止まる時、流れる時間
疲れ切っていても、いつもの時間に体は起きようとする。
夜明け前、開かない目をなんとかこじ開けて、枕元のスマホを掴んで画面を表示させたら、湛から「休め」と連絡がきていた。
(甘えよう)
即座に決めて、目を閉ざす。
夢も見ずに、ぐっすりと寝た。
休日でも朝の六時、七時に起きるのが普通。八時まで寝ていたのは久しぶりで、洗面所に寄って顔を洗ってから居間に向かった。
襖を開けたら、紘一郎が顔を上げた。炬燵布団には入らず、胡坐をかいた膝には、ブックカバーのかかった文庫本。
「おはようございます。すみません、ゆっくり寝てました」
「おはようございます。香織くん、疲れていたんでしょう。よく眠れました?」
耳馴染みの良い優しい声に気持ちが洗われる。
すぐそばまで行くのは気が引けて、戸口から離れず、その場に膝をついて正座した。
「はい。それで、さっきスマホを見たら本当に連絡あって。ごめんなさい、気付いてなくて」
そのまま、頭を下げると「顔を上げてください」と少し焦ったような声が耳に届く。
「こちらこそ、突然来てすみません。昨日一晩お世話になりました。朝ご飯はどうします?」
問い返されて、ぼやっと見返してしまった。
「先生、食べてないんですか。西條は」
「朝早かったみたいです。今日は沿岸に行くとか。藤崎さんも学校始まったばかりだから、ひとの分は気にしないでって言っておいたので。僕もこれから」
視線が絡む。そよ風が吹いてきたような錯覚があって、目を細めてしまった。
(……俺を待っていたくれたとは、思わないようにしよう。それは自惚れでしかない)
だけど、嬉しい。
たぶん自分は運が良いのだと、素直に信じられた。声が、弾む。
「今日、あの、俺は休みなんですけど。湛さんが休めって。ええとこのあと……」
気持ちが逸って、何を言いたいのかわからなくなる。
「そうですね。一宿一飯の恩、朝ご飯、僕が作る?」
くすっと笑われて、予想外の提案をされた。
香織は固まってしまった。つばを飲み込んでから、恐る恐る確認。
「西條が、穂高先生は家事能力ゼロで、特に料理は全然できないと。子どもの頃先生に引き取られて、見かねて自分が……って」
だから、なんでもできるようになったんだ、と酒を飲んだときに漏らしていたのだ。
香織の困惑を読んだように、紘一郎はふふっとふきだした。
「聖と僕は血が繋がっていません。引き取った直後は、『育てられる義理はない』と反発がすごくて、『役割』が必要でした。僕にできなくて、聖にできることがある、という。僕は聖が必要で、聖がいてくれないと生きていけないと、どうにかして伝える必要がありました。さすがに、そろそろ時効かと。聖が家を出たあとずっと独りで生きているわけなので、聖も言わないだけで気付いているとは思いますけど」
「それはつまり、子ども相手に、家事ができないふりをしたんですか……?」
それはいろいろと、危ない橋を渡っている気がする。子どもを引き取る大人というのは、本来、生活能力に不安がない人間でなければいけないはず。家がゴミ屋敷になったり、ネグレクトで通報される危険性があるような状態というのは。
「洗濯掃除は、最小限はやっていましたよ、隠れて。だけど、料理は……、最初はとにかく一緒に料理をして、失敗して。その繰り返しをしているうちに、聖の負けん気が火を噴きました。すぐにコツを覚えて、凝った料理を作るようになりました。仕事にするほど好きになるとは、そのときは思いませんでしたが。あ、これは一応、聖には秘密です。なんとなく、言うタイミングを逃しているんですが、ひとから聞くと拗ねると思うので」
のんびりと言われて、妙な脱力感を覚えながら、香織は曖昧に笑った。
「わかります、西條けっこう面倒くさいから」
実際に、香織が紘一郎から聞いたと言えば、まず間違いなく怒る。確実に拗ねる。紘一郎との間に、他人が挟まるのは許せないはず。
だからこれは、本当は香織が知るべきではなかったこと。知らなければ、うっかり秘密を洩らすこともない。
問題は、彼ら二人の間では重大な話を、なぜいまこのタイミングで紘一郎は打ち明けたのか。
(このひとに関して、西條が知らないことを、俺が知って良かったんだろうか)
秘密を共有してしまった。
動揺を押し殺して、香織は言葉を選んで告げた。
「あの、でも、慣れない台所、使いづらいと思うので。俺が何か。どうしよう、簡単におにぎりでも作りましょうか。縁側、寒いですけど桜が見えます。花見しませんか」
「すごく良いですね。そうしましょう」
嬉しそうに微笑まれて、見惚れかけた。
慌てて立ち上がり「待っててくださいね」と部屋を辞す。
薄暗い廊下を歩きながら、少し惜しかったな、と遅れて気付いた。
もし、まだ本調子ではないふりをしたら、紘一郎が何か食事を用意してくれたのかもしれない。
それは、あれほど近しい間柄で何年も一緒に暮らしていた西條聖が一度も食べたことがないもの。
秘密の味に、興味がある。
(もしまた、こんな風に二人になることがあったら。お願いしてみようかな)
次、こそは。
* * *
縁側を開け放つと、肌寒い風が吹きつけてきたが、空は爽やかに晴れ渡っていた。
「ツナマヨ、鮭、明太子と高菜。いろいろ」
少し小さめに、その分種類を多く作ったおにぎりは大皿に並べ、水筒に味噌汁を詰めてきた。
花を見ながら飲みやすいようにとマグカップに注いで渡すと、紘一郎はとろけるように笑って「ありがとう」と言った。
「北海道の家は、寒さを避けるために間口を狭くする作りなので、縁側はまずないんですよ。こういうの、本州の家ならではだと思います」
マグカップの味噌汁に口を付けて、美味しいですね、と呟く。
正面。樹齢百年はあろうかという桜の大木があり、花びらを風に散らしていた。
はらはらと舞って、紘一郎の髪に、膝に、薄紅の彩を添える。気付いた紘一郎が微笑を浮かべる。
「月の綺麗な夜なんか、祖父が生きていた頃、よくひとりで飲んでました。俺もときどき。冬場は無理でしたけど、そのうち西條とも……」
言葉少なく、ぽつぽつと会話しながら、しずかに食べて飲んだ。
話すことがないわけではないのだが、沈黙が心地良すぎる。
伸びやかな薄い青空、桜、庭の緑。
耳をすませば、遠くで車の行き交う音や雑多な生活音が聞こえる。それでも、奇跡のような静けさは侵しがたく、黙っていれば時が止まってくれそうな気がした。
(昨日、柳と死ななくて良かった。生きていて良かった)
ひときわ大きく風が吹いて、花びらが視界を染めた。
見ているうちに、遠くへ連れて行かれそうな光景で、思わず目を閉じた。
「香織くん、あまり体を冷やさない方がいいのでは。昨日、水沢さんが心配していました。お父様が、体が弱くて、肺炎をこじらせて亡くなっていると」
近い位置で、紘一郎の声が聞こえる。香織は吐息を漏らして目を開けた。
「湛さんは心配しすぎなんですよ。親父は生まれたときから、長生きできないと言われていたそうです。俺は、そういうんじゃないから」
「そう? でも、風邪には気を付けて」
「それはそうですね。本当は今は休めない時期なんです。西條や藤崎さんにうつすわけにもいかないし。二人とも、今は大切な時期だから」
話しているうちに、肩がふわりと温もりに包まれる。紘一郎が身に着けていたジャケットを脱いでかけてきたと、遅れて気付いた。
(抱かれたかと思った)
人肌に近いあたたかさに、眩暈がした。
「先生、大丈夫です」
心臓が押し潰されるほどの息苦しさを感じて、絞り出すように告げる。
「香織くんは顔色が良くないから、心配」
視線を感じる。どうしよう、という気持ちで胸がいっぱいになる。どうしよう、優し過ぎて、辛い。幸せすぎて辛い。時が止まってくれないのが辛い。
「先生」
思い余って呼んだ、そのとき。
「おっはよう、三十路」
どかん、と背中に衝撃を受けて、息が止まった。
甘く、可愛らしい声。嫌悪感など抱きようもないほどに透明感のある声なのに、耳にした瞬間、はっきり負の感情が湧き上がった。
「てめぇ……、柳、なんでうちにいるんだよ!?」
背中にしがみついて離れない小さな生き物。柳奏を、なんとか振り払おうと身をよじりながら、香織は険のある声で言う。
「玄関の鍵開いていたから」
「俺はそんな物理の話をしていない。鍵が開いていたからって、住人に断りなく上がり込んだら不法侵入だよな? 高校生ならその辺もう理解できるだろ?」
「理解できたからといって、実践できるかどうかは別」
「うるせえよ。実践できるかどうかってなんだよ。『しない』一択だっての。帰れ帰れ」
「帰らない」
なぜか、そう言われるのことが、わかっていた気がする。
既視感とは少し違う。ただ、百年前からこの問答がこの場で行われることが予め決められていたかのような確かさで。
帰れと突き放し、帰らないと突っぱねられる。
昨日初めて会っただけの相手なのに、もう何年も同じやりとりをしてきたかのような思いにとらわれる。
(柳が図々しくて、押しが強くて、土足で人の中に入り込んでくるような人間だから)
どれだけ拒否しても拒否しても、踏み込まれる。関わりたくないのに、強い予感がある。
いつか、逃げられなくなる。捕まる。
「ねえ、お店で、新しい職人探しているって聞いたよ。わたしどう? 和菓子職人になりたい」
「何言ってんのかわかんねえ。柳はまず高校に行け」
留年してるんだろ、という一言は理性で飲み込んだ。それはさすがに傷つける。
香織に振り払われまいとするかのように、強く背中にしがみついた奏は、「やだ!」と明るく言って、続けた。
「水沢さんってひと、中学卒業してからこの家に住みこみして職人になったって聞いた。わたしもそれが良い。ここに一緒に暮らして、職人になる。高校はやめる」
ぎゅうっとしがみつく力が強くなる。
うっ、と呻いた香織に構わず、奏は続けた。
だから、この家に置いてよ、と。