粉雪の舞う夜
「さて、帰るか」
お茶を飲み干したタイミングで岩清水大豪が口火を切った。
ほぼ同時に椿香織が席を立つ。
「いま、車まわしてきます。心愛ちゃんも送るから、暖かい所で待ってて」
新幹線での東京帰り、駅の駐車場に車を置いていた香織の運転で心愛を家まで迎えに行き、「海の星」に来た。店からの帰りも各自送ると香織は言っていて、飲酒もしていない。
宣言通りさっと個室を出て行き、残された心愛と明菜はゆっくり席を立った。
「ヒールが危ないから、心愛寄らないでね。転んで巻き込んだら大変だから」
明菜は両手を前に突き出し、よろめきながらも距離を取る。
心愛はといえば「明菜も帰るの?」ときょとんとした顔で言った。
「帰る以外にどうすれば」
明菜が真顔で聞き返すと、心愛はさらに不思議そうな顔をした。
「春さんと全然話してないんじゃない? いいの?」
春さん。
何気なく出された名前に、気持ちがざわつく。
「忙しいところ邪魔しちゃ悪いから。今日はお料理も美味しかったし、十分楽しかったから、もう」
帰ります。
そこまで言うつもりだったのに、大豪の視線に気づいてしまう。
銀髪に日焼けした肌、片手には心愛の大振りの花束。アルマーニのダークブルーのスーツを着こなして、伊達男ぶりが素晴らしく様になっている。
血縁だけあって、少し由春に似ている。由春もその年代になれば、間違いなくこのくらいカッコイイんだろうな、と妄想を刺激されてしまって、慌てて打ち払う。
一人で無駄に焦る明菜に、大豪が笑みを深めた。
「頑張っていたみたいだし、ご褒美くらいあげてもいいんじゃないか」
笑い皺の刻まれた顔。普段の眼光の鋭さが和らいで気さくな印象になる。
明菜は落ち着かなく目を逸らしながら、「そうですね」と一人納得したふりをしてみた。
「東京でチョコ買って来たの、忘れないうちに渡さないと。ご褒美っていうか、お土産ですけど」
バレンタインチョコを買っていたのは把握されている。それなのに「お土産」と、つい予防線を張ってしまった。
大豪は爽やかに笑うばかりで、自分の往生際の悪さが際立つ。
「今日の明菜、すごく綺麗。もったいないよ。春さんも本当はそわそわしていると思うよ」
心愛まで、楽し気に笑っている。言い返そうとしながら、ふと気配を感じて入口に目を向けると、コックコート姿の由春が姿を見せていた。
「佐々木。椿の車がついている。外、少し凍っているから足元気を付けて」
由春の視線が心愛に通るように明菜は少し立ち位置をずらした。その明菜を、由春は見ない。
「ありがとうございます。今行きます」
心愛が答えると、その横に大豪が立つ。
「遠慮なく掴まっていいぞ」
「叔父貴、俺が」
由春が口を挟むも、心愛はそばの大豪の腕に手をかけた。
「お願いします。春さんは明菜。ヒール、全然だめみたいですよ?」
言うだけ言って、明菜の前を素通りすると、二人で連れ立って出て行ってしまう。
個室内に残された明菜。ドアの前に立つ由春。視線を合わせるでもなく。
微妙な距離。微妙過ぎる空気。
「あの。先にどうぞ」
由春を促してから、俯く。自分の足元を見ているふりをしながら。
ふっと光が翳った。
「歩けない?」
「……見抜かないでください」
改めて口にされると、恥ずかしい。
早く行ってくれないかな、と願いそうになる。
「見送り間に合わなくなる。行くぞ」
(だから、無理)
そう思った瞬間、軽く片腕で抱き寄せられた。
「その服、似合っているけど。寒くねえの?」
ふわっとした温もりと、触れ合った腕や肩の引き締まった固さが布越しに感じられて、声の振動もダイレクトで緊張する。
「少し寒かったですけど。食事にかける意気込みでもあって、別に嫌なわけじゃないんです。馬子にも衣装かもしれませんが……」
あはは、とおかしくもないのに笑ってしまった。途端、由春が腕に力を込めて来た。
「似合ってるって言ってるのに」
不機嫌と怒りが等分みたいな低音で囁かれて、気分的に追い詰められる。
それとなく腕を突っ張って由春の身体を押し返し、明るく言った。
「腕を貸してもらえれば十分です」
言いながら、片腕に手をのせる。
了解したとばかりに由春が無言で歩き出した。
(喧嘩しているわけじゃないのに……、どうやって話せばいいのか全然わからない。彼氏彼女ってなに? というか、この関係は、彼氏彼女なのかな?)
ほんの少し触れ合うだけでも異常に緊張して、目も合わせられなくて、ぎこちない。
彼氏彼女というのは、本当にこれで良いのだろうか。
* * *
「椿、俺も乗せていけよ」
粉雪が降る中、正面に停めた車に向かいがてら西條聖が香織に絡む。
「お前まだ仕事中だろ? ヒロさんとこの後飲むから、終わってから来いよ。伊久磨と藤崎さんは?」
和やかに会話しながら、ホテルのバーラウンジの名前を告げて帰って行った。
明菜が車に乗らないのは総員の了解事項のようだった。
(本当に帰っちゃった……どうしよう)
「ヒロさん、ホテル暮らしだって言ってましたよね。岩清水家に近づくとラグナロクだし」
最後の客だったらしく、見送り終わった伊久磨が伸びをしながら言い、横でエレナが「寒い」と自分の肩を抱きながら足早に店内に急ぐ。聖が続いて、その後に由春の腕に掴まったままの明菜。
どうしようどうしようと思っているのを見越していたように、由春にぼそりと「今日俺車で来てるから。家まで送る」と言われる。
靴が違っていたら歩いて帰れた気もするが、何しろ今日は歩くのに向かない状態だ。
もう素直に甘えてしまおうと割り切って返事をする。
「お願いします」
ドアを通過すると、待っていた伊久磨が鍵をかけた。
「やっぱり夜は冷え込みますね。早くラーメン食べよう」
明るく言いながらキッチンへ向かって行ってしまう。
見送ってから、由春が「食う?」と声をかけてきた。
「さすがにお腹がいっぱいなので遠慮します。どこかで待っていますね」
「いま一番温かいのどこだろう。事務室も暖房入ってないから、個室かな。寒いようだったらコート着て待ってると良い。何か飲むか?」
「飲むのも大丈夫です、お構いなく」
並んで歩いているせいで、視線を合わせることもない。
まっすぐ個室まで送り届けられた。テーブルは綺麗に片付いていて、ソファに腰かけて待つ。
(お店の皆さんと少し話したかったけど。まだスタッフでもないし、出過ぎない方がいいよね)
アンティークっぽいシャンデリアを見上げて、溜息。
スマホでも見て待とう。
そう思ったところで、記憶が途絶えた。
* * *
目を開けて、しばらく状況を考えてみた。
(寝てた)
見慣れない床。角度的に、ソファで横になっていると理解。
少しお酒が入っていたせいかとは思うが、気が緩んだ瞬間にこの有様。
おそるおそる体を起こしてみると、動きに沿って毛布が肩から滑り落ちる。
周りを見回せば、食事用のテーブルに向かい、椅子に座っている由春が見えた。私服に着替えているようで、カーキ色のモッズコートを羽織っている。横顔は、目を瞑って寝ているようだった。
(いま何時……!? 全然わからない、どうしよう!)
スマホを探して慌てているうちに「ん」と呻き声が耳に届く。何やら絶望的な気分になりながら、由春の方へ今一度目を向けてみた。
「ごめんなさいっ。すっかり寝てたみたいで」
「いま一時。帰るか?」
テーブルの上に置いてあった自分のスマホ画面を表示させて、由春が聞いてくる。
「一時!?」
ソファを漁ってスマホを見つけて、自分でも確認する。「今日まで東京? 明日帰るときは連絡してね」と母親から連絡があったのが一時間以上前。帰らない理由は勘違いで終わっているようだが、帰っても寝てしまっているだろう。
返事を待っていた由春が、ちらりと視線を流してくる。
「どうする」
「あの……鍵持ってないんです、家の。もう寝ちゃってるんじゃないかな……」
「このまま寝て行くか。ここで」
「すみません。こんな迷惑をかけてしまうなんて」
素直に言ったところで、由春が立ち上がる。歩み寄って来て、ソファの隣に腰を下ろした。ぎしっと重みと勢いの分座面が沈み込んで、心臓が跳ねる。
もぞもぞするだけで何も言えないでいると、肘掛に肘をついて前を向いたまま由春が低い声で言った。
「今日、俺のこと避けてただろ」
「春さんこそ。私のこと見ないですよね?」
わずかに視線を流してきた由春は、不承不承といった様子で呟いた。
「叔父貴の趣味が良いのが、わかるけどむかつく。服も髪も似合ってる。明菜が俺のだってわかってて、そういうことするのが。手ぇ出すなっての」
手を出す? ときょとんとしてから、明菜は慌てて言い募った。
「出されてない、出されてない。そこは誤解しないで。たしかに、ヒロさんは何をしても様になるし、カッコイイひとだとは思うけど、そういうのは一切」
あっという間に距離を詰められて、伸ばされた腕に掴まって胸の中に閉じ込められる。
「他の男の話をする場面じゃない」
「他の男って、ヒロさんですよ?」
「だめ。許さない。俺が明菜を見ないのは、帰したくなくなるからだよ。今から口説いていいのか? はっきり拒否しないと、朝までこのままだぞ」
ぎゅうっと腕に力を込められて、言葉以上に気持ちが伝わってきてしまう。
くす、と小さく笑って明菜は少しだけ力を抜いた。由春に体重を預けて、勇気を出して言う。
「朝までここに置いて頂けると大変助かります」
「わかった。帰さない」
即座に返事をしてから、由春は空いている方の手で眼鏡を外した。そのまま明菜に渡してくる。受け取りつつ、これは? と不思議に思ったところで頬から顎を掌で包み込まれて、由春の方を向かされた。
眼鏡越しではない瞳。
「見えてるんですか」
「この距離なら。寝顔も可愛いけど、起きてる明菜が好きだよ」
眼鏡があるとぶつかるから、という囁きを最後に唇を重ねられる。
明菜は目を閉ざして腕を伸ばした。抱きしめ返すように。
粉雪の舞う深夜。二人の時間はようやく始まったばかり。