天使と悪魔とマカロン
「はなせ」「やだ」「はなせって言ってるんだろうが」「やだ!!」
という、愚にもつかぬやりとりの末に。
自力で起き上がれない昆虫のように板敷きにひっくり返って、手足をばたつかせながら奏が吼えた。
「和菓子職人になりたいよぅ!! わたしだって可愛いマカロンとか作りたいもん!!」
全力で言い返すつもりで深く息を吸っていた香織は、そのまま動き止める。
ゆっくりと吐き出す。
桜の花びらがはらはらと降りそそぐ。
ひらりと一枚鼻先をかすめたとき、耐え切れなかったようにくすっと笑い声をもらいした。おっと、と言いながら掌で口をおさえるも、笑いは湧き上がってきて、止まらない。
不思議そうに目を瞠っている奏に、香織は弾んだ口調で言った。
「あのさ、昨日、柳が帰る前にすごいイケメンが来たでしょ。目が青い奴。マカロンなら、俺よりあいつの方が上手いから、あいつに弟子入りするといいよ」
「青い目の……?」
突然態度のやわらかくなった香織に目を奪われたように、奏がかすれた声で聞き返した。
香織は「うん」と頷く。
「あいつ、滅茶苦茶口は悪いけど、性格はお節介で面倒見が良いタイプ。いま店を出す準備しているんだけど、ちょうどいいから雇ってもらったら。可愛いマカロン、作れるようになるよ」
ひっくり返ったままの奏の本日の服装は、大き目のグレーのパーカーに、ビビッドなピンクのホットパンツ。既視感があるな、と思って眺めてから(あ、こいつ俺の服着てる)と香織は気付いた。
「あ~、昨日途中で帰ってきて、ごはん作るって言っていなくなったひとだよね。なんかこう、うるさくて口が悪くて……、胃もたれしそうなイケメンだった。あそこまでのイケメンはいいや。なんか。見ていて疲れる」
言いながら奏はしげしげと香織を眺める。
香織は眉間に皺を寄せて、厳しい口調で言った。
「俺を見ながら言うな。俺を見ても胃もたれはしないかもしれないが、ただの三十路のオッサンだっての。女子高生と遊ぶ趣味なんかねえよ。家に来られるのも迷惑だ。帰れ。帰らないなら不法侵入で警察呼ぶぞ」
「遊んでくれなくていいから、雇ってよ」
「嫌だ。たしかにひとは探しているが、高校生はだめだ。特に、高校行かないとか辞めるとかいう奴。湛さんだって、高校は出てる」
そもそも湛が住みこみで修業をしていた件や、求人のこと、誰が奏に教えてしまったんだ、と前日の状況を思い出そうとするが、判然としない。よほど疲れていたらしい。
つれない香織に、奏は不満げに目を細める。
昨日は手を入れていない雰囲気だった長い黒髪は、今日は綺麗に梳られていて、顎の細い小さな顔が視認できた。化粧っ気はないが、睫毛は長くばさついており、唇は艶やかだ。黙っていれば人形のような顔をしている。黙っていれば。
「そんなに邪険にしなくても。運命を共にしかけた仲じゃない。死ぬ方にだけど」
むすっと言われて、香織は大きく溜息。
「そうだ、死にかけたぞ、この悪魔。俺は柳のこと、嫌いだ」
「嫌いな相手を命がけで助けちゃったの?」
「助けた後に嫌いになった」
「助けなきゃ良かったのに」
最低の応酬の末に、奏の表情が沈んでいるのを見て、香織は口を閉ざす。
少し待っても、奏は何も言わない。そこで、ようやく香織から言った。
「そういう選択肢は俺にはない。何度あの場面を繰り返しても、助けると思う。……たとえ相手が柳だと知っていたとしても。目の前で死なれるくらいなら」
一緒に溺れて、冷たい水底に沈むのだとしても、その手を掴みに行く。その「運命」は変えられない。変える気もない。
優しいね、と呟いて奏は目を閉ざし、自分の両手で目元を覆った。それきり、動かなくなった。
(倒した)
「先生、ごめんなさい、騒がしくなっちゃった。いまお茶いれてきます。コーヒーの方がいいですか」
香織は立ち上がりながら、放置になっていた紘一郎に声をかける。
なぜかそこだけ陽だまりのように、あたたかな陽射しに包みこまれていた紘一郎はにこりと笑った。
「コーヒーかな。甘いものも少し」
「ああ、それなら。いくらでもあります。少しと言わず。さすがに、マカロンは無かったと思いますが」
話しながら、奏に目を向ける。いまだ動く気配はない。
「その猛獣、気を付けてください」
二人きりにしてその場を離れるのは何かと気が引けたが、動かないならすぐには危険はないかもしれない。危険ってなんだ、と自分につっこみたくはなったが。
「大丈夫ですよ」
紘一郎の返事もまた、何がどう大丈夫だというのか。よくわからないなりに「すぐ戻ります」と言いながら香織は足早に去った。
その足音が遠ざかって、聞こえなくなった頃、奏は目の上にのせていた手を下ろした。
庭を眺めている、紘一郎の背中を睨みつける。
桜は音も無く降り続けていた。
「わたし、あのひとのこと好き。お嫁さんにしてもらうって決めた。年齢差なんかどうでもいい。わたしのあげられるものがあるなら、全部あげるし、なんでもしてあげる。処女で良かった。それで、わたしも、あのひとの全部が欲しい」
返事は、ない。
広い背中を睨みつけながら、奏は再び口を開く。
「すごく綺麗。あんなに綺麗で優しい天使みたいなひとがこの世界に、こんな近くにいるなんて思わなかった。あのひと以外いらない。他の人に目移りすることなんて、この先無いと思う。だから」
体を起こして、胡坐をかいて座り直す。光を浴びている紘一郎の背中だけを見つめて言う。
「とらないでね。『先生』にはあげない」
少しの間を置いて、振り返らぬまま紘一郎が低い声で答えた。
「返事、した方がいい?」
感情の滲まぬ、しずかな声。少し、冷たい。
一瞬、怯んだ表情になったものの、奏は前のめりになりながら「もちろん」と強い口調で応じる。
ひよひよ、と鳥の囀りが聞こえたあとに、紘一郎はゆっくりと振り返った。
「この年齢まで自由に生きてきました。他人から指図を受けるの、慣れてないんです。意外と大人じゃないんですよ、僕」
柔和で、優しい笑み。それなのに、底が知れない。
奏は喧嘩中の猫が毛を逆立てるように、さっと表情を険しくする。
「だって先生、あのひとのこと、べつに好きじゃないでしょ。見ていて、わかった。好きじゃないなら邪魔しないで。わたしは、あのひとが欲しい」
香織に声をかける前。タイミングを窺って二人の会話を聞いていたとばかりの告白に、紘一郎は笑みを深めた。
「気を引きたくて、わざと意地悪してる? そういう関係は、しんどいですよ。振り向いてもらう前に、完全に嫌われてしまいます。好きなら、もう少しうまくやらないと」
アドバイス。その優しさは善意なのか、それとも。
「何が言いたいの」
警戒しながら尋ねた奏に、紘一郎は穏やかな表情を崩さずに続けた。
「駆け引きする女は香織くんには向きません。彼の心は、そういう恋愛に向いていないんです。彼自身は相手に求めないひとだから。もしあなたが何もかも捧げるつもりなら、初めからそうした方が良いと思います。下手に条件をつけたり、餌のようにちらつかせても、香織くんは戸惑い、疲れるだけ。何せ、欲しくもないものを、価値があるもののようにぶら下げられても、どうして良いかわからないでしょう。あなたが思うほど、あなたに価値はない」
死んだ魚に優しく包丁を差し入れて、まな板の上で丁寧に引き裂くように。
笑っているだけに、いっそその残酷さの際立つ高位悪魔のような話しぶり。
奏はすぐには言い返すことができずに、目を見開く。
舞い散る花びらに手を差し伸べながら、紘一郎は独白のように呟いた。
「柳さんが昨日会った口の悪い、青い目の青年は、僕が育てました。僕が彼より口が悪くないなんてことがあるはずがない。あの性格は、すべて僕の影響だ。聖の苛烈さも歪みも」
一度区切り、奏に視線を向ける。
唇の端に笑みを浮かべて、瞳には輝きを湛えて。
はっきりと、それを口にする。
「幸せに、縁遠いところも」
寒の戻り、花冷え。強烈な寒気に襲われて、そんな言葉が浮かぶ。奏はぶかぶかのパーカーを身に着けた自分自身を両腕で抱きしめながら、吐き捨てるように言った。
「悪魔みたいな男」
紘一郎の周囲には、相変わらずやわらかな光が満ちていた。
その光景は、まるで弱点を克服して無敵になった吸血鬼のように、奏の目には映った。
それは、いかなる光さえも届かない、深遠なる暗黒の存在。
悪魔。