背中の骨
炬燵で寝るなよ。
(西條が怒ってる……)
耳だけが生きている。瞼も、指の一本さえも、思うように動かせない。全身が重くて、どこにも力が入らない。自分の体が自分のものではないようだ。
気分は悪くない。炬燵の温もりに包まれていて、幸せだった。
「聖。寝させてあげた方がいい。泳ぐのって本当に体力を使うんだ」
「炬燵で寝たら余計疲れるだろ。血の巡りも悪くなるし、風邪ひくかも」
「熟睡しているように見えます。あとでベッドまで運びましょう」
「えーっ、さすがに重いだろ、そいつ見た目細いけど筋肉ついてる。ほら、あの女子高生がいい体してるって言ってたけど、そういう感じ」
ああ、と笑った気配。
(この二人仲良いよな……。親子と兄弟と親戚と親友、全部兼ねている感じ)
積み重ねてきた年月。絶妙な距離感。踏み込むときと、相手を尊重して突き放すタイミング。呼吸が合っている。そして、その均衡が崩れることはない。たとえ恨みや憎しみといったネガティブな感情が放り込まれても、この二人の信頼関係は揺るがないだろう。そう感じさせる、強靭さがある。
確かな、絆。
その会話を。
天国にたどり着いたみたいに安らかな心地で聞いていられるのは、きっとすべての不安を洗い流されたおかげ。
きっかけは、穂高紘一郎の言葉。
* * *
ひとの話を聞かない柳奏、潔癖を発動させて不穏な気配を醸し出していた光樹。
悪いことが起きる前触れのように、一触即発の空気の中、香織はといえば誰に何を言い訳して良いのか途方に暮れて視線をさまよわせてしまっていたが。
――川に落ちた女の子を、香織が川に飛び込んで助けたんだよ。そしたら、運命感じられちゃったみたい。
樒が最小限の説明をした。
即座に、紘一郎が「すごいですね」と言った。心の底から驚いたように、感嘆した様子で。
――川に落ちて、二人とも無事だったんですか。信じられないくらい運がいいです。普通、そういうの、助からないですよ。
――運が……。
(そんなわけない)
香織が恐る恐る顔を上げて見つめると、紘一郎は力強く頷いていた。
――すごく良いです、間違いなく。お祝いしても良いんじゃないでしょうか。
笑っていた。
――運、良い、ですか? 俺が?。
言われていることが信じられずに、確認してしまった。聞き間違いではないかと。
――良いですよ、絶対に。香織くんか、お嬢さんかわかりませんけど。きっと両方ともだと思います。この先、もっと良いことたくさんあると思います。
(あ、もう、やばい)
膝から力が抜けて、へたりこみそうになるのを堪えようとしたが、無理だった。
その場にゆっくりと崩れ落ちる。
――どうしたの!?
奏が大げさな声をあげて、一緒に座り込んだ。
(柳、ほんとに声は可愛い)
ついに、可愛いと思う余裕まで取り戻しつつ、香織はなんとか言った。
――疲れてんのよ。朝三時起きで働いて、夕方仕事上がる前に川で全力水泳だよ。もうおっさんだから膝がくがくしてるし。無理なの。
湯呑を炬燵の上に置いた樒が、楽し気に呟いた。
――香織、戦闘モード終了だな。言葉遣い。
――ああ……、そう? 荒れてた?
――思春期みたいになってた。
(それはなんというか。柳につられたんだ、たぶん)
言い訳を飲み込んで、もうやだ、と床に倒れこんだ。
そこからは、周りが動いた。
* * *
柳奏の件に関しては、湛がさっさと岩清水家に照会して、「お義母さん」の力を借りて解決した。ピアノの生徒だったときの連絡先が残っていて、そちらから直接電話してもらったとのこと。「川に落ちて、近くの家で保護されている」と。
両親が迎えにくる前に、頼りになるお義母さんが椿邸に到着。奏も逆らえない関係だったようで、ぶつぶつ言うこともなく、両親と帰って行った。岩清水母がその場にいた効果もあったかもしれないが、奏の両親は申し訳なさそうに謝り倒していて、ひとまず丸く収まった。
光樹に関しても、湛が家まで送り届けるということで連れ立って出て行った。
さて帰るよと、樒もさらっと立ち去った。
その後、聖が短時間で何かすごく美味しいものを作ってくれた気はするし、確かに食べたはずなのだが、食事の途中から記憶が少し飛んでいる。
寝てしまったらしいというのは、聖と紘一郎の会話からわかった。
決して盗み聞きするつもりはなかったのだが、起きられないせいで聞いてしまった次第。
(穂高先生……、このひと、背中に翼が生えてるんじゃないかな。「運が良い」なんて)
その一言で、今日の出来事をすべてリライトしてしまった。
川に落ちた(飛び込んだ?)柳奏を、命がけで助けたこと。そこからの踏んだり蹴ったり。
奏に「運命の相手」と言われるのはひたすら迷惑だった。
しかもよりにもよって、その奏のことを光樹が好きらしいというありがたくない事実まで。
さらには、香織自身はひとかけらも持ち合わせていない「痴情」がもつれたかのような現場を、紘一郎にもばっちり目撃された。
穴があったら潜りたいとか、消えたいとか、死にたいとか。
散々考えてしまったのに。
――二人とも運が良い。お祝いしてもいいくらい。
間違いなど何もないと言わんばかりの、全肯定。
言葉一つで、後悔とやりきれなさに塗りつぶされた最悪の文脈が書き換えられて、自分はたしかに運が良いのではないかと信じられそうになった。
(一日の終わりで穂高先生に会えた。俺はきっと、運が良い)
単純な幸せだけが残った。
「運ぶって、どうやって運ぶんだ。絶対重いって」
「背負ってみようか。聖、僕の背中に香織くんをのせてみて」
「ぎっくり腰になったりしない? 紘一郎、自分の年齢忘れてないか。大丈夫かな」
「たぶん」
二人の心地よい笑い声が続いて、体を持ち上げられる気配。少しの間半身が浮いて、何かに乗せられた。
ごつごつしていて、あたたかい。腕をだらりと前に下げられる。
(もうすぐ三十歳だし、身長はこれでも一八〇センチくらいあるんだけど)
今さら誰かに背負われてしまうなんて。もう記憶も曖昧な、子どものとき以来だ。父の背中、少しだけ覚えている。
子どもの目から見て父はもちろん大きかったが、実際はどうだったのだろう。終わりを迎えた年齢は超えたが、身長も超えていそうだ。大人になったのだ。
そのはずなのに。
「立てる? せーのっ」
「うん。問題ない。言うほど重くない。ある意味、見た目通り」
「部屋、こっち。ドア開けるから先に」
ゆらゆらと温かい背に運ばれながら、体のあちこちと触れ合った背中の骨を感じた。
(肩甲骨は、翼の名残なんだっけ。どこだろう。このひとはその気になれば翼を出せそう)
天使。
柳も馬鹿だなぁ、という思考がすうっと流れていった。
好きになるなら、運命を感じるならこういう相手にすればいいのに、と。
(俺はだめだよ。十三歳も下の子どもなんか、さすがに)
……あ。
会話しているはずの二人の声が遠くて、意識が再び眠りに引きずりこまれそうになる間際、香織はふと気づく。
その年齢差は、おそらく自分と「天使」との間にもあてはまる。
だから、かつての西條聖ははじめから「相手」にされなかった。その事実が不意に思い出された。
こういうことか、と。
愛に年の差なんて、という美辞麗句は存在しなくて、やはり越えられない壁はある。
もし仮に奏が越えようとしてきても、絶対に受け入れることはないだろう。
それがわかって、安心した。
(ま、もう来ないだろうけど。来ないよな?)
俺は運が良いのだし、悪いことなんか起きない(確信)。
奏が再訪するのは悪いことに他ならないが、運の良い自分にそんなことが起きるはずがない。
運び込まれた自室のベッドで、香織は湧き上がるような不安を打ち消すように自分に言い聞かせつつ、深い眠りに落ちた。
いつもお読み頂きありがとうございます!
前回更新の240話で本編80万字をこえました。
ここまで長くお読みくださっている皆さまにお礼を申し上げます。
最近、書けたー! よし、投稿だー! という勢いで更新していたので落ち着いてあとがきを書くこともなかったのですが、ただいま第35章、椿屋編に突入しています。香織視点がメインです。
34章の終わりから、作中の時間的に一月半ほど進んでいるので、「海の星」の面子にもいろいろ変化はあるはず。椿屋編と並行して作中に織り込んでいくか、ひと段落ついてから少し戻るか今のところ未定です。少し考えます。
更新連絡やこぼれ話などは活動報告で書いていることがありますので、お気に入り登録頂くと確実ですが、たまにのぞいて頂ければうれしいです。
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