夜明け少し前
――遅番にしてもらいました。寝ます。起こしてください。
朝の四時。
不意に目が覚めてスマホを見たら、数分前に送られてきたばかりのメッセージが表示されていた。
「伊久磨くん、わからない」
暗い部屋のベッドの中。
光るスマホの画面を眺めて、齋勝静香は声に出して呟く。
(遅番の出社時間が何時で、起こして欲しいのは何時なのか、全然わからない。伊久磨くんの出社はいつも九時前だけど、遅番っていうと今日はそれよりも遅い?)
メッセージの情報が少なすぎる。
わかることと言えば、伊久磨はなんらかの理由で帰宅が遅くなり、さきほど就寝したらしいこと。
静香に起こしてもらいたいらしいこと。
結論:甘えられている。
(これはあたしの力を必要としているってことよね!? 一人暮らし歴の長いはずの伊久磨くんがわざわざお願いしてくるって、すっごいレアイベントってことでいいですか!!)
「もう無理無理。寝てられない。起きて出かける用意をしよう」
がばっと起き上がる。
室内とはいえ気温は低く、寒い。
まだ春になりきらないこの季節、夜明け前が一番暗く、冷え込んでいるのだ。
それでも、ひとりでやけに盛り上がってしまった静香は全然気にならず、ベッド脇に置いてあったルームシューズを履いて、いそいそと暗い廊下へと出ていく。
骨折をきっかけに東京での仕事を切り上げる決心をし、二月中は実家に帰ってきて過ごしていた。
三月に入ってから、ほんの数日前に東京に戻り、引っ越しを含めて完全に引き払ってきたばかり。
右腕にはいまだギプスをしている。外せるのはもう少し先。
日常生活に支障がない状態になったら、伊久磨と一緒に暮らす手筈になっている。
さしあたり今現在は実家暮らし続行中。
なにせ伊久磨はほとんど自宅アパートを留守にしている。仕事の拘束時間が長い。
休前日に静香が泊まりにいくくらいの付き合いで、意外に会う機会は少なかった。
それでいて「近距離」という安心感のせいか、以前ほどまめに連絡を取り合っていない。
結論:会える機会は最大限に生かすべし。
(なにせ伊久磨くんに頼られちゃったからな~。これは行くしかないよな~。合鍵も持ってるし。電話よりも直に起こした方が絶対いいよねっ)
ぱたぱたと廊下を歩いて洗面所に向かう。
トイレから出てきた光樹とばったり遭遇した。
「うわっ。姉ちゃんなんでこんな時間に起きてんの」
「おはよう光樹。お姉ちゃん今から、伊久磨くんの家行ってくる」
「今から? 何言ってんの?? 外まだ暗いけど」
ジャージにパーカー姿の光樹は、うつろな表情で静香を見下ろしてきた。「また何か変なことを言っている」と顔に書いてあるが、静香は特に気にせずに、にこにこと言う。
「お姉ちゃん、伊久磨くんに頼られちゃって。これはもう行くしかないなって」
「話は見えてないけど、緊急じゃないならもう少し待ちなよ。『いま』来るのは伊久磨さんも想定していないんじゃないかな。頼られたってなに? 倒れてんの?」
「それがね、伊久磨くん、あたしに起こして欲しいんだって。でも何時に起こせばいいかわからなくて。寝たばかりの伊久磨くんに『何時に起こす?』って聞くわけにもいかないから、とりあえず家に行くの」
「……姉ちゃんが何を言ってるのかわからない」
前髪をぐしゃぐしゃかきまぜて、額を手でおさえてしまった光樹をさておき「じゃ、そういうことだから」と笑顔で言って静香はその横をすり抜けた。
片腕生活には慣れてきたとはいえ、身支度にも時間がかかる。ぐずぐずしてはいられない。
「あのさ。姉ちゃん、滑って転んで死なないように気をつけて」
光樹の眠そうな声が背中を追いかけてきて、「大丈夫!!」と静香は機嫌よく返事をした。
* * *
「あ……ごめんなさい。来ると思ってなくて、U字ロックかけてました……」
徒歩で実家から伊久磨のアパートまでたどり着いて朝の五時。
意気揚々と合鍵で部屋に入ろうとしたら、U字ロックに阻まれてしまい、がちゃがちゃしているうちに伊久磨が起きてきた。
黒のジップアップフリースに、ジャージ。仕事から帰ってきてそのままというわけではなく、着替えて寝ていたのはわかった。
「起こしちゃった。起こしにきたけど、いま起こすつもりじゃなかったの」
何をどう言い訳しようかと慌てる静香であったが、伊久磨は大きなあくびをしながらドアをぐっと開く。入って、という意味と了解して静香は玄関に入り込んだ。
伊久磨は相当眠いらしく、目がほとんど開いていない。
「うん……ねむ。寝ます。寝ないと今日仕事にならないから」
「ね、寝る前に。何時に起こせばいい? あのっ、ほんとはね、起こさないようにそっと部屋に入って……。八時過ぎくらいに一回声をかけてみて、と思ってて……」
(あたしは一体何をしているのか)
仕事もせずに実家暮らしで、体力は余し気味。
近くに住んでいるのに、伊久磨とはあまり会えず、連絡も密ではなく。
珍しく「頼られた」と舞い上がって来てしまったが、ごく普通に迷惑だったのでは、と遅まきながら気づく。
(重くて、独りよがりで、迷惑)
落ち込む静香をよそに、伊久磨はただただ眠そうであった。
「十時までには会社に行きたいので……。八時過ぎですね。一緒に朝ごはん食べるくらいの時間は。痛」
玄関からキッチンを通り過ぎ、部屋に足を踏み入れるときに、どこかをぶつけたらしい。普段スマートな印象の伊久磨だけに、ひたすら(うわー、うわー、隙だらけだ)と思いつつ静香は後に続いた。
寝起きで冷えているかと思ったが、エアコンがついた部屋の中は暖かだった。
ベッドは、とてもひとが寝ていたと思えないほどきちっとカバーがかかった状態。
「伊久磨くん、寝てたんだよね? どこに?」
「床。熟睡しないように。起きられないと困るから。風邪ひかないようにエアコンつけて」
たしかに、ベッド脇のラグマットの上に毛布が投げ出してある。
床、というその言葉通り、伊久磨はラグマットの上に座り込んで毛布を体に巻きつけ、目を閉ざしてしまった。
「いや、あたしいるから!! 起こしてあげるから、ちゃんとベッドで寝なよ!? 床で寝直さなくていいから!!」
「そっか……」
わかっているのかいないのか、のそっと立ち上がり、ベッドの上に無造作に倒れ込む。
「おふとんかけて、寝て大丈夫だってば。もしかして、普段からそうなの?」
「うん。どうせ家にいる時間短いから、寝るときもエアコンつけて。ベッドではあまり寝ない。朝起きられないと困るから」
目は開いていない。
「もっと、人間らしい生活を……。伊久磨くんの生活って」
(だらしない、とはちょっと違うけど。なんだろう。限界? こんなに無防備なところ、想像もつかなくて)
こじ開けるように薄目を開いた伊久磨が、片腕を伸ばしてきた。
どこか、頼りなさげなまなざし。
「右腕、気をつけるから。一緒に寝よう」
「えっ、あ、うん、はいっ。ええと、あの」
突然のダイレクトな甘えに、思考が追いつかない。
静香は焦りながら、片腕だけ通していたコートを脱いで、適当に畳んでその場に置く。それから、ベッドの上で、壁際に寄って場所をあけて待っている伊久磨のそばに左側を下にして、そっと身を横たえた。
背後から、伊久磨の腕が脇腹の上に置かれる。重みを感じた。腕に力をこめられて、ゆるく抱き寄せられる。
「……気持ち良い。起きられるか不安。静香は大丈夫?」
かすれた囁き声が、耳に注ぎ込まれ、体に直に響く。
「うん。スマホ。スマホでアラームかけておくから。あたしも一人暮らし長いから、アラームかけても鳴る前にたいてい起きる。大丈夫大丈夫」
念の為握りしめていたスマホを、慌てて操作する。
伊久磨が、溜息をついた。
「ごめんなさい、俺、メッセージ何て送ったかな。よく覚えてない。暗い中、歩いてきたんですよね」
「それも大丈夫。あたしの解釈の問題だから!! あたしが勝手に来ちゃっただけ、伊久磨くん、寝て大丈夫。アラームセットしたから。あとはもう何も気にしないでっ」
うん。
返事とともに、うなじに吐息を感じる。
少しの沈黙の後、「今日……」と伊久磨が小声で話しはじめた。
「帰りがけに近所のイタリアンのシェフが……来て。試作が長引きました。岩清水さんなんか、普段から睡眠三時間くらいで。今日の営業、西條さんいない予定だったけど、急遽出てくれるって。ランチまで。岩清水さんも少し休んだ方が」
「伊久磨くんもね。もう寝よう。寝られる?」
「はい。寝ます。睡眠不足、ミスが怖い」
ぎゅうっと腕の力が強くなり、しがみつかれる。
これだけ伊久磨がふらふらな上に、腕のこともあるから、何もないはず、と思いながら静香は忙しなく視線をさまよわせた。
(相変わらず、綺麗に片付いていた部屋)
一緒に暮らしたら、どうなるんだろう、とドキドキする。静香はそこまで部屋を綺麗に保てる自信がない。伊久磨はそれを許せるのだろうか。
ふと、伊久磨は寝ただろうかと耳をすませてみたところで、静香、と名前を呼ばれた。
「何か話してください」
「えっ、まだ寝てないの」
正直に言い返すと、笑った気配があった。
「最近、電話もしていなくて。声聞くの久しぶりだから。少し話したい」
「話すっていっても、どうしよう。話題が」
「そっか……。じゃあ俺が常々疑問に思っていることでも。靴下って、どうして片方なくなるんだと思いますか」
「靴下? 伊久磨くんのこの部屋でもそんなこと起こるの?」
ありますよ、という声がすでにひどく眠そうだった。
静香は少し考えてから、答えた。
「あたしもよくあるんだけど。たぶん、両方なくなった靴下は、なくなった事実が観測されないだけじゃないかな」
「ああ。なるほど。静香、頭が良いですね」
その言葉を最後に、安堵したような吐息がすうっと寝息に変わった。
体にまわされた腕から力が抜けて、重みを感じる。
完全に寝たと確信してから、静香は口元をほころばせて、ごく小さな声で呟いた。
おやすみなさい、と。