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ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
36 椿屋騒動編(中編)
243/405

天使と悪魔とマカロン

「はなせ」「やだ」「はなせって言ってるんだろうが」「やだ!!」

 という、愚にもつかぬやりとりの末に。

 自力で起き上がれない昆虫のように板敷きにひっくり返って、手足をばたつかせながら奏が吼えた。


「和菓子職人になりたいよぅ!! わたしだって可愛いマカロンとか作りたいもん!!」

 全力で言い返すつもりで深く息を吸っていた香織は、そのまま動き止める。

 ゆっくりと吐き出す。

 桜の花びらがはらはらと降りそそぐ。

 ひらりと一枚鼻先をかすめたとき、耐え切れなかったようにくすっと笑い声をもらいした。おっと、と言いながら掌で口をおさえるも、笑いは湧き上がってきて、止まらない。

 不思議そうに目を瞠っている奏に、香織は弾んだ口調で言った。


「あのさ、昨日、柳が帰る前にすごいイケメンが来たでしょ。目が青い奴。マカロンなら、俺よりあいつの方が上手いから、あいつに弟子入りするといいよ」

「青い目の……?」

 突然態度のやわらかくなった香織に目を奪われたように、奏がかすれた声で聞き返した。

 香織は「うん」と頷く。


「あいつ、滅茶苦茶口は悪いけど、性格はお節介で面倒見が良いタイプ。いま店を出す準備しているんだけど、ちょうどいいから雇ってもらったら。可愛いマカロン、作れるようになるよ」

 ひっくり返ったままの奏の本日の服装は、大き目のグレーのパーカーに、ビビッドなピンクのホットパンツ。既視感があるな、と思って眺めてから(あ、こいつ俺の服着てる)と香織は気付いた。


「あ~、昨日途中で帰ってきて、ごはん作るって言っていなくなったひとだよね。なんかこう、うるさくて口が悪くて……、胃もたれしそうなイケメンだった。あそこまでのイケメンはいいや。なんか。見ていて疲れる」

 言いながら奏はしげしげと香織を眺める。

 香織は眉間に皺を寄せて、厳しい口調で言った。


「俺を見ながら言うな。俺を見ても胃もたれはしないかもしれないが、ただの三十路のオッサンだっての。女子高生と遊ぶ趣味なんかねえよ。家に来られるのも迷惑だ。帰れ。帰らないなら不法侵入で警察呼ぶぞ」

「遊んでくれなくていいから、雇ってよ」

「嫌だ。たしかにひとは探しているが、高校生はだめだ。特に、高校行かないとか辞めるとかいう奴。湛さんだって、高校は出てる」

 そもそも湛が住みこみで修業をしていた件や、求人のこと、誰が奏に教えてしまったんだ、と前日の状況を思い出そうとするが、判然としない。よほど疲れていたらしい。

 つれない香織に、奏は不満げに目を細める。

 昨日は手を入れていない雰囲気だった長い黒髪は、今日は綺麗に(くしけず)られていて、顎の細い小さな顔が視認できた。化粧っ気はないが、睫毛は長くばさついており、唇は艶やかだ。黙っていれば人形のような顔をしている。黙っていれば。


「そんなに邪険にしなくても。運命を共にしかけた仲じゃない。死ぬ方にだけど」

 むすっと言われて、香織は大きく溜息。


「そうだ、死にかけたぞ、この悪魔。俺は柳のこと、嫌いだ」

「嫌いな相手を命がけで助けちゃったの?」

「助けた後に嫌いになった」

「助けなきゃ良かったのに」

 最低の応酬の末に、奏の表情が沈んでいるのを見て、香織は口を閉ざす。

 少し待っても、奏は何も言わない。そこで、ようやく香織から言った。


「そういう選択肢は俺にはない。何度あの場面を繰り返しても、助けると思う。……たとえ相手が柳だと知っていたとしても。目の前で死なれるくらいなら」

 一緒に溺れて、冷たい水底に沈むのだとしても、その手を掴みに行く。その「運命」は変えられない。変える気もない。

 優しいね、と呟いて奏は目を閉ざし、自分の両手で目元を覆った。それきり、動かなくなった。

(倒した)


「先生、ごめんなさい、騒がしくなっちゃった。いまお茶いれてきます。コーヒーの方がいいですか」

 香織は立ち上がりながら、放置になっていた紘一郎に声をかける。

 なぜかそこだけ陽だまりのように、あたたかな陽射しに包みこまれていた紘一郎はにこりと笑った。

「コーヒーかな。甘いものも少し」

「ああ、それなら。いくらでもあります。少しと言わず。さすがに、マカロンは無かったと思いますが」

 話しながら、奏に目を向ける。いまだ動く気配はない。

「その猛獣、気を付けてください」

 二人きりにしてその場を離れるのは何かと気が引けたが、動かないならすぐには危険はないかもしれない。危険ってなんだ、と自分につっこみたくはなったが。

「大丈夫ですよ」

 紘一郎の返事もまた、何がどう大丈夫だというのか。よくわからないなりに「すぐ戻ります」と言いながら香織は足早に去った。


 その足音が遠ざかって、聞こえなくなった頃、奏は目の上にのせていた手を下ろした。

 庭を眺めている、紘一郎の背中を睨みつける。

 桜は音も無く降り続けていた。


「わたし、あのひとのこと好き。お嫁さんにしてもらうって決めた。年齢差なんかどうでもいい。わたしのあげられるものがあるなら、全部あげるし、なんでもしてあげる。処女で良かった。それで、わたしも、あのひとの全部が欲しい」

 返事は、ない。

 広い背中を睨みつけながら、奏は再び口を開く。


「すごく綺麗。あんなに綺麗で優しい天使みたいなひとがこの世界に、こんな近くにいるなんて思わなかった。あのひと以外いらない。他の人に目移りすることなんて、この先無いと思う。だから」

 体を起こして、胡坐をかいて座り直す。光を浴びている紘一郎の背中だけを見つめて言う。


「とらないでね。『先生』にはあげない」

 少しの間を置いて、振り返らぬまま紘一郎が低い声で答えた。

「返事、した方がいい?」

 感情の滲まぬ、しずかな声。少し、冷たい。

 一瞬、怯んだ表情になったものの、奏は前のめりになりながら「もちろん」と強い口調で応じる。

 ひよひよ、と鳥の囀りが聞こえたあとに、紘一郎はゆっくりと振り返った。


「この年齢まで自由に生きてきました。他人から指図を受けるの、慣れてないんです。意外と大人じゃないんですよ、僕」

 柔和で、優しい笑み。それなのに、底が知れない。

 奏は喧嘩中の猫が毛を逆立てるように、さっと表情を険しくする。


「だって先生、あのひとのこと、べつに好きじゃないでしょ。見ていて、わかった。好きじゃないなら邪魔しないで。わたしは、あのひとが欲しい」

 香織に声をかける前。タイミングを窺って二人の会話を聞いていたとばかりの告白に、紘一郎は笑みを深めた。

「気を引きたくて、わざと意地悪してる? そういう関係は、しんどいですよ。振り向いてもらう前に、完全に嫌われてしまいます。好きなら、もう少しうまくやらないと」

 アドバイス。その優しさは善意なのか、それとも。

「何が言いたいの」

 警戒しながら尋ねた奏に、紘一郎は穏やかな表情を崩さずに続けた。


「駆け引きする女は香織くんには向きません。彼の心は、そういう恋愛に向いていないんです。彼自身は相手に求めないひとだから。もしあなたが何もかも捧げるつもりなら、初めからそうした方が良いと思います。下手に条件をつけたり、餌のようにちらつかせても、香織くんは戸惑い、疲れるだけ。何せ、欲しくもないものを、価値があるもののようにぶら下げられても、どうして良いかわからないでしょう。あなたが思うほど、あなたに価値はない」

 死んだ魚に優しく包丁を差し入れて、まな板の上で丁寧に引き裂くように。

 笑っているだけに、いっそその残酷さの際立つ高位悪魔のような話しぶり。

 奏はすぐには言い返すことができずに、目を見開く。


 舞い散る花びらに手を差し伸べながら、紘一郎は独白のように呟いた。


「柳さんが昨日会った口の悪い、青い目の青年は、僕が育てました。僕が彼より口が悪くないなんてことがあるはずがない。あの性格は、すべて僕の影響だ。聖の苛烈さも歪みも」

 一度区切り、奏に視線を向ける。

 唇の端に笑みを浮かべて、瞳には輝きを湛えて。

 はっきりと、それを口にする。


「幸せに、縁遠いところも」


 寒の戻り、花冷え。強烈な寒気に襲われて、そんな言葉が浮かぶ。奏はぶかぶかのパーカーを身に着けた自分自身を両腕で抱きしめながら、吐き捨てるように言った。


「悪魔みたいな男」


 紘一郎の周囲には、相変わらずやわらかな光が満ちていた。

 その光景は、まるで弱点を克服して無敵になった吸血鬼のように、奏の目には映った。

 それは、いかなる光さえも届かない、深遠なる暗黒の存在。

 悪魔。



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― 新着の感想 ―
[一言] 先生えええ!!!!www まさかこんなところにラスボスがいたとは( ˘ω˘ ) 完全に香織さんがヒロインポジに( ˘ω˘ )
[良い点] はああ……。 すごく読み応えがありました! サブタイが絶妙です! 穂高先生が悪魔……。 奏ちゃんが健気に思えてきました。 でも、息の根を止められましたね。容赦ない。 こういう会話が書けるの…
[一言] 知り合って間もないのに、香織と先生の感情矢印を的確に見抜く奏も流石ですが、それに動じることなく切り返す先生も空恐ろしくなるくらいにハンパないですね……!! そりゃ西條シェフを育てたんなら…
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