二人静
翌日。
香織から言う前に、奏は髪を切って現れた。
「食品を扱うなら、髪の毛気を付けた方が良いって言われて。結べるくらい残したけど、短く、軽くしてきた。すうすうするけど、頭洗うの楽になった」
そんなことを言って、店舗スタッフ用の緑のエプロンと三角巾をつけると、熟練パートさんに挨拶をし、仕事を教わり始めた。
すでに事情を把握している湛以外のスタッフに、奏の事情をどこまで言うべきか香織は悩んだが、それも奏がさっさと自分から明らかにしていた。「今は春休み中ですけど、学校がはじまっても行かないと思います」と。
奏の親と同年代のパートさんは「高校くらい卒業しなさいよ」と言ったらしいが「本当は卒業している年齢なんです。同級生で進学したひともたくさんいますけど、就職したひともたくさんいます。わたしが働き始めても、何も変じゃないです」と笑顔で言い返していたらしい。
「気にはなるけど、あの子の親じゃないから。親がそれで良いって言っているなら、他人からはあんまり言えないわよねえ」
香織さんも雇うと決めたわけだしと、どことなくチクチクと言われる。
(滅入る)
自分が決めた以上、他の誰かが奏を説得してくれないかと期待していたわけではないが、やはり矢面に立つことになるのだ。
ひと一人の人生を変えることになる、と。
ひとまず初日は何事もなく、朝の九時から休憩を挟んで十五時まで。
工場での仕事を同じ時間に終えたものの、香織は特に個人的に奏と話すことはなく、帰宅するように厳命した。
決して大きな会社ではないが、関係性としては社長と新入りパート。業務内容も違うので、仕事上で直接話す必要は無い、というのがその理由。
奏は未練がましい目つきで、何か言いたそうにはしていたが、ひとまずおとなしく帰った。
* * *
「俺のことが好きっていうのが働く動機だとしても、仕事とは無関係だと思うんです。遊びじゃないし、学校とも違う。本当にこのまま働いていくつもりなら、まず自分が仕事を覚えることを優先すべきだし、最終的には自立しないと。ただ、そう考えると店舗の営業時間内に働く販売スタッフじゃなくて、職人になるしかないんですよね。収入面でも、将来的なことを考えても。ある意味、手に職をつけることは、この店が潰れてもよそで生きていけるということであって」
迷い、悩み。
日が暮れるまでのわずかの時間、「ホテル暮らしをするくらいならうちに滞在してください」と引き留めた紘一郎と、縁側で並んで座って話し込む。
「いいんじゃないですか。柳さんにとって、香織くんとの接触はご褒美なわけですから。仕事が満足にできるようになるまで与えないのは別に悪くないです。仕事が覚えられなくても、いずれ香織くんと結婚するからどうでもいいと思われるのは困るという話ですよね」
う、と香織は飲みかけていたお茶を噴き出しかけて、むせた。
隣から腕を伸ばしてきた紘一郎が、そっと背中をさする。香織の呼吸が整うと、腕は離れていった。
「本来、香織くんと結婚するのは、言葉以上に大変なことのはずです。昔とはだいぶ時代が違うとはいえ、旧家の奥様です。さらには、店を切り盛りする女将さんでもあるわけですから。当主の香織くんが職人として下積みから始めたのと同じように、柳さんもまずはこの『椿屋』をわかることからでしょうね。その点……」
そこで、紘一郎は空を見上げるように顔を上向けた。
あるか無きかの風に、はらはらと零れ落ちる桜に気を取られたとばかりに。
そう見せかけて、言おうとした言葉を飲み込んだことに、香織は気付いていた。
(「藤崎さんなら」と言おうとした。年齢的にも落ち着いていて、学歴も職歴もあるし、今は高級レストランである「海の星」で接客も学んでいる。椿邸での同居も問題なくこなしているし、「条件」だけで考えれば、最良の相手だと)
お互いに気持ちさえあれば。
結婚するとなれば、気持ちだけあっても難しい問題が付随するが、そもそも気持ちがなくては。
まずは、そこからなのだが。
「藤崎さん、たぶんいま、好きなひとがいます。俺じゃなくて。どうなるかはわかりませんけど……」
「香織くんはそれで良いんですか」
「良いも悪いも、ひとの気持ちですから」
隣に並んで座る紘一郎と、ふとした拍子に指先が触れる、そういったことにもう期待をしない自分にも気付いている。
地に足がついたとまでは言わなくとも、揺らいでいた心の向きが、少しだけ定まった。
(寂しさはある。俺はたぶんまだ気付きたくなかった。このひとのことが、好きでいたかった)
いまでも好きだし、その気持ちに嘘はない。だけど、届かない思いだ。届けられない。
大人になって知り合った、友だちというには年齢差のある、同性の相手。
出会って惹かれて、自分の元に繋ぎ止めたいと願った。
だが、親子でも兄弟でもない。近所に住んでいるわけでもない。それでも相手の「何か」になりたくて、自分の「何か」になって欲しいとするならば。
その願望が、「恋愛」のような形をとるしかないとの結論に行きついたのは、ある意味避けられない自然な流れであった。
それでも、それは性愛を伴う欲望とはまったく別ものだとも、気付いてしまった。
(気付く前に気持ちだけで押し流されてしまえば、或いは)
選ばなかったことで、失われた未来。
もっとも、はじめから選択肢は与えられていなかった。自分がそれでも良いと願っていても、相手が同じように考えていない限り、思いは交わらない。
珍しく、カメラを手元に置いていた紘一郎が、膝の上で何やらいじりはじめた。
「すごいカメラですね。写真家さんだし、きちんとした写真を撮るときはやっぱりそういう……」
香織が覗き込むと、紘一郎は唇だけで笑って、カメラを庭の方へと向けて構える。
「この景色を撮りたいです。香織くん、ちょっとそこに立ってもらっていいですか」
「俺? 映り込んじゃって良いんですか」
「ここは香織くんの家です。香織くんが映っていた方が良い」
その言葉に、香織はなるほど、と頷いて石段に置いていたつっかけを履き、立ち上がる。
いつかこの家を壊す。
その決意は、揺らいでいない。
ならば、遠くない未来、必ず終わるこの光景を、写真に収めておこうと写真家が考えても不思議はない。
「適当に歩き回っていてください。何も考えずに」
シャッターを切りながら紘一郎がそう言う。
「意識しないようにですよね。……ちょっと無理かも!? 写真、撮られ慣れてないんです」
「大丈夫です。僕は風景写真家なので」
「ああ、写しているのは俺じゃない、ってことですね。了解です」
しぜんと笑いが湧き上がってきて、こぼれる。
(何も考えずと言われても、困る)
どうしようかなと、そろそろ葉の目立ち始めた桜を見上げた。
そのまま、庭の草木を見て回る。
しゃがみこんで真剣に雑草を抜きそうになり、我に返って縁側に戻ると、紘一郎もカメラを下ろしたところだった。
「納得のいくまで撮れましたか? 『風景』は」
「そうですね」
見た目は一眼レフ等で、なおかつアナログなカメラに見えたが、フィルムではなくデジタルらしい。紘一郎は小さな画面でチェックを始めた。
その手元を見るとはなしに見ながら、香織は縁側に腰を下ろす。
「風景写真家って、ひとを撮らないということですか?」
何気なく尋ねると、紘一郎はなんでもない様子で「はい」と答えた。
「僕がこれまでの人生で、撮りたいと思った人物は二人しかいません」
世間話の流れのように、さらりと。
(二人……)
チェックをしている紘一郎の横顔を見ながら、香織はもう一歩、踏み込んだ。
「一人は、西條の、母親ですか」
「そうです」
一切の躊躇なく答えられて、胸がキリリと痛む。
それはおそらく、西條聖が感じ続けてきた痛みに違いない。
親子と兄弟と親戚と親友、全部兼ねていてさえ、絶対に越えられない壁。自分の上を素通りする視線。どれだけ願っても、絶対に自分では埋められない、紘一郎の抱えた空白。
そして離れて暮らすようになり、それぞれの人生を生きる中で、もう一人。
(このひとは、独りでいるけれど、ひとを愛せないひとじゃない……)
何を言うのが適切かわからずに、香織はなんとか顔のあちこちに力を込めた。
笑うべきだと思った。「何か」にはなれない自分は、ここで引き返さねばならない。
特別な相手であるらしい聖の母親と同じように、他の誰かも彼の特別になれたというのなら。自分にも希望があったのではないかなど、未練がましく考えてはならない。
「なんか、ごめんなさい。いま俺本当に写って良かったんですか。風景だけじゃなくて、俺、しっかり入り込んでますよね」
(笑え)
醜い嫉妬など、欠片も見せることなく。絶対に悟られないように。
「大丈夫です。香織くんは写って良いんです。お願いしたのは僕ですから」
紘一郎は、香織の荒れた心中など気付いた様子もなく、凪いだ声で答えた。
そのあまりの泰然自若とした態度に、心がまた締め付けられるように痛んだ。歯を食いしばって堪えた。
聖の母親以外にも可能性があったというのなら、自分はどうなのか。
そんなことを聞いてどうするのか。
困らせるだけだろうし、もっと恐ろしいのははっきりと「無い」ことを突き付けられること。
「何か」になれないと知っても、「何か」になりたかった気持ちは、いましばらく疼き続けるだろう。
それはまるで失恋にも似て。
痛みとなって。
泣かないように、瞬きを繰り返してから、香織は明るい声で言った。
「先生、明後日俺の誕生日なんですけど。それまでここにいてください」
「明後日ですか」
きょとんと聞き返されたので、香織はにこりと笑いかけた。
最後にこのくらいのわがままは許してくださいと。
「西條がたぶんサプライズなんとかしますから。賭けてもいいです。だから、一緒に祝ってください。すぐにいなくならないで。ここにいてください」
陽が傾き始めていた。
薄暮の中で、紘一郎は苦笑しながら頷いた。