にゃー!
「うん。そう。いまは『海の星』で週三日くらい働いて、定休日は試作・勉強会。あとは生産者さんのところ挨拶周り。雑誌の取材もいくつか。そのうち本出るよ。『シェフ、イケメンですね』って無駄に写真たくさん撮られた。顔で料理してねーってのに」
珍しい相手からの電話に、西條聖は普段より明るいトーンの声で話し続けていた。
その日は「海の星」での仕事ではなく、用事で市内を走り回っていた帰り。電話がかかってきたのはショッピングモールの駐車場の車中。タイミング良く、車に乗り込んだところ。
「それにしても、電話なんかどうしたの。……えっ、マジ!? なんでそれいま言うの!? 間に合う!? 下りて下りて、途中下車! 車あるから駅まで迎えに行く!! 絶対下りて。あ……、ほら」
テンションが上がって、運転席で身を乗り出す。そんな自分に気付いて、苦笑を浮かべながらハンドルに手をかけ、深く座り直した。
声を低め、躊躇いながら告げる。
「あいつも会いたいと思う。……ん、藤崎はこの春から調理師学校。良いタイミングだから家を出るって言ってたけど、引き留めた。学費かかるし、バイト時間は限られるから収入減るし。もう少しいろって。……うん。みんな元気。だけど人間なんかいつ死ぬかわからないんだから。近くに来てるなら顔見せてよ。……うん、わかった」
電話を切る。
ブラックアウトしたスマホをぼんやり見てから、今一度画面を表示させて、時間を確認。
一息ついて、エンジンをかける。駅か、とひとり呟いて発進した。
* * *
「おおっ!? 齋勝だ。ひさしぶりーっ」
炬燵に入り込んだまま、パーカーの袖に埋もれた手を挙げた奏に、光樹は見るからに嬉しそうな笑みを浮かべた。
「柳先輩。ここ、他人の家ですよね。寛いでいるなー」
廊下を先導して案内してきた香織は、「帰らないで。店終わったんでしょ」と強引に連れ込んだ樒も居間に招く。戸口に立っていた湛が「あ、樒」と呟き「どうも」と樒が笑顔で応じた。
「お湯沸かしてあるから。お茶いれる」
考えを読んだかのように湛に言われて、香織は吐息した。
「湛さん、ごめん引き留めちゃって。和嘉那さんは」
「大丈夫。今日はお義母さんと買い物があって、岩清水家にいる。帰りに迎えに行く予定だったけど、遅くなるって連絡したら、晩飯食べて待ってるって。心配なし」
落ち着いた話ぶりの湛に、香織は妙にホッとする。
(湛さん、今年の春はいつもより元気かも)
それどころか、普段よりずっと笑っている。結婚がすごいのか、和嘉那がすごいのか。
「先輩、よく川原で練習してるって前に言っていたから。春になったし、どっかにいるのかなって思っていたんですけど」
炬燵の奏から少し離れた位置に膝を付き、光樹が声をかけていた。
奏は光樹に目を向けると、無言になってじーっと見つめてから言った。
「ここ、齋勝の家だったの?」
「違います」
「似てるね、あの三十路と。従兄弟か、親戚?」
ほぼ同時に、香織と光樹が答える。
「違う」「そうかも」
分れた。
空気に緊張がはしる中、笑みを浮かべた光樹が、香織を見ることなく奏に説明をする。
「田舎だから。先祖辿ればどこかで親戚同士なんて、結構あると思う。そういう意味では、他人の空似以上に似ていることもあるかなと」
ぽん、ぽん、と湛と樒に両側からつっつかれて香織は唇を引き結んだ。光樹の説明は自然で無理がない。
(これはやっぱり、知っているのかな)
下手に誤魔化さないあたり、色々気付いていそうだ。
そのまま湛が出て行こうとしたが、ちらりと子どもたちに視線を向けて口を開いた。
「何か食べるか。饅頭でも持って来る」
声に、光樹がはっとしたように立ち上がって、頭を下げる。
「あ、ええと、先生の娘さんの旦那さん。お久しぶりです、お邪魔します」
光樹のピアノの先生が、和嘉那の母。香織の知る限り、湛とは一度岩清水邸で顔を合わせている。
「先生の?」
そこに口を挟んだのは奏で、光樹が何か思いついたように奏の方を振り返った。
「岩清水先生の。美大に行ってたお姉さんがいたの、先輩覚えていません?」
湛が軽く目を瞠った。香織も咄嗟に何も言えずに二人の会話を聞いてしまう。
ああ、と奏はつまらなそうに言って、畳に倒れこんだ。
「疲れたのにゃ~」
(会話、しろ)
気になる情報が出て来たのに、奏の自由さで吹っ飛んだ。
二人には、少なくともピアノで繋がりがあるらしいというところまではわかった。
お茶いれてくるから、と言いながら湛は出て行く。
香織は柱の掛け時計を見た。日が長くなったとはいえ、外はすでに暗い。時刻も間もなく十九時。
「お茶はいれるけど、飲んだら帰れよ、柳奏。光樹、何か知っているなら洗いざらい話せ。川に落ちたのを拾っただけで、うちに居座ろうとされて迷惑しているんだ」
俺はどうしよう、と樒が呟く。「樒さんはいてよし」と香織が言うと、苦笑した気配。ひとまずその場に腰を下ろして正座していた。
「そうだ、先輩。橋から落ちたんですか」
「まあね」
ぶっきらぼうで取り付く島の無い返事に、光樹が眉をひそめる。困惑している様子だった。先輩、と何か言いかけるが、不意ににんまり笑った奏がその声を打ち消す。
「大体、川原で練習していると思ったって、なに。齋勝はわたしのストーカー?」
「そういうわけじゃ」
焦る光樹。
(からかうなよ)
香織は瞬間的に苛立ちを覚えたが、堪えた。座りなさいよ、と樒に横から声をかけられる。
奏は寝転がったままごろごろと無駄に寝返りを打っていた。
「トランペットなんか、もうずっと吹いてないよ。春休みは検査入院だったし。異常はなしだから、春からは高校に復帰するけど。よろしくね、ついに同じ学年だよ」
先輩が同じ学年。留年か、と理解する。
強くあたられている光樹はといえば、気にしていないどころか、なぜか妙に嬉しそうに「あ、はい、よろしくお願いします」とほんのり笑っていた。
樒の横に腰を腰を下ろした香織は、体育座りをした自分の膝に顔を伏せた。
「なんかやだ。見てられない」
小声で呟くと、樒に「青春」とベタに返される。
俯いている場合ではないと、顔を上げた。
「もう、なんでもいいけど、高校生たち。親に居場所を連絡しなさい。特に柳。川に落ちた件言う言わないはともかく、連絡。スマホとか、ある? スマ。あーーっ」
言いながら、香織はその場に立ち上がった。
「どしたの」
のんびりと樒に尋ねられて「スマホ! みてない! えーっ、川かな!? 落としたかも……」と答えているうちに見事に意気消沈してしまう。
(あんまりだ。良いこと何もなさすぎる。俺が何をした)
「香織さん、大丈夫……?」
光樹にまで、おそるおそる遠巻きに言われて、さらに落ち込む。
そのとき、お盆に伏せた湯呑と黒糖饅頭をのせた湛が戻ってきた。
「香織、スマホは工場に置きっぱなしだったぞ。川に飛び込んでいたら無事で済まなかっただろうし、命拾いしたな」
さらりと言いながら、炬燵にお盆を置く。急須から湯呑に茶を注ぎ始める。
「あ、ああ、そう……。そうだったんだ」
(嬉しいけど喜んで良いのかわからない。マイナスがゼロになっただけで、プラスにはなってない)
両手で顔を覆って、溜息。
「元気だせよぅ、三十路。体だけじゃなくて心も若いのな。さっきから落ち着きなくて忙しいのにゃー」
(黙れ猫娘。なんだその語尾)
うざいだけだぞ、と心の中で毒づく。
「体……?」
聞き咎めたのは光樹で、確認するように奏に尋ねていた。
「うん。さっき一緒にお風呂入っちゃった。良いカラダしてた。三十歳って全然オッさんじゃないんだね」
また変なこと言い出したぞ、と香織は顔に当てていた手を外し、奏を睨みつける。その視線の先には、固い表情をした光樹もいた。
「先輩、知らない男性とお風呂に入るのはいけないと思います」
ド正論。
何一つ、間違えていない。
しかし、奏は意に介することもなく突然炬燵から出て来ると、香織の元に歩み寄ってきた。なんだ、と香織が警戒する間もなく、その腕に両手でしがみつく。
「もう、知らない仲じゃないよ。何せ一緒に死にかけて、九死に一生を得た間柄なの。運命の相手って感じ。一緒にお風呂にも入るし、一緒の炬燵であったまるし、一緒の家で暮らしちゃうかにゃー。んふふ」
ぶん、と香織は腕を振り上げた。
「おいこら、柳、この手を離せ。事実を歪曲して伝えるな。ぜんぶ少しずつ違うだろうが。柳と死ぬなんかありえねーし。一緒に暮らすのはもっとねーよ。帰れ帰れ」
ぶんぶん、と腕を振るも、振り払えない。
それどころか、引っ張られた拍子にパーカーの裾が際どい位置まで上がったところで、奏が爆弾発言をした。
「いまわたし、ノーブラノーパンなんだけど。そんなに激しくされると、見えちゃう♡」
静まり返った中、湛が「お茶はいったぞ」と言い、軽く身を乗り出した樒が「いただきます」と湯呑を受け取った。
香織はといえば、振り上げた腕を下ろすこともできないまま。
(クソが……!)
よほど口にしたいのを堪えて光樹に目を向けると、まったくの無表情で見返された。目に光がない。その上、局地的な大寒波が光樹を中心に発生していて、その心情を如実に伝えてくる。
「光樹、あのな、ごかい……」
声を震わせて釈明しようとする香織の胴体に、奏がどん、と抱き着いた。
「もう運命だよね。命がけで助けてくれた王子様と離れるなんて、無理なんだにゃん」
(だからその語尾、可愛くねーって)
忌々しく思った香織であったが、ふと視線を感じて首をめぐらせた。
廊下に通じる襖が開いていて、青い目を見開いた聖が立っている。状況が飲み込めていない様子。
さらにその横に、見知った人物が佇んでいた。
「突然ごめんなさい、お邪魔します。香織くん、連絡していたんだけど忙しかったかな。お久しぶり」
穏やかで優しい笑顔。
ずっと会いたかったはずなのに、香織は絶望的な気分でその名を呟く羽目になった。
「穂高先生……、来ていたんですね」