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ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
4 薔薇の名前
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主よ、人の望みの喜びよ

 本当に、駆け足で食事を終え、デザートとお茶まですぐにたどり着いた。


「そこにピアノがあるわよね。調律はしているの?」

 紅茶のカップをソーサーに戻して、レナが伊久磨を呼ぶ。

 壁際にひっそりと置いてあるアップライトのピアノが気になるらしい。

「しています。シェフがときどき弾くんですけど、音が濁ると耐えられないとかなんとか」

「シェフが? あなたは? なんでもいいから、弾いてみてよ」

「無理ですね。ほんとうに、素養がないので。えぇと……」

 伊久磨は軽く片手をあげて、「少し待っていてくださいね」という仕草をしてから、身を翻す。


 キッチンに引き返し、事務室兼休憩室に足早に進んだ。

 すでにだらりと革張りの黒いソファに横になり、居酒屋を特集した雑誌を顔に乗せている由春を見下ろして、わずかに逡巡してから声をかける。

「岩清水さん」

「……ん」

「お願いがあるんですけど。ピアノ弾いてください」

「アホ」

 暴言をやり過ごすように顔を背けてから、伊久磨はすぐ横まで近づき、手を伸ばして顔の上の雑誌をそっと外した。

「少しでいいので」

「気分じゃない」

「そこをなんとか」

 由春は、食らいつく伊久磨を軽く睨みつける。


「まだお客さんいるだろうが」

「聞きたいって。無理を言っているのはわかっているんですが」

 伊久磨は、ローテーブルに投げ出されていた眼鏡を手に取って差し出しながら、片膝を床について由春の目を見た。

「レナさん、前来た時よりたぶん視力落ちていると思います。庭を見ているって言っているけど、たぶんそんなに見えてない。だけど、言葉は明瞭ですし会話は成立しているので、耳は問題ないかと。それで……」

 言い淀む。

「視力が落ちているなら眼鏡をかければいいものを」

 ぶつくさ言いながら、由春は眼鏡をかけながら半身を起こした。

 膝を床についていた伊久磨は、立ち上がりながら由春の眼鏡を見て言った。


「そういえば岩清水さんは、コンタクトにしないんですか。調理中、眼鏡邪魔じゃないのかな」

「コンタクトって、昔使ったことあるけど片目だけで三分くらいかかるんだよな。時間ないと無理」

「そんなに?」

 そんなに非効率的なものなのか、と首を傾げた裸眼の伊久磨に対し、伸びをしながら床に足をおろして、ひと思いに立ちあがった由春は嫌そうに言う。

「目にものが入って来るってやばいぞ。入れるまですげー緊張する」

「うん? それ、実質覚悟を決めるまでに三分かかるって話ですか? 岩清水さん惰弱すぎでは」

 怖がり過ぎなのでは。

「惰弱ってなんだよ。うるせーな。裸眼にこの辛さがわかるか」

 いつもどおりの口の悪さで言い捨て、コックコートのくるみボタンをはめながら歩き出す。

 その後を追いながら、伊久磨は今更ながらに気付いて声をかけた。


「弾いてくれるんですか」

「一曲だけな」


          *


 椅子を引いて、由春が鍵盤の上に指をのせる。

 一瞬、遠くを見るようなまなざしになる。それから目を閉ざした。

 いつも食材に触れて魔法のように料理を作り出していく指が、白鍵の上をすべり目指す場所を探り当てる。目を瞑ったまま。

 やがてしずかに打鍵される。


 甘やかでいて、清らかな音の連なり。

 やすむことなく打鍵される彼の指先から、絶えることなく音が溢れ出す。

 カンタータ第147番――


Jesus,(主よ、)Joy of(人の) Man's (望みの)Desiring(喜びよ)


 かすかに黄みを帯びたアイボリーの白鍵と、古ぼけた黒鍵を迷いなく打ち付けるたびに、粒の揃った音が空間を埋めていく。

 一曲弾き終わった後に、続けて次の曲が始まった。


 少し、早く。先を急ぐように、それでいて乱れたところはなく。彼の指が紡ぎ出す。

 華やかに、高らかに歌い上げる。

 Canon a 3 Violinis con Basso c.

 ヨハン・パッヘルベルのカノン。


 ――指先にまとわりつく光の妖精(ウィル・オ・ウィスプ)


 さんざめく音の洪水が、光をまとって鳴り響く。

 繋ぎ目を感じさせない鮮やかさで、曲が変わる。


 Merry Christmas,Mr.Lawrence

 聞く者の言葉を奪い、胸を打って、暴き立てる。そこに秘めた弱さを引きずり出して白日の元に晒して光で包み込む。


 Ballade pour Adeline

 そして、どこまでも綺麗すぎる夜空。地上の光のない山奥で見る、幾千幾万の星の瞬きのように。

 骨まで震える。音に染め上げられた肺が、呼吸すらも忘れて。


(一曲だけって言ったくせに)

 弾き終えた由春は、聴衆に何も言わず、挨拶もなく席を立ってキッチンに引き返していく。

 音が絶えても、光の奔流となって膨れ上がり、弾け、世界を満たしたピアノが耳の奥で響き続けている。


「シェフ? ピアニスト?」

 余韻の邪魔にならないように気遣ったひそやかさで、レナが囁く。

(コンタクトが怖い惰弱です。シスコンだし)

 胸の中で罵りながら、伊久磨は何度か目を瞬いた。まばたきを忘れたせいで、目が潤んでいる。

 立ち尽くしたまま、やはり小声で答えた。


「『海の星』のオーナーシェフ、岩清水です」



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