高く孤独な背中
「う……っま!! うまいな!! なにこれ、めちゃくちゃうまい。うちの店で出したい。何これどうやって作ってんの!?」
ホールで飲んでいた伊久磨が、頃合いを見てキッチンへ向かい、出来上がった皿を運んできて高木に差し出したところ。
一口食べただけで立ち上がって、喚きはじめた。
(うるさい)
声が大きく、空気が凄まじくびりびりと震えているが、本人はそれどころではないらしい。
澄んだ黒瞳をきらきらと輝かせ、立ったままフォークを皿に突っ込んで、平打ちパスタを突き刺しながら巻取り、もう一度口に運ぶ。
ん! と声がもれた。
「やべえ。すっげえな。なんだこれ。キッチン見てくる」
「部外者……」
伊久磨は止めようとしたが、高木は黒革のジャケットをもどかしそうに脱ぎ捨てて椅子の背に投げ出し、キッチンへと足を向ける。すぐに振り返り、「それ持ってきて! 食うから!」と手に持ったフォークを振り回してから姿を消した。
あまりの反応に薄笑いを浮かべつつ、伊久磨は食べかけの皿を持って後を追う。
「すげえな、よくその愛想の無さで、これだけうまい料理作れるな!? めちゃくちゃ冷たい顔してるくせに、いや~、ひとは見かけによらないっていうか」
高木は、大きく両手を開いて、聖に向かって熱弁をふるっていた。
煌々と照らし出され、磨き込まれたステンレス台がどこもかしこも光を弾いているキッチンにて、聖は迷惑そうな顔で高木を見ていた。
「言っていることに脈絡がなさすぎる上に、褒められている気もしない。『高木シェフ』は見た目通りに失礼と無礼を足して割らないでじっくり煮詰めたような奴だな」
「俺のことは英司でいいって! 氷のイケメンはなんていうの?」
一瞬、辺りがしん、と静まり返った。
(西條さん、言いたく無さそう。口がへの字だ)
閉店後でも、きちんと着こなしたコックコート姿が素晴らしく様になっている聖は、腰に片手をあてて、迷惑そうに高木を見ている。
由春はやや呆れた様子であったが、途中になっていた料理の盛り付けを再開するべく、手元の皿に視線を落とした。
高木はにこにことしたまま、伊久磨を振り返って手を差し出す。
「食う」
「どうぞ」
食べかけの皿を受け取り、相好を崩した高木は再び聖へと視線を投げた。
「ね、これどうやって作ってんの?」
裏も表もないという天真爛漫さ。
傍で聞いている伊久磨がどきどきしてくる。
(レシピって、そんなに簡単に聞いて良いのか。西條さんの研究の成果なんじゃ……)
聖は胡乱げに目を細めていたが、小さな吐息を漏らしてから、表情を切り替えた。
生真面目そうな口調で、てきぱきと説明を始める。
「フレッシュセージを使ってる。デュラムセモリナ粉を卵で練ってから、セージを織り込んで作ったパッパルデッレ。トマトクリームのソースには、イタリアのソーセージと、茄子とセロリと」
「だよな! 手打ち麺だよな~。セージがトマトに負けてなくて、鼻に抜けるような感じがあるんだけど、ソースと喧嘩していないっていうか。あ~、うちはメニューも多いし客数も多いからな。手打ち麺までは手が回らなくて。めちゃくちゃうまい。やばい。今日ここに来て良かった。良いな、これ」
高木は矢継ぎ早に言い終えて、うんうん、と頷きながら皿を片手に麺を頬張った。
パッパルデッレはきしめんのように幅広のパスタ。高木はフォークで絡め取る一回一回の量が豪快で、あっという間に一皿完食してしまった。
見るとはなしに見ていた聖が「腹減ってたの?」と口元に微苦笑を浮かべて首を傾げる。
「腹が減ってるかどうか関係ないくらいうまい。ソースも丁寧だ。こんなの食べたことない。氷結王子、店開く準備中って聞いたけど、時間あるならうちで一緒に働かないか?」
(変なあだ名つけた。確かに氷結王子っぽいけど)
あの西條さんにぐいぐいいってる、と呆れを通り越して感心している伊久磨であったが、聖も先程よりずっと表情が柔らかくなっていた。
「さすがにそこまでの時間はない。普段は『海の星』にいるし」
途端、高木の矛先は由春に向けられた。
「おい、由春! お前、こんな知り合いいたら俺にも紹介してくれていいだろ!! 水臭いな!」
白い麺のようなものを筒状にして皿に並べていた由春は、顔を上げぬまま答える。
「英司が『海の星』に食べに来ていたら紹介していたかもしれない。最近来てなかっただろ」
唇の端には笑みが浮かんでいた。
言われた高木は、眉を寄せて「高いんだって、海の星。クーポンないの?」とぼやく。
出来上がった皿をじっと見てから、由春はようやく高木に目を向けた。
「無い。うちは絶対に値引きしない。値引きするくらいなら、サービスする。だよな、伊久磨」
視線がすっと高木から逸れて自分に向けられたのを感じ、伊久磨は「そうですね」と返事をした。
「オープン以来、クーポン等で値引きはしたことはないです。ショップカードはありますけど、チラシも作ったことないですし、予約サイトで優待プランも特に設けていません。そういう意味では『知らなくて損する』ことはないから安心してください」
「だよな。『海の星』そういうの一切ないけど、やらないの? うちはタウン誌にクーポン載せたりはあるけど……」
高木の店はレストランというより、居酒屋に近い面があり、飲み放題プランなどを打ち出しているのは伊久磨も見たことがあった。一方で、「海の星」はこれまでそういった対応は何一つない。
「もともと、広告宣伝に経費は使わない方針なんです。客寄せのためのディスカウントも絶対しません。これは岩清水さんの考え方ですけど、そもそもオープン時に広告を打ってないのは『たくさんお客様に来て頂いても、対応するスタッフが育っていない。この価格帯の店はお客様も大目に見てくれないから、何か一つ失敗したら次はない』ということで。実際、最初は俺が右も左もわからなかったので、失敗も多かったですし」
そんな苦い思い出を話すつもりになったのは、聖がいたせいかもしれない。
高木に「うまくいくはずがない」と言われた聖の店。たしかにそのヴィジョンが伊久磨もいまだはっきりわからなかっただけに、心配はある。つい、聞かれてもいないオープン当初の失敗談を口にしてしまうほど。
(西條さんのお店も、たどるかもしれない道)
耳を傾けていた高木は、絶妙なタイミングで「今は? それでも客が少ない日はあるだろ?」と相槌を打ちがてら聞いてきた。
「今でも広告にお金を使わない方針はそのままです。たとえば五万、十万あれば、不確かな広告を打つよりも、いま来てくださっているお客様に一人一杯ずつシャンパンをサービスしたほうがいいです。その方々は確実にまた来てくださるでしょう。ディスカウントしないのも、同じ理由です。五千円のコースを二千五百円で提供するときに来てくださったお客様は、五千円ではもう来てくれないかもしれません。ですが、五千円のコースを召し上がっているお客様にドリンクやデザートでサービスすれば、また来てくれると思います。実際、うちはリピーターさんがすごく多いです。無闇に開拓するより、いまいるお客様を離さず、その方々に別のお客様をご紹介頂く。それが『海の星』のスタイルです」
伊達に、由春とこの三年間ことあるごとに営業方針について話しながら働いてきたわけではない。そこは、伊久磨も完全に同意の上、二人の間では意思の疎通がはかられている。
高木と伊久磨が話している間、聖と由春は次々と調理を進めていた。
耳は、少しだけ傾けられているのを感じる。
話している伊久磨も高木も、目はコックコート姿の二人の手元に向けられていた。
「技、盗めそうですか?」
ふと、伊久磨は高木にさりげなく尋ねた。
高木はにいっと笑って「わかんね」と答える。
「レシピを聞いても、同じ味を作れるわけじゃない。だから、料理人はレシピを公開するのなんか痛くもかゆくもないんだよ。いま、作っているところを見ても同じことができるかどうか。いや、俺はやろうと思えばできなくもないけど?」
最後にさらっと、勝ち気さをのぞかせてから、こちらの話は終わりとばかりに腕を組んで由春に顔を向ける。「それはなんだ」と気負った様子もなく声をかけながら歩き出した。
一皿仕上げた聖は、手の空いた伊久磨をちらりと見て、引き締まった口の端に素早く笑みを浮かべた。
「なかなか強気な方針だ。『絶対に妥協しない』信念の強さ。客数ゼロの日が続けばどんな自信家でも『自分が間違えているんだろうか』って悩むと思うんだけど」
「俺は悩みましたよ、実際。お客様から頼まれていたサプライズのバースデー用の花束発注し忘れていてどうにもならなかったときとか。あのせいで悪評が立って店にお客様が来ないんだ、って悩んだことも百回じゃきかないです」
「百」
「失敗は一回でも、毎晩寝る前に思い出すんですよ。しばらくの間。職業的にも未経験で、自分でも行ったことがないような『高級レストラン』におけるサービスとしての振る舞いなんか、全然イメージもつきませんでしたし」
由春の要求はかなりレベルが高く、当初は何を言われているのかもほとんど理解ができなかったのだ。
聖はめずらしく興味深そうに瞳を輝かせて聞いていたが、やがて妙に満足げに「なるほど」と呟いた。
「それでも、ここまでよくやってきたもんだな。『妥協しない』って頑なさもときには必要だろうさ。高すぎる目標を立てて達成できないことよりも、低すぎる目標を達成してしまう方が危ないときもある」
伊久磨が目を向けたときには、すでに聖はふいっと背を向けていて、その表情は伺い知れなかった。
(西條さんらしい、厳しさだな)
騒いでいる高木や由春の声を聞きながら、高潔さを感じさせる背中を見つめて、このひとの店がうまくいきますように、と伊久磨は願わずにはいられなかった。