの女性に溌剌と言われて、伊久磨は笑みを浮かべつつもすかさず言い返した。
「大沼さん。『海の星』は岩清水大豪シェフのお店ではありません。オーナーシェフは岩清水由春といいます。店自体はもうすぐ四年目です。昨日今日始めたわけでもないです」
ライター 大沼美樹
駅で出迎えた際に名刺は受け取っていたので、伊久磨は名前で呼んだ。
「ええ。岩清水シェフから、『面白いもの見せてやるからついでに』って言われてまして。楽しみにしてきたんですよ。いま、こちらに帰国してきたばかりの西條シェフもいらっしゃるとか。新しくお店を出す準備をしていると聞きましたけど、もう本当にお会いしたくて。来れて良かったです」
愛想は抜群に良い。三十歳くらいだろうか、いかにも「仕事ができるやり手です」という雰囲気を漂わせている。
(少し引っかかる気がするのは、俺の考えすぎかな。取材慣れしているだろうし、気難しいひとにもたくさん会ってきたはず。シェフに失礼なことを言うなんてないと思うけど)
これなら、政道の方がよほど謙虚で話しやすかった、と思ったところで奥から由春が出てきた。
気づいた大沼が、笑顔で言う。
「『料理帝国』の大沼です。今日はお時間作って頂き、ありがとうございます」
挨拶はふつう。
注意して見守っていた伊久磨は、やはり自分の考えすぎかな、と思い直そうとしたが。
由春の後から現れた大豪に対し、大沼は声色を変えて言った。
「シェフ、お久しぶりです! 今日はシェフにお会いできると聞いて、来ちゃいましたよ!! 取材を受けて頂きありがとうございました!!」
(差をつけられた気がする)
わざとなのか、天然なのか。
少し嫌な予感がした伊久磨が由春に目を向けると、由春はいつものように泰然とした態度で大沼を見ていた。