親子の会話
「由春」
普段聞き慣れない声が、その名を呼ぶ。
艶めいていて、音楽的な深みと響きがある声。
「襟が少し折れてる」
ツイードの茶色のジャケットを身につけたそのひとは、ステンレスの作業台越しに由春に向き合い、自分のシャツの襟を指で軽くつまみ上げた。
「ん。了解」
示された位置をちらりと見て、由春は襟を素早く整える。
そのやりとりを、会釈しながらキッチンに入ってきた明菜が、緊張した面持ちで見つめていた。傍から見ても、頬が強張っている。
レストラン「海の星」の定休日、雑誌取材の日。
準備がてら、普段通りに朝からキッチンで立ち働く由春。
従業員は昼に顔を出せば良いという段取りで、伊久磨以外のオリオンやエレナはまだ。
一方、明菜はまだ従業員ではないが、早い時間からの見学を希望しており、仕事で休みをとって今しがた到着したところ。
キッチンには、コックコート姿の聖と岩清水大豪シェフ、そして由春の父親が居合わせていた。
「おはようございます。明菜さん、シェフのお父様、お会いするのは初めてですか」
伊久磨が小声で囁きかけると、明菜はぎこちない仕草で伊久磨を見上げて、挨拶を返してから頷いた。
「シェフに、似ていますね。すぐにわかりました」
言葉を選びながら告げる様子を目を細めて眺めつつ、伊久磨は笑みこぼしながら答える。
「カッコいいですよね。貫禄があって。シェフも年齢重ねてもああいう感じだと思います。明菜さんも夢が広がるんじゃないですか。ずーっとカッコいいですよ」
あう、と変な声をもらして、明菜は俯いた。頬や耳がほんのりと赤く染まっている。
忙しなく目をしばたかせながら、かすれ気味の早口で言った。
「蜷川さんって、褒めますよね。相手が身内でも男性でも自然に」
「そうですね。贔屓や欲目は良くないですけど、もともと身内下げ自体が好きじゃないんです。謙虚とは違うだろって思ってしまって。本人に対しては……、どうだろう。さすがに言わないかな」
「言ってそう。たぶん言っていると思います。ナチュラル過ぎて自分で気づかないだけで」
明菜に楽しげに言われて、伊久磨は視線をさまよわせて「そうかな」と呟く。
視線の先には大豪と笑い合う聖がいて、そこに由春の父が何か口を挟み、和やかに会話をしていた。
その様子を見るとはなしに見つつ、伊久磨は呟いた。
「あそこ四人もひとがいて、内三人が岩清水ですよ。貫禄が凄いな。シェフが可愛く見える。明菜さん、お父様にはご挨拶しないんですか?」
「あそこに入っていくのは無理です。無理。お邪魔ですよ。もう少しさりげないタイミングで」
大げさなほどに手を振り、明菜は身を縮こまらせる。
「明菜」
涼やかでよく通る声が、一瞬静まり返った空間に響き渡った。
顔を上げたものの、明菜の表情は笑顔のまま固まっている。
かすかに首を傾げつつ、腰に手を当てた由春が口を開いた。
「おはよう。早くからありがとう。うちの親父が来てるから、紹介する」
ふっと伊久磨は思わず噴き出す。
「ご指名ですよ。これは行くしか無いですね」
「足が震えてます」
無理やりの笑みを浮かべた明菜は、本当によろよろとふらつきながら進み出る。
不思議そうに見ていた由春は、不安になったのか、作業台を回り込んで明菜の元まで歩いてきた。顔を見下ろし、眼鏡の奥の目を見開く。
「どうした。キッチン、寒いんじゃないか? ホールには暖房入れている。無理しないで向こうで待てばいい」
その言葉を耳にした伊久磨は、心得たとばかりに「コーヒーいれますよ。お父様と明菜さんの分で大丈夫ですか?」と声をかけた。
「そうだな。こっちはまだやることがあるから」
当然のように答えた由春のコックコートの脇腹あたりを、明菜がそっと指で掴んだ。
「シェフ」
ひとりにしないで。
声にならない声。見上げる潤んだ目が訴えている。
(たしかに、シェフのお父様といえ、いきなり一対一はきついかな。むしろ、お義父様だから)
明菜は、普段わがままを言いそうにないし、これは本気のヘルプではないだろうか。
他人事として眺めていた伊久磨であったが、ちらっと視線を向けてきた由春と目が合った。
眼鏡をきらりと光らせてから、由春は明菜に優しく言い聞かせる。
「伊久磨が同席するから」
「俺!?」
巻き込まれた!? と聞き返した伊久磨に構わず、由春は「コーヒー三人分。伊久磨の分も給料からはひかない。好きなだけトッピングしていいぞ」と温情を示してきた。
(給料からひくもひかないも、原価数十円……。トッピングってなんだよ。生クリームか?)
いきなりぶん投げてこられても、と目で責めようとしたが、由春はすでにその場に歩み寄ってきていた父親へと顔を向けている。
「花坂明菜さん。この間家にも連れて行ったから、カーチャンから聞いていると思うけど。春からうちの店のスタッフになる」
由春の説明に、由春の父は瞳を輝かせ、先を促した。
「それで?」
まだ何かあるんだよな? という。
なぜか、由春にちらっと視線を流された。つられたように明菜まで、伊久磨を見てくる。
二人が見たことで、由春の父まで目を向けてきた。
(なんだよこの空気。俺は部外者だし、余計な口出しはしない方が良いはずなんだけど)
「身を……固めるみたいです」
言わないと先に進まないのかと、つい言ってしまった。
「由春が?」
面白そうに聞き返される。
(なんだこの仕打ち。明らかにこれを答えるのは俺じゃないよな?)
由春を軽く睨みつけてから、伊久磨はなるべく穏やかに答えた。
まるで仕事のお客様に接するがごとく。
「お店も軌道に乗っていますし、本人も三十歳ですし。明菜さんと付き合いだしたのは最近ですけど、古い知り合いでお互いずっと好き合っていたみたいですから。そろそろ……って、シェフ! なんでこれ俺が説明しているんですか!!」
さすがにおかしい、と由春に抗議をしたところ、大変良い笑顔を向けられた。「ありがとう」と「お前も大変だな」が顔に書いてあった。
大変なのは主にシェフのせいですが、とよほど言いたくなる。
「由春は相変わらず蜷川くんに甘えているな」
(よし、シェフの父、良いこと言った)
全面的に同意しかないと、伊久磨は力強く頷く。
「そういうことで。駅前の新築、二人で住むのに使わせてもらいたい。って、もうカーチャンには言ってあるけど、親父に直接話す機会がなくて」
「同じ家に暮らしていても、会わないからな。明菜さん、本当にうちの息子で大丈夫ですか? 家に全然いないし、そうかといって同じ職場だと、何かとぶつかることもあるだろうし」
さらっと水を向けられた明菜は、ひきつったまま答えた。
「私の方こそ。由春さんのことはずっと尊敬していたんですけど、まだお付き合いにも現実感がなくて……。ご挨拶が遅くなりまして申し訳ありません」
そこに、つかつかと歩いてくる足音が響いた。
背後から、がしっと由春の肩に腕を回して、顔を並べるように肩に顎を乗せたのは、大豪。
「こいつな。子どもの頃春ちゃんって呼ばれていたんだぞ。な、『はあちゃん』!!」
ごくごく迷惑そうな顔で、由春は視線を大豪に流して、そっけなく言った。
「そんな親戚のおじさんムーヴかましてくれなくてもいいですよ、叔父貴。俺もうすぐ三十歳です」
はあちゃん……、と明菜は微笑を浮かべて口にする。
由春の父はといえば、遠くを見るまなざしで、感慨深げに独り呟いていた。
「あの小さかったはあちゃんが結婚か」
すかさず、大豪が合いの手を入れる。
「そうそう、小さかった頃、こいつを俺が山に連れ出してさ。道を外れて三日間行方不明になった挙げ句、腕折れた状態で家に返して、詩子さんが怒髪天だったの、昨日みたいに思い出せる」
(とんでもないこと言い出した)
伊久磨は由春に目を向ける。「事実だ。以来、うちの母親と叔父貴は顔を合わせるとラグナロクだ」と厳粛な面持ちで説明をされた。
「あのときにお前、山菜にずいぶん詳しくなっただろう」
「生きるために、ですね。今でも山菜の扱いは得意分野ですよ」
「俺も俺も」
明菜は、微笑みを浮かべて岩清水シェフ二人のやりとりを眺めているものの、話に入る様子はない。
それを見て、「あらたまって話というほどでもないですけど、ゆっくりしましょう」由春の父が声をかける。
流れで、ジャケットの内ポケットから使い込んだ革の名刺入れを取り出した。
「由春からどのくらい話を聞いているかわからないですが、一応会社をやっています。由春も和嘉那も今後うちの会社に入るつもりはなさそうですが。湛くんもうまくかわすんだ。明菜さん、興味は? 或いは……」
明菜に続いて、伊久磨にも名刺が渡される。
銀の星企画・代表取締役社長 岩清水政道
白無地で厚手の紙に、黒い字が浮かび上がるような印刷が施された、高級そうな名刺。
余計なことが全然書いていない。
(やっぱり社長なんだ。ふつうの会社勤めではないだろうなって思っていたけど。なんの会社だろう)
名刺をひっくり返して見たところで、本人から説明があった。
「飲食店を始めとしたサービス業のコンサルタントをしている。明菜さんや蜷川くんなら現場も知っているし」
「親父。俺の社員は引き抜くな」
由春が、常になく鋭い口調で遮った。
「まあ、今のところはね。選択肢として考えておいてほしい」
言われた方はまったく悪びれた様子もなく、茶目っ気たっぷりに言ってホールへと歩き出す。
残された明菜は、名刺を手にしたまま由春を見てぼそっと呟いていた。
「お父さんの職業、『地主』って言ってませんでしたか」
「地主もしているけど、普段は県内外のコンサルタントでほとんど家を空けている。実質いないも同然だから、気を使う必要はない。今日は自分の仕事にも関わりそうだからって面白がって顔出しにきたけど、適当に話を合わせておいてくれればいいから。伊久磨もいるし」
相変わらず巻き込むつもりらしいオーナーシェフを、伊久磨は「甘えないでください」と叱りつけた。