宿木
せめてもう少し身長があれば良かった。
(運命の相手があんなに大きいとは、想像したこともなかった)
ほっそりとして威圧感がないせいで錯覚しそうになるが、椿香織はかなりの長身だ。
奏との身長差はおよそ三十センチ。
「齋勝、身長何センチ」
椿邸の居間にて。
炬燵布団には入らぬまま足を伸ばし、隣室との仕切りになっている襖によりかかっていた奏は、横で胡坐をかいている齋勝光樹に尋ねた。
光樹は即座に「百七十五」と答えた。
「思ったより大きかった。わたしに少し売ってくれない? 一センチ千円で買う。十センチ売って」
「十センチ売ったら俺、百六十五センチになります? 一万円で? 安くないですか」
「十センチ増えても、わたしはようやく日本人女性の平均に届くかどうかだよ。もう少し身長欲しかった」
ごとん、と襖に後頭部をぶつける。
見るとはなしに見ながら、光樹は「べつにいいじゃないですか」とぶっきらぼうに呟いた。
「先輩はべつに、いまのままで」
「なにそれ。口説き文句? 『君は今のままでいいんだよ』って言われて、喜ぶと思う? わたしが?」
「身長は努力してもどうにもならないというか。牛乳飲んで、早く寝て、飛び跳ねたりするんですか」
「齋勝は、そういう努力でそこまで大きくなったの?」
「俺は特に何もしてません。食べ物の好き嫌いもあるし。遺伝かな? 姉ちゃんもでかい方だと思う。百七十くらいある」
残酷な男だった。
努力しろと言う割に、自分は努力していないというし、そもそも努力なんか結果的に意味がないに等しいとまで言っている。
奏は非難がましい目を向けて、切々と言った。
「小さいと子どもだと思われるし、相手にされない」
「相手にされないのは、身長の問題なんですか?」
ちらっと視線を流してくる。その仕草が、出会った頃より確実に子どもっぽさが抜けていて、少し滅入った。
誰も彼もが、大人になっていく。
「身長の問題だと思っていた方がマシなの。見えてないのかなって」
「そんなこと無いと思います。って言いたかったけど、どうなんだろう。そういえば、香織さんの彼女さんは平均身長はあるかな。今はいないみたいですけど、この家で一緒に暮らしているんですよ。もうすぐ結婚かって言われているみたいです」
前に視線を戻して、奏の方を見ずに。
どことなく、ざらついた言葉。傷つける意図が垣間見えるようで、奏は体育座りに座り直して、伸ばしていた膝を抱え込んだ。
「齋勝って、昔から貧乏くじを敢えてひきに行くところがあるよね。それ、いま言わなくて良いし、齋勝が言う必要もないのに。わたし、普通に齋勝のこと嫌いになるところだった。でも、教えてくれてありがとうね」
彼女。
(うん。いないと思っていたわけじゃなくて。敵は縁側の男だけじゃないということ。それだけ)
香織と湛が出て行ったあと、縁側の男は陽射しの中でぼんやりと桜を見ていた。
奏は、立ち上がって伸びをした。ぶかぶかの大きすぎるパーカーに爪の先まで埋まる。
(彼女がいる。彼女がいる。彼女がいるひとに振り向いてもらうのは、どうすればいいのだろう)
考える。
襖の開く音がして、椿香織が顔を出した。
奏と目が合うと、とても浮かない表情で口を開く。
「親御さんとも連絡取った。うちで働きたいって話はひとまずわかった。今日の今日からってわけじゃないけど、まずは店舗で販売スタッフから。うちの商品とお客様のことがわかるまで。工場に入れるタイミングは考える。そこは柳次第のところもあるから、まずはきちんと目の前の仕事をするように」
* * *
「休みの日って、休んで良いんですよ。予定を詰め込む日じゃなくて、休む日のことですから」
ゆっくり始まった朝は、高校生たちの襲撃によって吹き飛んだ。奏の雇用は断り切れず、関係各所に連絡をとってようやく決着。「帰れ帰れ」と促して、気付いてみればすでに時刻は昼前。
せっかくですからどこか行きますか、と香織から紘一郎に尋ねたところ、そんな風に返された次第。
「まず座ったら。忙しくしているうちに一日なんかあっという間に終わります」
縁側から引き揚げてきた紘一郎は、隣室との境となっている襖を背に、炬燵に入っている。
「はい。あの……、向かい合って座ると、『話さなきゃ』ってなるんで。横に座っていいですか」
香織が躊躇いながら言うと、紘一郎はふわっと笑って、「どうぞ」と自分の右隣の炬燵布団を軽く持ち上げる。
気恥ずかしさを押し隠して、香織はそこに歩み寄ると、ひと一人分距離を置いて座った。
(縁側で並んで座っていて、あんまり話さなかったときが、すごく居心地が良くて……)
真正面に座って、顔を見ていると、無言ではいられない。
その思いから並んで座ってはみたものの、予想以上に動揺してしまった。以前もこんなことがあったな、と。
(やばい、思い出す)
顔を見ても、声を聞いても平常心だったはずなのに。
心の底にはずっと会いたい気持ちがあって、今こんなに近くに本人がいると意識した瞬間、動悸がした。ドキドキと息苦しい。やばい、自分がおかしい、と立ち上がろうとしたその瞬間、横から手を掴まれた。掌を畳の上に伏せるように、押さえつけられる。
「『お茶いれてきます』って言おうとした。すぐにそうやって、動こうとする。大丈夫だから、少し座っていなさい。香織くんはひとに気を遣い過ぎなんです。いつ休んでいるの」
力はさほど強くないのに、抵抗する気力を根こそぎ奪われてしまう。それは、本能的な「この相手には逆らえない」という感覚に近い。少しでも動けば強い力を加えられそうで、それが怖い。
「休んで……いいんですよね。ごめんなさい。つい」
笑って自然にやり過ごそうとしても、ぎくしゃくとしてしまう。意識しすぎる。
(理由付けてまで並んで座って、もしかしたら少し期待していたかもしれない。だけどそれは、本当に偶然肩が触れるとか、その程度のことで)
こんな風に、体の一部が繋がったような接触があるなどと考えもせず。
身動きできない。呼吸まで、辛い。
「先生、あの」
離してくださいと言葉で抵抗しようとしたら力を加えられてしまい、短く息をのんだ。
気付いていないはずはないのに、紘一郎はのんびりと話し始めた。
「さっき、柳さんに香織くんのこと『とらないで』って言われました」
「そんな。何考えてんだ、あいつ。先生に対してそれは」
「香織くんはどう思います?」
「どうも何も。柳は何を言っているのか。俺の周り全員に噛みつく気かな。そんなの、俺にとっては運命というより、ただの迷惑な相手でしかない。勘弁してほしいです」
柳奏は突然生活の中に飛び込んできたと思ったら、分かち難く縁を結ぼうと躍起になり、仕事を一緒にすることになってしまった。
本当は、ものすごく気が重い。
その自分の決断が、奏の人生を変えるかもしれない。高校を退学させ、歌も断念させる。鳥かごに閉じ込めて、どこへも行けないように羽を切り落とす。仕事や居場所を与える体で、奏から未来や希望といった何もかもを奪ってしまうことになるのではないか。
高校に関しても、今に始まった話ではなく、本人は退学するつもりだろうという見方は周囲にすでにあったらしい。実際に、湛と話し合ってから柳家に確認の電話を入れたときに、そういう会話になった。
(それでも、俺が椿屋という受け皿を用意することで、その話が決定してしまうなら、最後に背中を押すのは結局のところ、俺だ)
ある意味それは、運命の相手に違いない。そこに関わってしまったら、それこそ師と弟子というより文字通り「親代わり」の心構えにはなるだろう。親子の縁というのは、簡単には切れない。
もちろん、柳奏が首尾よく仕事を続けられた場合の話で、途中で音を上げて出て行ってくれるなら、その限りではないが。
「このまま柳を受け入れるのは、覚悟が要ると思います。本人は『良い思い付き』くらいかもしれないけど、付き合わされるオッサンの身にもなれって。こっちに責任ぶん投げてきて、全部受け止めろなんて、虫の良い話だと思う。なんで俺かなぁ」
限りなく本音が駄々洩れてしまう。
「好きなんじゃないの?」
「好きなら迷惑かけないで欲しい。相手の益になることはしたいけど、損になることはしないのが『好き』なんじゃないかな」
「それが香織くんの『好き』なんでしょうね。与えるだけで、欲しがらない。相手の人生に立ち入るのを極力避けて、必要なときだけ寄り添い、自分を利用させる。柳さんは」
窓からの光に誘われたように、紘一郎は香織に背を向ける。
手は重ねられたまま。
「そんな香織くんの性質を、本能的に見抜いている。香織くんも気付いている。柳さんとの付き合いは今までのどんな相手より、長いものになりそうだと。まるで宿木のように、彼女は香織くんに寄り添う」
「不吉な予言はやめてください。宿木は寄生植物ですよ」
「柳さんなら、香織くんの子どもを産んでくれるのでは」
「先生。柳は本人が子どもです。あり得ない。あんまり変なこと」
ぐいっと手を引かれる。予期せぬ動きに体が傾いだ。
振り返った紘一郎が、躊躇いなく唇に唇を重ねてきた。
(なんで。俺、この人にフラれているはずなんだけど……)
目を閉じることもできなかったせいで、ごく間近で見てしまった紘一郎の端整な顔。睫毛まで整って見える。
混乱しすぎて、脇が甘くなっていた。
悠々と長いキスを終えた紘一郎は、妙に悪戯っぽく瞳を輝かせている。胸騒ぎがする類の笑み。
香織はそうっと廊下に続く襖を振り返る。
「なんで」
「来ると思ってた。忘れ物?」
紘一郎が明るく声をかけたのは、暗い表情の奏。唇を震わせ、走り込んでくると、香織に頭突きをした。
「いてっ」
「結婚間近の彼女いるくせに何やってんの!? 男と浮気するならわたしともする!?」
「何言ってんの……っ」
奏は、絶対離されまいとするように、香織の腕にしがみついた。