本日の蠍座
運勢ランキング一位・蠍座
「今日は運命の出会いがあるかも!? チャンスは逃さないで! ラッキーアイテム・マカロン ラッキープレイス・墓地」
星占いなんか、信じていないけど。
(運命の出会いは墓地にて、ってこと? その運命の相手、本当に、生きてる人間?)
ランダム生成で、チェックもしないで出しているとしか思えない。せめて選択肢に墓地を入れておくのはやめておけば良かったのに。
くだらない。
くだらない占いを毎日更新のたびにチェックする。
そんな人生を終えてみようかと思ったのは、衝動。
お利口さんは「衝動的に」と言えば眉をひそめるかもしれない。だけど、「衝動」というのは「思い付き」というよりも「積み重ねの結果」なのだ。
小学五年生のとき、入学以来の友人に絶交を宣言した。相手は驚いていたけれど、それこそが友人関係の終わりを招いた鈍さなのだと思う。
(「一方的に絶交されるほど、悪いこと、何かした?」そういう顔をしていた。わたしはもう、説明を放棄した。蓄積。積み重ね。何度も何度も「嫌だ」と思うことがあった。たとえば男子と一緒になっての悪質なからかい。いじめというほど明確ではないけど、それをされている「わたし」は笑えない。あなたは、わたしが笑っていないことに気付きもしない。自分だけが楽しそうに笑っていた。そして、次の日には何もなかったように友達面をする。ふざけるな。何もなかった、その程度の戯言だというのなら、いっそ何もするな。わたしにとって、あれは「何か」なんだ。魂が削り取られるような、自分の価値が滅茶苦茶に踏みにじられるような。死にたくなるような!)
――学校で何かあったの?
心配そうにする親にも言えない。誰にも言えないまま、心の中に黒い雨が降る。いつかそれに心臓を止められる。恨み憎しみ怒り。
このままこのひとと友達をしていたら、わたしはきっと死んでしまう。
その思いの蓄積の末に「もう友達やめる! 二度と話しかけないで!」と絶交を宣言した。
あなたには「衝動」に見えたかもしれない、それはまぎれもなく「蓄積」。
気が付いたらわたしは「悪者」になっていた。心の無い「意地悪」として、周囲から嫌われて、遠ざけられていた。
別に、いい。構わない。
高く孤独な道を。
わたしがわたしである為に、わたしは何度だってその選択をする。
そう思って生きてきたけれど、いつの間にか唯一と信じる選択を続けてきたわたしの中には「疲労」が「蓄積」していた。
(くだらない占いが、わたしの運命の相手は墓地にいると言う。生きている人間じゃないかもしれない。生きていたら会えないかもしれない。つまり死)
その考えは、だから全然「衝動」ではなくて、熟考の結果なのだ。
悩む前に川に飛び込んだ。
まさかそこに、助けにくるひとがいるなんて想像もしていなかった。
* * *
歌声が響いていた。
高く低く、甘く伸びやかに青空に吸い込まれる。道具を何一つ必要とせず、ただひとりの人間の喉から迸る七色の声。
光となって桜の花びらとともに地上に降り注ぐ。
彼女が歌うそこは、たとえば崩れて風化し、廃墟となった教会。屋根に開いたいくつもの穴から、礼拝堂を照らし出す光の筋。打ち壊された長机と椅子。石の床は割れ、草が生えて青々と育っている。それが、この場所にひとが訪れなくなった歳月の長さを語る。
鳴らないパイプオルガン、消された灯。二度と歌われることのない聖なる歌。
廃墟に、久方ぶりに降り立った天使が歌っている。
埃にまみれ瓦礫の積もった通路を裸足で一歩一歩進みながら。
かつてそこを覆った炎や硝煙によって、淀み穢れたであろう空気。過ぎ去った時間によって、ようやく透明になったそれを肺に吸い込み、歌声に変えて辺りを染め上げていく。
鎮魂。そして生まれいづる命への賛歌。
足元の草が時間を早送りにしたように長く伸び始める。
やがて、廃墟は緑に埋もれていく。その中心で、翼のある天使は歌い続ける。
虚空に手を差し伸べて、さらなる光を天に乞うように。
(反則……、裏技的な何か)
鍛えていそうな声だとは思っていた。響き方が、普通ではなかった。ただ話しているだけなのに、耳を直撃するし、心臓まで届く。
歌ったら、怖いほどにうつくしいだろうという予感はあった。
揺さぶられる。
どんな生き方をしてくれば、あんな歌声が出るようになるのだろう。
三人分のコーヒーとお茶請けを持って縁側に戻ってきた香織は、言葉も無く板敷きにお盆を置くと、桜の大木の下で歌う奏の姿を見つめた。
まっすぐには、見られない。伏目がちに、うかがうように。
畏れに近いものを感じている。聖性と呼ばれるものがあるなら、いまの奏には間違いなく宿っている。
風が吹く。
薄紅色の花びらが舞う。指の間をすり抜けていく花びらを手に受けながら、奏は歌い続ける。
胸が締め付けられて、涙が出て来そうだった。
見ていられなくて、目を瞑った。
やがて声が聞こえなくなるまで。
「……コーヒー、美味しいですね」
世界を覆う静けさの中、紘一郎が口火を切った。
香織は、はっと息をのんで目を見開いた。
「すみません。春の陽気といいますか、こう、眠気が。疲れているのかな」
奏の声に聞き惚れていたとは知られたくなくて、下手な嘘をつく。
紘一郎は唇に笑みを浮かべて曖昧に微笑んだ。
庭に佇んでいた奏が、話し声に気付いたように振り返る。
長い黒髪を風に靡かせて、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
「コーヒー、わたしの分もあるっ。ありがとー、わたしの分だよね? 飲んで良い?」
目の前で嬉しそうに言われて、香織は咄嗟に、苦笑いに見えるように表情を取り繕った。
「どうぞ。さすがに、いるのに無視はできないから」
最小限に答えて、それとなく顔を背けた。
(柳は図々しいから、「当然」みたいな態度をするのかと思ってた)
喜んだり、お礼を言ったりといった対応ができる人間とは思っていなかった。
こういう風に、良い方への意外性を発揮されると、少し困る。
第一印象が悪ければ悪いほど、プラスに転じた時の上がり幅が大きいと聞く。初めから悪いこと何もしていない人の方が絶対「良い人」のはずなのに、何故か心を入れ替えた元不良の方が出来た人間のように語られる所以だ。
顔を合わせないようにしながら、自分用のマグカップを手にして口をつける。
「あー、夫のいれてくれたコーヒー美味しい」
噴いた。
「香織くん、大丈夫?」
紘一郎が、紺のタオル地のハンカチを差し出してくる。
「あ、いや、いいです」
断りながら居間に戻り、籐のケースに入ったティッシュを数枚引き抜く。
そこまで激しく噴いたわけではないが、なんとなく手や指を拭いた。気持ちを落ち着けようと。
(運命の人とか、本気で思っているのか、柳は)
何せ、柳奏は。
十中八九、あの光樹の思い人だ。
正直なところ(その好みはさすがに俺はわかんねーぞ)と思っていたが、奏の歌声を聞いたあと、少し揺らいでいる。
間違いなく音楽的素養に恵まれている光樹のこと、優れた才能を持つ相手にひかれてしまうのは、わからないでもない。
高校生の恋愛が成就するなんて思っていなくても、よりにもよって三十歳にもなるオッサンの自分が、その恋路を邪魔するなど。まさかそんな。
奏に目を向ける。後ろに両手をついて、庭側に落としていた足を、不意に跳ね上げた。爪先まで綺麗に伸びた、素足。
「柳、靴履かないで庭に出ていたのか。雑巾持ってくるから、そのまま上がるなよ」
そういえば、歌っているときにそんな光景を見た気がする。
あまりに幻想的で、相手が奏であることなんか失念していたし、なんなら翼まで幻視していた。
まるで廃園に舞い降りた天使だと。
(どうかしている)
「そんなに汚れてないよ」
「そういう問題じゃない。うちは土足厳禁だ」
ふつうの会話だけで、妙に緊張する。あの声のせいだ。
また歌って欲しいと、願ってしまう。
初めてその声を耳にしたときの驚きがまだ胸に残っている。それが、歌になった途端に弾け飛んだみたいに、変な動悸がしていた。
「あのねー、椿香織」
「なんだよ。なんで呼び捨てなんだよ」
夫、と呼ばれるよりは全然良いけど。
「さっき、先生に言われたの。初めから、出し惜しみするなって。椿香織は欲しがるのが苦手で、追いかけるのが大嫌い。要するに、そういう感じのこと。だからわたし、椿香織とは駆け引きしない。わたしの持っている一番価値のあるものはたぶん『声』だから。いつだって歌ってあげる」
“欲しがるのが苦手で、追いかけるのが大嫌い”
(本当? 先生、そんなこと言ったの?)
俺のこと、見透かし過ぎだよ。
「歌は、上手いなと思った。これはお世辞じゃない。歌は……」
嘘は言えない。
歌う奏には、引きずられそうになる。
「そうでしょ? 先生、わたしの処女なんか価値ないみたいなこと言うし。ちょっと本気になって歌っちゃった!」
コーヒー飲んでなくて良かった。噴いても被害はない。
「先生、本当に!? 本当に、そんなこと言ったんですか!? どんな流れで!? 俺、そんなに長いこと、ここ離れていたつもりないんですけど」
当然、問い詰める。
楽し気な横顔をさらしてコーヒーを飲んでいた紘一郎は、「言ってないよー」と軽い調子で答えてきた。その軽さがいかにも胡散臭くて、逆に奏の発言が真実味を帯びる。
「だいたい、女子高生が処女がどうとかそういう会話やめてほしいんだけど。オッサンとしては困る」
ぶつぶつ言っている香織をガン無視して、「羊羹、美味しい!」と奏はお茶請けを食べ始めていた。
しかし、すぐに顔を上げて香織に目を向けてきて、明るく言った。
「今日の蠍座のラッキーアイテム、羊羹なの! 夫、さすが!」
僕も蠍座です、と紘一郎がすかさず口を挟む。
「誰が夫だよ」
香織は笑いながら言い返して、雑巾を取りに行こうと二人に背を向ける。
「……」
笑ったまま、崩れ落ちた。
おそらく、店を訪れた客人を案内してきたらしい湛が客とともに立っていた。客は光樹だった。