移り変わりながら、前へ
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「昨日、光樹がピアノ弾くときに腕時計外して、そのまま忘れたと連絡が。本人は学校もあるので、俺が取りに来ました。それで、人の気配があるのが気になって見に来てしまったんです。用事は済みましたので、ここで帰ります。はい。お構いなく。そのままで」
そのままで、そのままで、と両手を胸の前で広げながら、蜷川伊久磨は後退していく。清潔感のある整った顔には、楽しげな笑みが浮かんでいた。
由春はといえば気にした様子もなく、コーヒーを一口。
呆然としていたのは明菜ひとり。
何しろ、明菜と由春は昨日と同じ服装。明らかに「海の星」にて、泊まりから迎えた朝。二人揃ってのんびり朝食を食べている姿が何を連想させるのか、わからないわけではない。
「待ってください。蜷川さん、誤解ですよ……!? 誤解したまま帰らないでください! 止まって!」
明菜は、がたっと椅子から立ち上がり、悲鳴じみた声を上げてしまう。
今にもドアを閉めようとしていた伊久磨は、ノブをつかんだまま「誤解?」と言って足を止めた。
その明るく爽やかな話しぶりや表情が、いちいち目を引きつける。
焦りを見透かされているのはわかるが、不思議と追い詰められたような嫌な気分にならない。独特の空気のひとだな、と思いつつ一応の言い訳をする。
「昨日、『海の星』には泊まりました。泊まりましたけど。ワイン飲んで、仕事の話をしているうちに寝てしまってですね。職場で変なことをしたわけでは」
くすっと伊久磨は上品に笑って、唇の前に指を一本たてる。静かに、という動作に見えて明菜は口をつぐんだ。そのまま様子を伺っていると、伊久磨はおっとりとした調子で言った。
「大丈夫ですよ、ここは岩清水さんの店です。岩清水さんが一緒にいて、本人がよしとしているのなら、俺に言い訳をする必要はありません。朝食美味しかったですか」
「はい」
「それは良かった。以前はスタッフも今より少なくて、岩清水さんともうひとりが新作の試作で泊まり込んでいることもありました。俺が出社してくる頃に、すごく美味しそうな朝ごはん食べていて。あのときの羨ましさ再び。どうぞ、そのままゆっくりしていてください」
裏を感じさせない、優しげなまなざし。
明菜は言葉に詰まって、ただ見上げてしまった。
(私が焦っているのを見て、すぐに空気を切り替えた。仲間内だからと、悪ふざけしてからかったりはしないんだ。お店に立っているときだけじゃなくて、内輪でもきちんと気を使ってくれる。春さんが、仕事上のパートナーとして信頼しているのが、すごくわかる。お客様からも、信頼されていそう)
このひとに会いに来ているお客様もいるだろうな、と自然に思えた。
おそらく今の印象そのままに、機転がきいて、場面に応じて軽妙洒脱な物言いをするに違いない。それでいて言葉のひとつひとつに神経を行き渡らせていて、ひとを傷つけるような冗談は言わないだろう。
「伊久磨、せっかく来たんだ。コーヒーでも飲んでいくか」
椅子の背に深くもたれかかってコーヒーを飲み干した由春が声をかける。
伊久磨は一瞬だけ身を引く仕草をみせたが、すぐに何か思い出したように「そういえば」と茶目っ気のある明るい様子で口を開いた。
「岩清水『ヒロ』シェフから伝言があったんです。少しだけ、お時間いただけますか」
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寒いですよね、と言って伊久磨が電気ファンヒーターを持ってきて、足元に置いてくれた。
由春からは、カーキ色のモッズコート。無言で背後から肩にかけていった。
個室からホールへ場所を変えることになり、移動してきたところ。
明菜がピアノをちらちらと気にしていると、「何か弾いてください」と伊久磨が軽い調子で由春に言い出した。
はっと息を飲んだ明菜が伊久磨を見ると、素早く頷かれる。
由春は「何が良い?」と気安く請け負ってピアノの前に座った。
「風の谷のナウシカ。『風の伝説』『鳥の人』」
「なんでだよ」
考える素振りもなく答えた伊久磨に片頬で笑いながらも、由春はスマホで動画を検索して、曲の確認を始めた。
その由春をさておき、伊久磨は四人掛けのテーブルで明菜の斜向いに腰を下ろす。そして、テーブルの上に一冊の雑誌を置いた。
「昨日、閉店後に岩清水『ヒロ』さんと飲んだときに話がありました。帰国していると聞いた雑誌社の方から、取材依頼があったそうです。そのついでに『海の星』もご紹介頂いたと。ヒロさんがつかまるうちに、取り急ぎ東京から都合つけてこちらに来るそうです。追って、打ち合わせの電話やメールが店宛にくる手筈と聞きました」
「『料理帝国』か……。良い雑誌だよな。写真が多くて」
ピアノの蓋を開けて、鍵盤上のフェルトをたたみながら由春が言う。
「他に言うことないんですか。インタビューとか面白いですよ。岩清水さんが取材されたらなんて答えるんだろうって、今からすごく楽しみです。あと、西條さんにも取材入るみたいです。ヒロさんも西條さんのこと知っていました。本当に業界では有名だったんですね。帰国直前はフランスの星付きレストランでスーシェフしていて、そのままフランスで店を開くつもりだと思っていた、てヒロさんが。日本で、しかも地方で店を持つこと考えているって聞いたら興味津々でした。自分が顧問に就任するって」
由春がぶはっと噴き出した。
「なんで聖だよ。俺もいるだろうが」
「一緒になって『海の星』潰すつもりみたいです。二人で盛り上がってたなぁ、昨日」
「あ~、やってらんねえ。いい加減にしろよあのおっさん」
ぶつぶつと言いながら、鍵盤に手を置く。
途端に、辺りがしん、と静まり返る。店内に配置された観葉植物たちも息を潜めたような静けさだった。
音の入りは、轟くような芯のある低音。
粒の揃ったアルペジオが、彼方から押し寄せてくる。徐々にヴォリュームが上がっていき、ある高みに達したところで、聞き覚えのあるメロディーが流れ出した。
映画の曲だけあって、明菜もよく知っている。
(すごい。昨日はあっという間だったけど、本当に、ピアノ弾けるんだ)
魔法の指が奏でる、少しだけ物悲しく、それ以上に圧倒的に荘厳な調べ。
これまで、明菜の知る岩清水由春は、料理を作るひとだった。繊細に技巧を積み上げていく、華やかさが持ち味の料理人。
器用だとは知っていた。だけど、ここまでとは、という思いが胸に溢れていく。
曲の雰囲気が、流れるように変わった。
明るく、甘く歌い上げるように伸びやかに、指が打鍵を続ける。
生み出されていくのは、夜空の星の輝きにも似た旋律。
「岩清水さん、お母様がピアノの先生なんですよ。普段あまり自分の話はしませんけど、すごく良い方です。あの親にして、この子あり、て感じかな」
曲が切り替わるタイミングで、こそっと伊久磨が素早く言った。
「そうなんですか。本当に、今まであまりお互いのことを話したことがなくて。二人で話していても、いつもどうしても仕事の話になってしまうんです」
わかります、と言って伊久磨は笑みを漏らしてから、ピアノの音を邪魔しない優しい声で続けた。
「ヒロさん、この建物をアンティークごと岩清水さんに譲るみたいです。相続税とかかかるのかな。よくわかりませんけど、個人資産もかなりだと思います。安心してください」
「安心?」
なんのことだろう? と目を瞬いてから、じわじわと言葉が浸透していき、明菜はうっすら頬を染めた。
二人の間に、未来の約束があるであろうことを想定していると。
「さて、じゃあ俺はそろそろ帰ります。あとはどうぞごゆっくり。明菜さんは四月くらいから働く予定ですか。藤崎さんが昼に入れなくなるタイミングで」
「はい。まだはっきり決まっていないんですけど、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
椅子の背にかけてあった、黒いコートを手にして伊久磨は立ち上がる。
ピアノの調べはまだ流れ続けていた。
(蜷川さんって、プライベートも全身黒なんだ。黒のセーターに、ブラックジーンズ。お店にいるときだけかと思っていた。黒が好きなのかな)
背が高いだけに、立ち姿にはやや威圧感もあった。
途切れた話題を引き継ぐようにして、明菜はとっさに頭に浮かんだことを尋ねてみることにした。
「蜷川さん、この曲どうしてリクエストしたんですか。映画、好きなんですか」
私も好きなんです、という気持ちをのせて、笑いかける。
伊久磨は、ほんのいっとき、目を見開いて動きを止めた。やがて、ゆっくりと笑みを広げた。
「妹が好きだったんです。いや、家族みんな好きだったかな。テレビで放送されるときはなんだかんだみんなで見てましたよ」
「仲が良いご家族なんですね」
「そうだったと思っています」
では、と身を翻してキッチンの方から出て行った。
その後姿を見送ってから、明菜はテーブルに残された雑誌に手を伸ばす。
由春のことを全然知らなかったように、自分はまだ「海の星」のひとのことをよく知らない。
少しずつ知っていけたらいいな、と心の中にメモをとる。
蜷川さんの家は、家族仲がとても良いらしい、と。
以下余談です。
今回は、いつもと違うパソコンで書いていたため、名前が全然変換できませんでした。
わたしはパソコンに語句を登録させるより、とにかくキーを叩く速さにまかせて何回も書いて「覚えてもらう」式のひとなので「よし」「はる」とかいちいち書くんですけど、そのたびにこのパソコンでは
「(๑•̀ㅂ•́)و✧」「春」という変換になってまいったな、という気持ちをちょっとだけ本文にのせてみました。
今回だけです!!
(๑•̀ㅂ•́)و✧