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ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
38 海の星の休日
259/405

水のように、風のように

「昨日、あきなさんがハルの家に来た。マダムとわかなさんに、結婚の日取りと新婚旅行の日程を組まれていた」


 定休日明けの「海の星」にて。

 出社早々、キッチンで顔を合わせたオリオンに声をかけられた伊久磨は、横を向いて噴き出した。

 午前中の明るい光の中、すでに鍋のぐつぐつと沸き立つ音とあたたかな空気が辺りに満ちている。


「さすが岩清水さん。手際の良さは伊達じゃないですね」

 伊久磨が水を向けても、ステンレス台の向こう側で朝に納品された葉物野菜を検分していた由春は、「おはよう」とそっけなく返すのみ。

 その由春を面白そうに見ながら、オリオンが話を続けた。


「マダムは、わかなさんの結婚式がしたかったみたい。それはずっと先になってしまったからと、張り切っていた。とても。ウェディングドレスの相談まで」

「想像つきます。明菜さんの動揺も。あまりシェフのこと、知らないみたいだったので。あのご家族は、良い意味で予想外でしょうね」

 答えながら、伊久磨は相好を崩す。

 明菜は由春のプライベートをほとんど知らない様子だったので、「岩清水邸」の外観から打ちのめされたのではないだろうか。


「昨日はタタエもいたんだけど、あきなさんに『なんで由春なんですか。香織にしようとはちらっとも思わなかったんですか』なんて聞いていた」

「湛さんは空気読むひとだから、その場でそれを聞いたなら、本当に聞きたかったんでしょうね。そこはたしかに、両方の知り合いとして俺も気になります」


 明菜が選べる立場だった、とまでは言わないが、香織は昔なじみとして心愛のことも明菜のことも気にかけている様子だ。

 どうして二人とも、香織ではなかったのか。

(客観的に見て悪くないと思うんだけどな。面倒見が良いし、責任感も強い)


「あきなさん、かおりとは距離があったから、って言っていた」

 双眸にやわらかな光を宿して、オリオンがさらりと顛末を告げた。

「距離?」

 どことなく、諦めを感じさせる笑顔。不思議な思いで、伊久磨はオリオンのその表情を見つめる。

 オリオンは頷いて、呟いた。


「The friendship between the wise men is light like water.」

「『 like water』……水のように?」

「良い言葉。かおりも、ハルも。そういうこと、はじめからわかっている。だからここはいつも風通しが良いね」

 言うだけ言ったオリオンは、さっと仕事に戻ってしまう。

 伊久磨は、はっきりとした意味を受け取りそびれたまま、ホールへと向かい、不在の西條聖にメッセージアプリで英文を尋ねてみた。

 返事はすぐにあった。


 ――君子の交わりは、淡きこと水の如し。小人の交わりは、甘きこと醴の如し。荘子


(あの人達の教養、怖いな、やっぱり。全然知らないぞ、こんなの)


 カウンターで予約用のパソコンを立ち上げつつ、メッセージで礼を送ってからスマホで意味を検索する。

 いくつかヒットした内容を頭の中で整理した。


(「徳の高い人物は、本当に付き合いたい相手とだけ、あっさりとした友情を育み、長続きさせる。とるにたらない小物は、理由もなくべたべたと密な付き合いをしたあげく、理由もなく別れる」か……)


 距離がある。


 一時期一緒に暮らしていた伊久磨でさえ、椿香織と水沢湛の過去や因縁は知らなかった。

 香織と静香の関係性を知ったのも、静香と曲がりなりにも付き合い出した後だ。

 大人になってからの友人関係なのだから当たり前と言えばそれまでだが、香織は感傷的に自分の境遇を打ち明けて、距離を詰めるようなところがない。

 折に触れて、少しずつ知ってきた。


 もし一緒に暮らしていた時期に香織の父のことを知っていたら、同情しただろう。

 静香との関係を知っていたら、付き合おうとはしなかったように思う。


 香織が感情のままに、自分のそばに伊久磨や他の誰かを引き留めようとしていたら、できたはず。

 香織が望めば、湛だって彼の元に残ったかもしれない。


(何も望まないんだよな、他人に。受け入れるけれど、執着しない。思いがないわけじゃない。静香や母親とのことでは傷ついているし、父親もまだその心にいる。それでも、水のように、風のように、あるがままに流れ行く関係に身を任せている)


 オリオンが言うように、由春にもそういったところはある。

 真田幸尚を引き留めないどころか、自ら送り出したときに、強く実感した。

 大切なものでも、あっさりと手を離してしまう。そしてその後は、おそらくきっと、何かのきっかけで幸尚の勤め先の店を検索することはあるかもしれない。だが、本人に連絡まではしない。それは、伊久磨も同じ。


 あれほど毎日一緒に過ごしていて、家族や恋人よりも長く顔を突き合わせていたというのに。

 去ったあとは別れのひとつに数え、振り返らない。

 だけど再会したら、嬉しいし、かつて一緒に働けたことを懐かしく思い出すだろう。

 それこそいま無理をしてまで密に連絡をとらないからこそ、「疎遠になった」という感覚もなく、いつかの再会を心待ちにできる。

 

「おはようございます、蜷川さん」


 声をかけられて、顔を上げる。


「おはようございます。昨日の休日はゆっくりできましたか」

「はい。なんとなくこの街のことがわかってきたので。そのうち車買いたいなって話をしたら、西條くんもそう考えていたみたいで、二人で車屋さんめぐりしました」


 出社してきた藤崎エレナが、気負いなく答えながらカウンターの中に入ってきて、立ち上がったパソコンで予約を確認し始める。


(藤崎さんと、西條さんの関係も、俺にははっきりわからなくて)


 どうやら古い知り合いらしいということ。おそらく恋愛関係にはないこと。

 西條聖は亡き人を引きずっていて、エレナはいま現在恋愛に割く余力がなさそうに見える。


「この方、前回は結婚記念日でご利用でしたけど、今日は旦那様のお誕生日でご来店されるんですね。たしか結婚記念日は奥様のお誕生日だったはず」


 予約のリストを拾い読みしながら、エレナが伊久磨に目を向けてきた。


「はい、そうです。旦那様は高校の先生をされていて、去年退職なさったはず。記念日利用が続いていますけど、ランチも含めると月一くらいで来てくださってます。オープンして二年目からなので、かなりの常連さんですよ」

「すごく感じが良い方でした。お店にもスタッフにも詳しい感じ」

「ひとが好きなんでしょうね。出会った相手をよく記憶しているようです。もし、今日何か会話をしたらこの備考欄に書いておいて良いですよ。前回誰と何を話したかまできちんと把握している方なので、こちらも忘れない努力はした方が良いと思います」


 軽く打ち合わせてから、予約電話の留守電を解除して、子機をタブリエエプロンのポケットに入れる。分担して掃除をすべくカウンターから出ると、伊久磨はそのまま正面玄関から外に向かった。


 雪が日差しを照り返しており、痛いほどの眩しさが溢れていて、目を細める。

 空気は冷たく澄んでいるが、水気のある甘い香りが溶け込んでいる。もちろんそれ自体は錯覚なのだが、日差しの暖かさを思えば、今日はまた少し、氷状に固まっている根雪も融けるだろう。

 そうして季節は日毎に春へと向かう。


(岩清水さん結婚か。いつなんだろう。式は湛さんよりは早いとして、もしかして俺よりも早いかな)


 レストランウエディングの経験値を得るために、自分の結婚式は「海の星」で行うべきか。それともどこか信頼できるところで、打ち合わせから勉強させてもらうか。

 そんなことを悠長に考えている余裕もなくなりそうな急展開。


 晴れ上がった空を見上げていたら、後ろから物音がして、伊久磨は意外な思いで振り返った。

 伸びをしながら出てきたのは、いままさに忙しい時間で身動きとれないはずの由春。


「どうしたんですか」

「いや~、なんか今日の葉物野菜がぱっとしなくて。早く春にならないかなぁ、と。冬だから仕方ないのかもしれないけど、あれならここの庭で育てたハーブのほうがよほど使える」

(雑談?)

 のんびりと話しかけられて、「そんな場合ですか」と店内に押し返しそうになった伊久磨であったが、あまり忙しなくしても、と思い直して話を継ぐ。


「まだ雪はありますし、夜は氷点下ですよ。ああ、岩清水さんには春が来ているみたいですけど。このたびはおめでとうございます」

「さすがに早いだろ」

「早いかな。きっとあっという間ですよ。結婚式はどうするんですか。ウェディングケーキ、幸尚に特注しますか」

「迷惑だろうなぁ。そのへんは、いる人間でどうにか」

「じゃあ香織」

「『じゃあ』で話持って来られてもあいつも迷惑だろう。お前らいい加減にしろ、て怒るぞ」

「それはまぁ、怒るでしょうね。だいたいみんな香織のことは都合よく使ってますから」

「ひでぇ」


 遊んでいる場合ではないのに、と思いながら風に吹かれて前庭を見渡す。通り道に沿っていくつかアンティーク風のランタンが並んでいる程度で、今はまだいろんなものが雪に埋め尽くされている。


(今年ここに緑があふれる頃、「海の星」はどうなっているんだろう)


「伊久磨のところもあるし、身内でさっさと二回経験したら、その後はお客様からも受けられるかな。お客様は実験台にできないけど、俺とお前なら」

「明菜さんと静香にも協力を仰がないと」

 俺とお前ならとは言っても、お互い巻き込むのは自分の大切な相手なんですよ、と。

 ちらっと顔を向けると、同じタイミングで見てきた由春と目が合ってしまった。


 妙な沈黙になりかけて、どちらからともなく視線を外す。

 仕事の話のような、プライベートのような。区別などできない。いつもの。今まで通りの会話。


「雪かきまだ少し必要だな。よろしく」

 言い終えて、中に戻っていくその真っ白のコックコートを着た後ろ姿を、まぶしく見て思う。


 このひととの関係は、これからもきっと続いていくのだろうな、と。


 水のように風のように。

 ときには、光のように。


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― 新着の感想 ―
[一言] >水のように風のように。 >ときには、光のように。 これはエモい( ˘ω˘ )
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