うちに来るか?
「もっと近くに来てもいいのに」
由春のピアノの後ろに立ち、肩越しに運指を覗き込んでいたら、曲が終わったところで振り返って言われた。
引き締まった口元が、少しだけ笑っている。座っている位置から、見上げるように向けられた瞳は、気のせいではなく優しい。
それだけで、いまだに面白いほど動揺して逃げそうになる。
見抜かれていたらしく、素早く手を掴まれた。
「横に」
「弾く時に邪魔ですよね?」
「どうかな」
手をひかれて、導かれるままに、由春が少しよけた右側のスペースに腰を下ろす。
狭くて体がふれあうことにドキドキしているというのに、由春が伸ばしてきた右腕に強く抱き寄せられた。
「捕まえた」
左手で、眼鏡を外している。眼鏡。ぶつかるから?
「春さん……」
焦った呼びかけは、唇を塞がれたせいでくぐもった声となって、閉じ込められてしまう。
身動きも封じられてしまい、明菜はそのまま目を閉ざして、与えられるぬくもりに身を任せた。
ようやく少しだけ力が緩んだときに、ほっと息を吐きだして目を開ける。
「近い、ですよね」
距離が。
由春は、小首を傾げて瞳を覗き込んでくる。その視線が少しずれて、濡れた唇に向けられたのを感じた。
「理性の限界を試されている気がする。それとも、しなくてもいいのかな。我慢」
「えっと……?」
(我慢しない状況……!? 春さんが私に!? そんなことある!?)
心の中では盛大に否定しているのに、妄想が。
めくるめく妄想が暴走して「我慢できない」と由春にその場で押し倒され、「だめ」とか「やめて」と言いながらも「こんなに求められるなんて」と感極まってそのまま……。※以上、妄想です。
「明菜。明菜、どうした。固まってるぞ?」
呼びかけられて、はっと我に帰った。
「は……、白昼夢見てました」
「この短い間に? 器用だな。この後どうするんだ。家に一度送るのでいいのか。その後出られるなら、映画でも見に行くか? 上映中に寝そう?」
さらっと提案をされるが、頬が赤らんでいる自覚のある明菜はひとまずやり過ごそうと俯く。
(本人前にしているのに、すっごい妄想しちゃった。春さんの濡れ……濡れ場? 想像つかないんだけど、恋人同士ってことは、す、するんだよね……? そのうち)
なまじ相手に現実感があるだけに、ただの妄想でもそこそこ具体的で、それでいて肝心の部分がよくわからず、総じていたたまれないほど恥ずかしい。
もう忘れよう、と小刻みに首をふり、呼吸を整える。
「二人とも地元ですからね、とりたてて行きたい場所もないですし。映画……映画か。春さんは普段の休日は、何をしているんですか」
さりげなく流れにのれたと思う。妄想には負けなかった。
由春は「そうだな」と呟いて前方、ピアノへと目を向けて答えた。
「試作と試食と素材探し。ひとりのときもあるけど、普段は伊久磨か、最近は聖がいるかな。今日は特に誰とも予定は合わせてない。伊久磨は来たけど帰ったし。だけど、この後ここで俺と明菜が愛を確かめ合ったりしていると、絶対すごいタイミングで『すみません、忘れ物もうひとつ』とか言いながら来ると思うけどな。あいつ、そういう間の悪さすごいぞ」
「ああ……」
(「愛を確かめ合う」の想像はつかないけど、蜷川さんの悪気ない「それ」はすごく想像がつきます……。二度と顔を合わせられなくなりそう)
「ひとまず、用がないなら『海の星』は出てしまった方が良さそうですね。もし映画の誘いが私に気を使っているなら別に良いですよ。試作とか試食とか、普段どおり、春さんのしたいこと優先で。私もその方が良いです。べつに映画が嫌なわけじゃないですが、いま何がやっているかも確認していません。見たいものがあるか、わからないですから」
付き合っているから、「恋人らしいこと」をしようと無理されるより、したいことをして欲しい、と。
その意図は通じたらしく、由春はくすりと笑った。
「新作に追われていなくて、余裕があるときは、家で料理作ってる。食べさせる相手がいるから。今だとオリオンもうちに居候しているし、姉が来ていることも多い。5月に出産予定で今は仕事もしていない」
「お姉さん、心愛と予定日が近いって聞きました。陶芸家さんなんですよね。『海の星』のお皿を作ってる……」
明菜が言いかけると、由春は不意に表情をさっと消して事務的に告げた。
「あと、旦那が椿屋の職人。椿の兄弟子」
「そうらしいですね。その関係で、二人ともそのひとの『弟』にあたる、と。つまり春さんと香織さんも兄弟」
「無い」
ざっくり言い切られて、明菜は思わず噴き出した。
(香織さんと春さんの関係って、昔からいまいちよくわからないんだよな~。仲が悪くはないんだけど、良いですよねって言うと二人で全力で否定してくるの。そのくせ、そのタイミングまでいつもばっちり合ってて。なんなんだろう)
笑いつつ、妙に微笑ましい気分で明菜は何気なく言った。
「そっか。家で料理ですか。春さんだったら家でも手を抜かないでしょうし、家庭料理とは全然違うんでしょうね。いいなぁ」
「来るか?」
「え?」
思いがけないことを聞いたとばかりに、明菜は目を瞬いて由春を見上げる。
「春さんの家に、私がですか?」
「居候や姉で、もともと人数はいるから、一人増えたからといって作る料理に影響はない。それでよければ、昼過ぎに家まで迎えに行く。明菜のご両親に挨拶は……、いきなりじゃなくて、予告して段取り決めてからが良いと思うけど、うちは全然気にしなくていい」
「私が気にするかも?」
「何を? うちの親? とはいっても、ピアノ教室しているから夕方までピアノ室にいるだろうし。その関係で、やっぱりひとが家に来るのは慣れているから、気にしないと思うぞ?」
(うん? たしかに蜷川さんからそんな情報は聞いたばかりだけど、これは本当にそんな単純な話かな?)
丸めこまれそうな気配をひしひし感じつつ、抗うように明菜は言ってみる。
「確認ですが、春さんはご家族に、私をどう紹介してくださるつもりですか。『海の星』の新しいスタッフ?」
「彼女」
うっ、と息を止めて明菜は横を向いた。
彼女。
(あ~、聞けない。「春さんは今まで彼女を家に招待して親御さんに紹介したことあるんですか?」なんて聞けない。あるって言われたら立ち直れない。でも初めてって言われても、それに対する親御さんの反応が未知過ぎて困る)
「もうすぐ三十歳になる息子が、結婚を約束した彼女を家に連れてくるって、わりと普通じゃないのか?」
「待って、さらにハードル、ハードル上がりました! 結婚の話までするんですか!?」
「先延ばしにしても」
「大胆ですね!?」
「そうか。言われてみれば、まだ一度もデートもしたことないからな」
(そこ!? 確かに、付き合いはじめて一度もデートしたこともないのに、親に「結婚する」って引き合わせるってあんまりないと思いますけど!? どうなってるんだろう、私の常識で考えると少し違う気がするけど、大丈夫なのかなこの話)
本当にどうなってるんだろう、このひと、と明菜がちらりと由春の様子をうかがうと、目が合った拍子に微笑まれてしまった。
その上、いまだに体に絡みついたままだった腕に、軽く揺すられる。
こんなに近かったんだ、と改めて思い出した明菜に対し、由春は実に楽しそうに言い切った。
「なんと言われようと、変に誤魔化すのも先延ばしも良くない。うちの姉なんか、両家顔合わせ前にすでに妊娠していたからな。結婚式を楽しみにしていたうちの母親が残念がって……、あの流れだと、俺に彼女がいると知ったら『今度こそ』って言いかねないな、そういえば。そこだけ覚悟してくれ。あんまりうちの親が明菜を困らせないように、俺も気をつける」
由春の中では、すでに明菜を家に招くのは、決定事項のようだった。
明菜は張り付いたような笑みを浮かべたまま「はいっ」と無心で返事をした。




