恩には報いを
「大体な、柳。和菓子職人になりたいっていうのは、あのおっかないおじさんと働くってことなんだぞ。あのおじさんの恐ろしさは俺の比じゃねーから!」
光樹を案内してきたまま空恐ろしい無表情で佇んでいた湛を示して、香織は身振り手振り、全力で主張した。
「おじさん?」
奏が、透き通る声で涼やかに聞き返す。
「おじさん! ここはおじさんしかいないおじさんハウス! 女子高生とか本当に困る。家に送り返したいけど、車で送ろうにも……」
香織はそこで、躊躇いがちに言い淀んだ。
縁側に腰かけていた紘一郎が、後ろ手をついて肩越しに振り返り、笑顔で口を開く。
「拉致・監禁・誘拐・連れまわし」
「先生」
「未成年の扱いは難しいですよ。血の繋がらない子どもを育てた僕が言うので、間違いないです」
「楽しそうに、そういうこと……」
恨めし気に軽く睨みつけた香織に、紘一郎は微笑み返す。その笑顔を、奏が渋面で見ていた。
「和菓子職人になりたいって、本気で言っているのか」
不意に、湛が冷え切った声で奏に確認した。
「本気も何も、マカロンだよ」
香織が言葉足らずに遮ろうとするも、奏は腰に手をあてて湛を見上げる。
「本気。わたし、結構手先器用だよ。お菓子作りはしたことないけど、今から始めれば遅いってことないでしょ」
両手を開いて、前に突き出した。見ろとばかりに。
横に立っていた香織は、その手首を掴んで自分の方へと引き寄せる。
「体小さいのに、手は大きいな。指が長いんだ。すごく細いけど。細かい作業できそう」
言うだけ言って、興味を失ったように解放した。菓子作りの道具としての指を見ただけ、というように。
思いがけないタイミングで香織に掴まれた奏は口をぱくぱくしていたが、声は出ていない。
その奏を、光樹が無言で見ていた。そっと視線を外して部屋の隅に目を向ける。
一連の動きを、口を挟まぬまま見守っていた湛は、そこでようやく言った。
「どうしてもというなら、本採用とは言わないけど、試用期間という形でバイトで雇ってもいい。と、俺は考えている。香織、決めろ」
「何言ってんの、湛さん。高校生だって。学校あるだろ。まさか、湛さん式に登校前に工場で一仕事? 早朝なんて深夜と変わらないのに、女の子が一人で通うのは大変だし。いや、これは決して住み込みのすすめじゃなくて。体力的な問題もある。進学控えて受験勉強もあるだろ、体がもたない」
だめな理由を並べる。わかりきったこと。
当然無理、というその結論までは口にせずに香織が湛を見る。
湛は、「決めろ」と言った以上関与しないとでもいうように黙ったままだった。
目が合っていてさえ何も言わない湛に、諦めて香織から言った。
「無理だと思う。俺は認められない。出来る出来ない以前に、ここは柳のいる場所じゃない」
二人のやりとりを見ていた奏が、カッとしたように香織の腕に両手で掴みかかった。
「どうしてそういうこと言うの? わたしのいる場所じゃないってどういう意味?」
「そのままの意味だよ。柳は……、音大とか」
躊躇いつつ香織が言った瞬間、奏は香織の腕を離して、胸倉に掴みかかった。
ただし、身長差がありすぎたため、背伸びして精一杯手を伸ばした挙句、香織が不用意に動くと振り落とされそうという有様であったが、本人は真剣そのもの。
「音大出て、音楽の仕事につけるひとってどのくらいいると思う? 簡単に言うけど、音楽が出来るかどうかなんて、生きて行けるかどうかには何一つ関係ないよ!」
「あー……そうだな」
やや間の抜けた調子で、香織は頷く。同意。
香織の知る限り、ピアノが相当弾けるらしい由春は料理で生計を立てており、音大出の樒は喫茶店店主だ。音楽の才能とは違う方法で生きている。
ひとたび楽器を手にすれば、彼らは明らかに一般人ではないし、才能に恵まれた特別な人間なのに、それを日常では滅多に披露しない。
(奏の歌も、それでお金を稼ぐには……。だけど、埋もれさせるにはあまりにも)
願わくば、歌っていられる人生を歩んで欲しい。そのくらい、特別な歌声。
それは他人でしかない香織が言えることではない。なおかつ、奏が言うように、とてつもなく難しい生き方。
選ばないとしても、奏が悪いわけではない。
「だいたい、そういう言い方ってどうなの。和菓子職人より歌う方が尊いとか、そういうこと? そんなこと本気で思っているわけないでしょ!?」
ぐいぐいと胸倉を掴まれたまま喚かれて、香織はひとまず考え込んだ。
「どちらかと言うと……、俺はずっとここで生まれ育って、他を知らないから。若い人を見ると遠くへ行けばいいのにって思うんだよ。それで結局ここに帰って来る奴もいるけど、どこにも行かない俺とは、全然違う生き物になっているんだろうなって思う」
「若い人って、そんな、本当のおじさんみたいに」
呆れたように呟いて、奏は掴んでいた手を離した。
香織は軽く咳込みながら、乱れた胸元のシャツの合わせ目を手で整えつつ、「おじさんなんだって」と笑った。
「裸は若かったよ」
「裸の話はするな」
若干、光樹の存在を意識して、香織が緊張した面持ちで言い返す。
「聞いていた限りだと、香織の断り文句は弱いな。自分がどこにいるかは他人に決められるようなことじゃない。柳さんがここにいたいと考えているなら、ここで必要とされる人間になればいいだけの話だ。俺はこの話、反対はしていない。わかるな、香織」
湛が結論に限りなく近い発言をした。
焦った香織が食い下がる。
「何それ。湛さん、えーと、つまり」
反対はしていない。
(認めろって言ってる?)
納得いかない顔で睨みつけた香織に対し、湛は「ちょっと来い」と言って先に立ち、居間を出て行った。
* * *
「単刀直入に言う。柳はうちで預かることになると思う。何も最初から工場に入れろとは言わない。店舗の方で販売しながらうちの商品やお客さんを知ってもらうところからだ」
香織を伴い、台所にたどり着いたところで、湛はすでに決まっていたことを告げるように厳然と言った。
「預かることになると思うって、どこから? 誰から? まさか昨日、親御さんにでも頼まれた? 店舗の方でとなると、平日は学校行けないだろ。土日だけ?」
当然のことを言い返した香織であったが、湛は珍しくしんどそうに目を瞑り、溜息までついた。
「親御さんと……、うちの義母からだ」
「うっ」
それは、と言いたいのを飲み込んで、香織は手で口をおさえてこらえる。
落ち着いてから、「なんでまた」と一応聞き返した。勢いは失している。湛の「義母」が出て来る事態を招いたのは、そもそも自分が柳奏に関わったせいだとの自覚はあるせいであった。
「柳、二学年ずれているらしい。学校にはもう戻らないだろうと、親もお義母さんも言ってる」
「二学年……? 昨日聞いたらたしか十七歳って言っていたけど。だとすると本来は今年高校三年……。でも二年の光樹と同じ学年って言ってたような?」
「いや、年齢は十八歳だそうだ。今年十九。中学卒業するときに難病を発症して、受験を一年見送っている。浪人して高校に入って一年間は通ったが、二年は病欠。で、今年もう一回。光樹とは中学のときに一年と三年で一緒だったらしい。ストレートなら、高校を卒業している年齢だ」
はぁ~、と香織は中途半端な返答をした。
(一歳誤魔化していたのか。若くみられたいって、そういうこと……)
その一歳が大きいからこそ、誤魔化したのかと思うと、せこいなぁ、とはとても言えない。
かつての同級生が大学や就職で新しい環境に飛び込む時期、いつまでも高校に縛られている自分に嫌気がさしたのだろうか。
「本当に死ぬ気があったかどうかはともかく、昨日の飛び込みで、死ぬ恐れはじゅうぶんにあった。それを香織が助けた。今までも親御さんもほとほと手を焼いていたところに、本人が『椿屋で働きたい』と言い出した。それでまあ、うちの義母が……。これは俺の問題だが、あのひとにやれと言われると、断れない。本当に、断れない」
昨日奏を両親に引き渡す際に、岩清水母が同席していた。その流れで「ちょうど新しく人を探しているって言っていたし、いいんじゃない?」などと湛に言ったのかもしれない。
そして湛は断れない。
「ずるいよ湛さん、それ、最初から結論出てたってことじゃない」
「一応、お前から論理的な反論があったら採用しようと思っていたが、全部弱かった。うちの義母が納得するに足るものはなかったな」
「マジかよ……」
世話になった身。きっちり返してもらうわね、と言われたら、香織とて断りにくい。
二人で顔を見合わせることもなく、思い思いの方向を見ながら、溜息。
やがて、妙な胸騒ぎを覚えつつ、香織は一応の確認なんだけど、という体で湛に尋ねた。
「住みこみは回避だよな? 湛さんが住みこみで働いていたって情報まで掴んでいたけど、さすがに通える距離に住んでて、店の営業時間に働く女性を、うちに置くことはないぞ。藤崎さんがいるとはいえ、これ以上ひとが増えるのは絶対無理だからな」
かつてこの大きな家で、香織は一人暮らしだった時期がある。
いまは、何かと人の気配はあるものの、みな大人同士の関係で距離感を保っている。そこに奏が加わるのはどう考えても無理筋だった。
「さすがに大丈夫だと思う。そこまでの無理をきく必要はないと思う。俺は」
普段、確信に満ちた話し方をする湛がこのときばかりは自信がなさそうな様子で目を逸らした。
胸のざわつきは消えることなく、香織は嫌な予感が外れることをただ願うばかりだった。