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ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
37 椿屋騒動編(後編)
254/405

廃墟に光

「そこの棚から適当に取り皿になりそうなの出して。箸は引きだしに塗り箸があるから人数分。あと、取り分け用に三セットくらい」


 台所の灯りをつけて、鍋の並んだガスコンロに向かい、光樹に背を向けつつ聖が指示を出す。

 そのまま習慣で手を洗っていると、背後から声をかけられた。


「俺も手を洗います。そこ使っていいですか」

「そうだな」


 さっと場所をあけると、光樹も蛇口をひねって、ハンドソープを使って手を洗い始めた。

 見るとはなしに、聖は流れ落ちる水道水をぼんやりと目で追う。

 ステンレスに流れ落ちて跳ね上がる水飛沫。

 泡を浮かべて排水溝へと吸い込まれて行く水。

 ふっと、空白になった脳裏に浮かんだのは、先程の香織の言葉。

 

 ――やっぱり、綺麗ですね。スマホで誰でも写真を撮れる時代に、写真家って大変だなって思っていたんですけど。何が違うんだろうな……


(それは、素人目にもわかる。穂高紘一郎の写真は、空気の切り取り方が違うんだよ)

 その場で言えなかった言葉。

 飲み込んでしまった。


 紘一郎は、本心を晒さない人間だ。心がどこにあるのかわからない。

 飄々として何ものにも執着せず、いつも風のままにどこか遠くへ行ってしまう。誰も繋ぎ止められない。

 その彼が何を見ていて、何をうつくしいと感じているのか。

 彼の視線のままに切り取られた写真から、ようやくうかがい知れる。


 桜の降る庭で佇む青年の、後ろ姿。横顔。

 誰かと何かを話しながら、笑った表情。

 木の枝に向けて伸ばされた指先。花びらが舞い降りた黒髪。


 偶然写り込んだなんてことが、あるわけがない。

 そのとき、写真家の目が彼を追っていたのだ。

 まるで、どこにも連れて行けないからと、心の中に留めようとするかのように。


(あの二人が手を取り合うことはない。大切過ぎるものは側に置けない、紘一郎はそういう人間だ。そのくせ、大切な相手のためには自分の何もかもを捧げてしまう。昔、血の繋がらない子どもを手元に引き取って、育てたように。今までその「大切な相手」はずっと俺の母親だった。そこに、べつの人間が収まることもあるだろう。そのこと自体は否定しない。あっていい。だけど)


 どうして椿香織なのか。


(俺と同じ年齢で、男だ。椿がアリなら、俺がそこに置いてもらえなかったのは、単に俺のことは好きでも大切でもなかっただけじゃないのか……)


 子どもの頃、自分には紘一郎しかいなかった。

 明確に線を引かれているのは気付いていたが、他人だから仕方ないと納得しようとしてきた。

 大人になった今は、一番になりたいという思いはすでに風化している。

 なりたかった、という残骸だけが胸の奥底に沈んでいるが、普段は意識することもない。

 ただ、時折刺すように痛む。

 愛されたいという飢えに苛まれた子どもの頃の自分が、まだそこにいる。


「西條さん、動き止まってますけど。西條さん」

 西條?


 鈍い反応を示した聖を、光樹が訝し気に見ていた。


「西條さん、体調悪いんですか。ぼんやりしてる」

「ああ、西條って俺か。俺だな、うん」

「どういう意味ですかそれ」

 不思議そうに見つめられて、聖は流しを背にして腰を預け、はーっと溜息をついた。


「西條は妻の姓だ。結婚したときは学生で、旧姓のままで呼ばれることが多かった。妻と死別したあとは海外に出て下の名前で呼ばれていたな。だから、ときどき、自分の名前だと認識できなくなる」

「それはたぶん、すごく疲れているんだと思う……。いま忙しいって聞いてますけど、寝てます? 顔色悪いけどこれは電気のせい?」

 普段「海の星」で顔を合わせてもさほど話さない仲だが、顔見知りだけあって意外に踏み込んでくる。

 その光樹を、聖はぼんやりと見た。


「お前……、なんでここにいるんだっけ」

「届け物があって。用が終わったら帰ろうと思っていたけど、誘われたから。迷惑だった?」

 まったく勢いのない聖に対し、光樹は困惑したように尋ねてくる。

 少し考えてから、「そうじゃなくて」と聖は取り繕うように言った。


「どうせなら明日……。椿、明日が誕生日だっていうから、声をかけようと。蜷川から話いってなかったのか。椿の誕生日に、集まれる人間は集まるって」

「誕生日。全然聞いてない」

「蜷川の馬鹿。言っておけって……」


 普段通りに、平気な顔をして話しているつもりだったのに。

 視界がぐらついている。

 気持ちが悪い。

 それ以上ろくに喋ることができずに、聖は目を瞑って、息を吐き出した。

(荒れてる。不安定だ)

 常緑のことなんか思い出すから、と自分で自分に文句を言う。

 まず食事の準備をと姿勢を正して、寄りかかっていた流しから離れた瞬間、足に来た。

 やばい、と思ったところで伸びて来た手に腕を掴まれる。


「西條さん、倒れそう。そんなに具合悪いときまで動こうとしなきゃいいのに」

「ガ、ガキに心配された」

 振りほどこうとしたら、さらに強く力を込められる。そのまま、ぐいっと引っ張られて、ダイニングテーブルセットまで連行された。

 思いがけないほどに、強引。


「心配するって。顔色ひどすぎ。着物が苦しいのかな。ちょっとここの椅子に座ってください。着物のことはわからないから、香織さん呼んで」

 すっと身を翻して、背を向けようとする。

 考えるより先に手が出て、聖は光樹の手首をぱしっと掴んでいた。


「いい。少し座っていれば落ち着くから。寝不足で眩暈がしただけ」

「そういう感じに見えないから心配しているんだけど。ぼんやりしているし、自分の名前まで忘れて。元気がないっていうか、普段と違い過ぎる」

「平気……」

 立ち上がろうとしたところで、両肩に両手を置かれて、ぐいっと椅子に押し付けられた。


「ばーーーーーかっ!!」

「……おい」

「って言ってんじゃん、自分で。いっつも。周りのひと全員に。それでも周りが怒らないのは実際言うだけのことはあって、全然隙がないからだよ。だけどいまの西條さんおかしい。隙だらけ。包丁も火も禁止。そこで指示だけ出してくれれば俺がやるから。無理しないで」


(高校生に叱られている)


 現状の認識はできたが、呆気に取られて言葉もなく。

 座った位置から、灯りを背に、自分に影を落としてきている光樹を見上げてしまう。


「なんで怒ってるんだ。さすがに理不尽じゃないのか」

「理不尽でいいよ。西條さんには理屈で敵う気がしないから、理屈は捨てる。俺にわかるのはいま西條さんが変だってこと。なんかよくわかんないけど、ひとりのときじゃなくて良かったね! 今で良かったし、俺がいて良かった。お前かよって、思ってもいいけど、言わなくていいから。自分でも何言ってるかわからないしっ」


 たぶん、手を伸ばせば届く距離にいたので。

 掴んで、引き寄せる。

 光樹の腰から腹のあたりに額を押し付けて、声を絞り出した。


「なんでもない……って言ってるだろ。なんでもないんだ。こんなの、少し休めばすぐに」

 肩に手をおかれた。

 躊躇うように、恐々と、もう片方の手を後頭部にまわされる。軽く引き寄せるようにおさえつけられる。


「奥さん、死んでるんだ。初めて聞いた。全然知らなかった。伊久磨さんも家族がいなくて……、たまに、何か思い出すと、急に顔色が変わる。そういうの、一緒にいるとわかるようになるから」


(……それか。変に察しが良いと思った)


 ―― ひとつの物事には良い面と悪い面があって、どちらを受け取るかは本人が選択しているんだ。未曾有の大災害だろうと、耐え難い悲劇だろうと。


 無理だよ紘一郎。

 俺は常緑の死に良い面を見出すことなんかできない。

 心はいつまでも、闇の中。深い所に沈んだまま。廃墟を子どもの姿でうろついている。


「香織さんの誕生日が明日っていうのも知らなかった。西條さんの誕生日はいつ?」

「……ん?」

「『ん?』じゃなくて。西條さんいま疲れてるみたいだから、考えなくても答えられる質問してるんだよ。忘れたの? 自分の誕生日」

「七月……」

 何日だっけ、全然思い出せない、と思ったところで、後頭部をおさえつけている手に少し力を込められた。まるで、聖が泣いているとでも思っているかのようだ。額がぐっと光樹の体に押し付けられる。ぬくもりが伝わってくる。


「伊久磨さんが六月だったはず。その次かな。ひとの誕生日ばっかりしていないで、西條さんの誕生日もしよう。俺が覚えておくから。伊久磨さんは忘れるから。その辺は頼りにならないんだよな」

「なんで高校生にそこまで気を遣われているんだ俺は」


 押さえつけて来る手に抗って、顔を上げる。

 目が合った光樹は「うわ」っと言いながら一歩後退した。


「西條さん、眼光鋭すぎ。美形の凄みは怖いんだって」

「知らねぇよ。好きでこの顔に生まれてきたわけじゃないし」


 椅子から立ち上がって視線を投げると、光樹は目を細めて笑った。


「ところで、俺いますごくお腹がすいてる。西條さんのごはんにつられて来たので。はやく食べたい。西條さんは美味しい料理が作れるところがすごい」

「うるせえ。なんだよいまの。そういうお世辞は大っ嫌いだ。黙って食えよ」

「西條さんは、ひとが食べられるものが作れる時点ですごい」

「お前マジうるせえ。ハードル下げ過ぎだろあほか。俺は金払ってもらえる料理を作れるレベルだっつーの。誰だと思ってんだよっ」


 小突き合いながらガス台に向かい、鍋に火を点ける。 

 光樹は笑い声を上げて棚へと歩いて行き、引き戸を開けて皿を物色はじめた。

 ほんの少し前の会話を忘れたかのように、その仕草は何気なく、さりげなく。


(常緑が死んだことに、良い面なんか見出せる気はしないけど)


 闇の中をうろついている自分の前に立って、手を差し伸べてくる誰かがそばにいる。


「しかし、俺が高校生になぐさめられるとは。なんでお前なんだよ」

「ん? 何か言った?」

「言ってない」


 振り返って、光樹の背を見る。


「右下の大皿こっちに」 

「はい。これかな」


 温められた鍋から、食欲をそそる匂いが漂いはじめていた。

 

★椿屋騒動編ここでおしまいです。読んでくださってありがとうございました。

 この後、話は「海の星」に戻って、時間的に一度少し遡ってから香織の誕生日に合流の予定です。

 どこまで遡ればいいんだろう……。

(静香のお引越しや明菜さんの「海の星」加入などいろいろあるんですが……)


★椿屋編、本人は楽しく書いていましたが、PV的にはかなり落ち込んでまして内心ハラハラしていました。でもブクマ剥がれとかはあんまりなくてですね……ありがとうございました!


★作者が気付いてしまったライフハック(?)としては、そもそも作者の認知が上がらないと作品をこれ以上たくさんの方に読んでもらえないという当たり前の事実がありまして。ステラマリスを毎日書いているより、激戦区でランクインしてくる方がステラマリスのブクマやPVが上がるという……。なのでこれからも少し更新に間があいたりすることもあると思いますが、その際は少しお待ち頂けると幸いです。生存確認は活動報告やTwitterをのぞいて頂けると。

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― 新着の感想 ―
[一言] まさかこの二人がカップリング(カップリング?)されるとは( ˘ω˘ ) 光樹君の将来が楽しみです( ˘ω˘ ) 私も異世界恋愛や現実世界恋愛でランクインした時のほうが、あきぼくのブクマ増え…
[一言] ここまで弱った西條の姿が描写されるとは微塵も予想していなかっただけに、人間なんだから当然なんだろうけど、とにかく衝撃的でした! そして光樹、高校生ながら本当にイケメン過ぎでは……!? あ…
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