奏
「わたしは脱がされても叫ばなかったのにさ、あの三十路の叫び声すごかったね。女の子より女の子。ちょっと興奮しちゃった」
※ちょっと何を言われているのかわかりません。
シャワーを済ませて、脱衣所にてドライヤーで長い髪を乾かしてきた「女の子」が、にっと真珠みたいな白い歯を見せながら笑って言った。香織のグレー色のパーカーを着込んでいるが、サイズが合わな過ぎてひざ丈ワンピース状態。なお、素足。
髪を乾かすでもなく、大き目のパーカーにジーンズを履いて炬燵にもぐりこんでいた香織は、自分の眼光が鋭くなりかけたのを自覚して、倒れこむ。顔まで炬燵布団をかぶった。
「あ、逃げた」
神経逆撫で・煽り・挑発の類の呟きが耳をかすめたが、気付かなかったことにした。
炬燵布団の中で、ひたすら目を瞑ってやり過ごそうとする。
(女の子より女の子とか、興奮しちゃったってなんだよ……? 俺なんかひとかけらも興奮してねーよ! つーかお前はどの辺が女の子なんだよっての。ぱんつと声だけだろうが)
よほど言いたかったが、もちろん言えない。絶対に。
どう見ても未成年相手に「お前の女の部分、ぱんつと声だけだろ」と発言した場合、ごく普通に、社会的に死ぬ。
「香織、ごろごろするな。具合悪いのか。熱があるならすぐ病院だぞ」
湛の声が遠くから聞こえる。
(過保護。大丈夫だってのに。親父とは違うから)
どちらかといえば、腹の調子が悪い。ごろごろごろごろ鳴っている。川の水を飲んだせいに違いない。
「……返事をしない気なら、そうだな。西條に連絡しておく」
香織はがばっと布団をはねのけた。
「なんでだよ」
「夜中に熱が出たら困る。一晩よく見ているようにと」
「大丈夫だってば。湛さん、心配しすぎ」
なぜか、「女の子」がちょうど向かい側から炬燵に入り込んでくるのが見えたが、香織はそちらを見ないように顔を背けて湛を見上げた。
軽く小首を傾げた湛は「そうか?」と言って、目を瞬いた。
「それじゃ、俺はこのへんで帰るか。あとよろしく」
「それはだめ! 置いていかないでよ、湛さん!! なんかそこに座敷童みたいなのいるじゃん、まさか見えてないの!? 炬燵にふつーに入ってきてんの!!」
「見えてるけど」
「見えてんならどうにかしてよ! 俺やだよ、そいつと二人になりたくない!! 無理!!」
脱がされた挙句に急所を狙われた恐怖感がしっかり残っていて、本音が炸裂してしまった。
なお、騒ぐ香織と対照的に、座敷童もどきの少女はといえば「にゃはぁん」と不穏な笑い声をもらしている。香織と目が合うと、ばちっと片目を瞑ってウィンクをしてきた。
(うわっ、マジでぞくっときた~っ)
凄まじい悪寒が走り、香織は両腕で自分の両肩を抱く。
「取って食わないよぅ、イケメンお兄さん♡」
少女は、追い打ちをかけるように愛想よく言いながら、炬燵の中で香織の足を蹴ってきた。ぎゃっと悲鳴を上げて香織は炬燵から飛び出した。
「湛さん!! 俺、これ絶対に食われる!! 怖い、NO食人!!」
「うん。 香織、お前、どっか打っただろ。頭とか、ヤバいところ。手遅れになる前に精密検査かな。救急病院……」
言いながら湛はスマホを取り出して何やら検索を始めてしまった。
香織は泣き言を口にした。
「それをどっかに持って行ってくれたら、たちどころに回復するよ。ええと、お嬢さん? おうちに帰ろうか。あっちのおじさんが送ってくれるから。あのおじさん、奥さんしか眼中ないから。すげー美人の奥さんいるの。だから、いかがわしいことされる心配、一切、なし!!」
実際のところ「お嬢さん」と言っただけで口が曲がってしまったし、「おじさん」と言われた湛は目を細めて睨みつけてきていたが、それだけの犠牲を払ってでも言わなければならなかったのだ。
どうにか目の前から消えてほしい、その一心で。
「帰らないのにゃー。拾った猫の責任は拾い主がとるものなのにゃー」
ぶかぶかで袖に埋もれてしまった片手をあげて、にゃーんと少女は可愛らしい声で一声鳴いた。
香織は渋い表情をなおさら渋くした。
「本物の猫ならそりゃ考えるけどさ。未成年なんか、警察に突き出して終わりだよ」
炬燵から出ると、寒い。
香織は警戒しながら腰を下ろして炬燵に足を入れつつ、むすっとして言った。
おとなしく聞いていた少女は、「ほほぉ」と不穏な呟きを漏らす。
「警察。そこでわたしがお兄さんを突き出せばいいわけだ、ほうほう♪ このひとに風呂場に連れ込まれて、服を脱がされました、って。おもしろいね!」
勢いよく俯き過ぎて、香織はごつん、と天板に額を打ち付けた。「痛そうな音」と湛の呟きが耳に届くも、すぐに顔を上げる気にはならない。
「信じられねえ。命がけで助けたのに……。つーか、なんで俺あそこにいたんだよ、くっそ。見つけなきゃ良かった」
言うだけ言って、口をつぐむ。
少女は悪びれた様子もなく「うん」と返事をした。
「それだとたぶん今頃、溺死体になってた。その方が良かったかな」
平板な、声。
瞑目して奥歯を噛みしめてから、香織は振り切るように顔を上げる。
「とりあえず、この家で未成年を受け入れることはできないんだ。社会的にそういうの、『誘拐』になって、最悪俺は捕まる。それは困る。家があるなら帰ってくれ」
炬燵の中で、ちょい、ちょいと爪先でつつかれる。香織は足を延ばすことなく胡坐をかいていたが、その膝を、ちょい、ちょいと。
(何かの非言語コミュニケーションなのか、これ。嬉しくはないぞ)
我慢して、少しの間耐えつつ目を向ける。にこにこ笑いかけられて、溜息がもれた。
「たしかに、身元不明の未成年を引き受けることはできない。家に帰れない事情があるなら児童相談所だ。年齢や名前は言える?」
湛が厳然とした態度で尋ねると、少女は炬燵の天板をじっと見つめて早口に答えた。
「柳奏。十七歳」
「十七歳? 三歳くらい上乗せしてない?」
見た目と合わない、と思いながら香織が口を挟むと、奏は初めて、冷ややかな視線を向けた。
「なんで上乗せするかな。ふつう、若く見られたいものでしょ」
「若くって。未成年は未成年だ。十八歳以下の時点で何歳だろうとあんまり変わらないっていうか」
(高校生か……。高二、いや四月に高三になった感じ? 光樹も子どもだと思ったけど、こんな感じだったっけ?)
そのとき、来客を告げるチャイムが居間に鳴り響いた。
* * *
奏と二人になりたくない一心で、「俺が。俺が出る」と香織は湛を牽制してから玄関に急いだ。
椿邸は店の裏手に立っていて、道路には小さな門が露出しているだけだ。母屋への道はわかりにくい。門のチャイムではなく、家の玄関先まで来るのは間違いなく知り合いだ。
「はーい」
背の高い人影が引き戸に映り込んでいるのを見ながら、ガラガラと開け放つ。
「よ。ちょっと邪魔する」
半ば予想していた相手。近所の喫茶店「セロ弾きのゴーシュ」の樒が立っていた。無骨な黒縁眼鏡の奥の目を細め、唇の前に「しずかに」とでもいうように指を一本立てながら玄関に入り込んでくる。
手にはピンク色の、室内履き用の布スリッパ。
(なに……?)
ちらっと目を向けると、樒が声をひそめて言った。
「橋の上にあった。投身自殺するときに靴を揃えて脱ぐのって、なんなんだろうな」
スリッパの足の甲にあたる部分にそれぞれ「柳」「奏」と書いてある。
「たぶん、病院で使っていたんだと思う。自宅用のスリッパに苗字から名前を書くってことはないだろうし」
いつ切ったか定かでない伸びきった髪。
外歩きには向かない、部屋着風の服装。
(最初の推測の通りの事情ってことか……? なんなんだよ。死ぬ人間になんか見えないんだよ、柳奏)
引き返せ。
心の奥底で、声が聞こえる。この先に踏み込んでしまうと、何かよくないことが起こる。
予感がする。
「樒さん、これ、どうしてうちに」
香織もまた声をひそめて尋ねると、樒はにこーっと笑った。
「香織が川に飛び込むの見えたから。その後無事に出て来たのも。とりあえず急ぎじゃないと判断して、店の営業してた」
脱力しそうな言い分に何か一言いいたくなったが、耐えた。後回しにしたにせよ、橋を調べてスリッパを拾ってきたのだから、気にしてはいたのだろう。
「あの、香織さん」
その樒の背後から名を呼ばれて、香織は目を瞠った。まさか、と。
ひょこっと顔を出したのは、春物らしいベージュのトレンチコート姿の光樹。
「なんでいるんだ」
「いや……、スリッパ拾ったの俺なんだけど。そこで樒さんと会って。あ、うちの親と樒さんの親が仲良くて知り合いで」
(知ってる)
光樹のたどたどしい説明に口を挟むことなく無言で聞いて、「それで?」と香織は先を促した。
「柳先輩、いまここにいるの……?」
(頭痛い)
まったく無関係で首を突っ込んでくるとは考えにくく、何かあるとは思っていたが。
よりにもよって、お前の知り合いか、というやるせなさで唇をかみしめた。
「いるけど。なんか家帰りたくなさそうにしてて。こっちは事情全然わかんねえから、話にならなくて」
光樹を巻き込むな。
胸が息苦しく、動悸がしている。自分も関わらない方がいいし、関わらせない方がいい。
(光樹に何かあったらどうする)
悪い予感しか、しないのに。
「俺が説得できるなんて思わないけど、話すだけなら。家、上がっていい?」
控えめな態度ながら、光樹の声が明らかに弾んでいる。
それほど鋭いつもりもないが、これはただの知り合いというか、と察した。
「……うん。居間にいる」
それでいて、追い返す言い訳も思いつかず、そんなことを言ってしまう。
「本当に古くて純日本家屋って感じ。俺、こういうの興味ある。おじゃましまーす」
光樹がスニーカーを揃えて脱ぐ。ぼんやりと見ていると「香織さん?」と声をかけられ「うん」と返事をした。
救いを求めるように樒に目を向けると、なぜかいつも通り微笑まれた。
その挙句、のんびりと言われた。
なるようにしかならないし、なるようになるでしょ、と。