譲らないこと・黙認すること
雑誌の取材の日程が決まった。
三月下旬の平日。「海の星」の定休日。
岩清水大豪経由で持ち込まれた件で、業界内では有名な専門誌とのこと。すぐに書店で実物を購入した伊久磨も興味深く読み、その写真の多さやインタビューの読み応えにかなり興味をひかれていた。
しかし、いざ担当者から打診の電話を受けたとき、由春は意外なほど渋い対応をしていた。
「宣伝効果はあるかもしれないが、現実問題として営業していた方が収入になる。店を閉めて時間を作る気はないので、定休日にして欲しい」
(ばっさりいった)
ランチタイム後の休憩中、事務室の由春に電話の子機を渡して様子を見ていた伊久磨は、その潔すぎる対応に感心してしまった。
レストラン「海の星」は現在、平日・土日問わずランチは満席。ディナーに関しても、平日が弱いということはない。動かせない記念日での利用はもちろんのこと、会社絡みの接待の場合は、むしろ平日がメインだ。一方で土日は家族連れの席が比較的多い。
価格帯は近隣では強気の設定の部類だが、ここしばらく客入りも売上も格別落ち込むことはない。この状況で、一日店を閉めるのはたしかにダイレクトに収入減なのは間違いない。
取材の担当者とは少しの間、押し問答のようなやりとりになっていたが、結果的に相手が由春の言い分を飲んだようだ。
「シェフ、そういうところ絶対下手に出ないですよね」
立ち去るつもりが、最後まで聞いてしまった伊久磨は、由春の向かい側の黒革の応接ソファに腰を下ろして言った。
子機を差し出して伊久磨に渡しつつ、由春はソファに深く座り直した。
「いろんな人間がいるからな。この店じゃないが、『取材して記事を書いてやるから、飲食代は店からの接待扱いとして経費で落とせ』と言われたこともある。有名所の雑誌だったが、品性に欠けると思った」
「誰が聞いても悪役のセリフだ。本当に、そういうこと言うひといるんだ。自分で気づかないのかな」
「言い慣れると麻痺するのかも」
「もちろん断ったんですよね」
ごく自然な流れで伊久磨が聞くと、由春は一瞬押し黙った。
やがて、吐息とともに言った。
「俺の店じゃない。上の判断で受けた。上というか、現場にいない社内の広報担当者だ。自分が声をかけた成果だから、断るなんてとんでもないと」
伊久磨は相槌しそびれて口をつぐむ。由春は腕を組んで視線を天井に投げて続けた。
「店はオープンしたてとはいえ一流どころの支店だったが、当日記者たちはよれたTシャツにハーフパンツ、スニーカーで来て、無料で飲み食いして帰った。『店が客を選ぶ』『ドレスコードを押し付ける』のは慎重であるべきだと思うが、あれを見たときはさすがにドレスアップした他のお客様に失礼では、と思った。特別な食事をしに来ている空気が壊れるというか」
「しかも、厳密にはお客様とも少し違いますよね。そういう方に、せっかくそのお店にきた他のお客様に『ここはこの程度の扱いで良い店だ』と印象づけられてしまうのは……。俺なら悔しいです」
一流どころの店と言うのなら、その場にいた者も複雑な思いは押し隠して自分の仕事をしただろうが、気分は良くなかったのではないかと考えてしまう。
「それなりの値段のワインも開けたから、二人で六万円くらいだった。雑誌の記事は、悪いことは書いていなかったが、見開きに四軒載っているうちのひとつ。あの小ささで広告料六万円、と勉強になった」
「なるほど。以前、飲食店検索サイトの担当者から『毎月広告料払えばランキングで一ページ目にのせる』って打診を受けたときはいろんなからくりがあると思いましたけど……」
現在、「海の星」は広告や宣伝を打っていない。いつまでその方針で通すかはわからないが、雑誌の取材であれば受けても良いと単純に考えていた伊久磨は思わず唸りそうであった。
「今回は叔父貴の顔を立てる意味でも、断るつもりはなかったが。撮影用の飲食をサービスすることになるのも、了承している。ただ、お客様が入る時間帯に席を割けば、本来上がる売上がないわけだからマイナスがそれだけ大きくなる。インタビューで俺の時間が取られることがあれば、営業にも差し支える。定休日に受けるというラインは譲れなかった。それなら、叔父貴や聖の取材に関しても好きなだけ海の星でやってくれて構わないわけだし」
「よくわかりました」
写真が載る以上、料理も作るだろうし、実食もあるだろう。ではその食事代は誰がもつのか。材料費はタダではない。所要時間などの他にも、即座にそこまで考えて判断を下しているあたり、踏んでいる場数が違うと思わざるを得ない。
雑誌の取材、と聞いて浮足立っていたつもりはなかったが、由春の話を聞けばそれほど単純な話ではないと深く納得させられた。
「問題は従業員の休日を潰してしまうところだな。お前そのへん大丈夫なのか。フローリストと暮らすために今のアパート引き払って引っ越しするって言ってたな。代休で好きなところ休みとっていいぞ」
「ああ、そこまでしていただかなくても……」
壁に貼られたカレンダーを見上げて、伊久磨は日程を確認した。
(引っ越しはどうにでもなるとしても……、三月か)
正社員待遇の自分は休日出勤くらい、と言いかけたのを飲み込む。上司が休めというときは休んだ方が良いし、これからは独り身のように簡単に考えない方がいいだろう、と。
「お休みをもらうなら、せっかくなので、平日の夜に『海の星』にディナーの予約を入れて良いですか。静香の誕生日に」
つられたようにカレンダーを見ていた由春は「何日だ?」と聞き返してきた。
「三十日。なかなか一緒にディナーの機会がなくて……。静香は海の星に来たことありますけど、俺とは無いんですよね」
途端、ふ、と由春が噴き出した。
そのまま、ふ、ふ、ふと変な笑いをもらして、手の甲を口にあてて堪らえようとしている。
「なんですか」
「そういえば、フローリストがうちに最初に来たのは椿と一緒だったな」
付き合う前の話。
テーブル装花の下見を兼ねた仕事込みの会食。
しかも、それがきっかけで伊久磨と知り合っているので、その食事そのものを否定することなどできないのだが。
敢えて今になって言われると、なんとなく面白くない。しぜんと顔から表情が消えてしまう。
「そう言う岩清水さんはどうなんですか。明菜さん、東京で香織とディナーしていますけど、ペンションで再会以降、岩清水さんと二人で時間を持つ前じゃないですか。というか、最近は明菜さんと会っているんですか。いつでも職場に俺より先に来て後に帰りますけど」
「お前も絶妙に嫌なことを言うな。今、明菜は事務仕事しているから休みは土日で、全然時間が合わない。木曜日の明菜の仕事の後に会うくらいかな。二、三時間」
「早く一緒に暮らしてください。何やってんですか」
ひとにはひとのペースがあるとはいえ、あまりにも呑気だな、と伊久磨は胸を痛めてしまった。
主に明菜の心境を思って。
(べつに本人たちが良いなら良いんだけど。俺みたいに遠距離だったわけでもないんだから、会おうと思えば会えるはずなのに。お互いが実家のせいなのか)
「俺のことはいい。それより、椿もどうにかしてしまった方が良い。今のあいつ、自由すぎるんだ」
伊久磨も由春も、二人揃いも揃って「楽しい食事を、香織に先を越された」件に関して、由春として多少思うところはあるらしい。
それは伊久磨も同じだったので、力強く頷いた。
「そうですね。少し探ってみるかな。湛さんも気にしているし。藤崎さんが椿邸出るのは引き留めたみたいですけど、いつまでもあの三人で暮らしているわけにもいかないでしょうから」
「椿が落ち着かないとお前も落ち着かないよな」
「それは無いですけど」
俺は。
(だけど、静香は気にしている。「香織より先に幸せになるわけには」と、変な遠慮を抱えている気がする。誰にも言えないまま。特に、俺には言えない)
決して兄妹とは明かさない二人だが、互いのことをいつまでも気にかけている。
それを、「三人で」話し合うことは、おそらくこの先もない。
「四月に入ると香織の誕生日があるんですよね。岩清水さんもですか。今年は賑やかに……」
言いかけて、伊久磨はちらっと由春を見た。
「明菜さんと二人が良いですか。すみません」
「変な気遣いはいらない。明菜も『海の星』のスタッフに加わるんだ。椿とまとめて何かするなら、声をかけてやってくれ」
「おっと、岩清水さんと香織をまとめて良いんですか」
「聞くな。知らなければ止めようもない。サプライズに対して文句を言うような野暮をするつもりはない」
事実上の許可が出たことに、伊久磨は遠慮なく噴き出して、しまいに笑い声をたてた。
そして、笑ったまま一言告げた。
素直じゃないですね、と。