巡る季節に
西條聖の料理には、緑色が多い。
特別コースのメインは舌平目の塩焼き。一見地味に見えるが、魚料理を得意とする由春の精髄。
付け合わせは聖の発案だと、見ただけでわかった。セロリとアスパラを帯のように飾り切りしてタルトに合わせている。ソースは梅肉ベース。
綺麗で透き通るような、緑色。
聖は、野菜やハーブの使い方が抜群に上手い。春や夏になればその本領は遺憾なく発揮されそうだ。
もしイメージカラーというものがあれば、聖は瞳の青よりも何よりも、皿に現れる「緑色」。
(西條さんに寄り添って、その料理にインスピレーションを与えているのは、亡くなった常緑さんじゃないかと思うのはこういうときかな)
料理は、人というならば。生き様そのものが、隠しようもなく現れる。
「ありがとうございます」
最後の仕上げを終えるのを待って、皿を受け取る。五人分、由春が「俺も行く」と言ったので二人で分けて持つことにした。
「ピアノ演奏に合わせて個室が料理を遅らせていたから、ラストだな。戻るの少し遅くなるかもしれないから藤崎のフォローを」
由春が聖に声をかけた。ホールのテーブルはどこも終盤で、デザート中かデザートを運べば終わりとなる。
(個室……!)
今さらながらに伊久磨が少しだけ焦ると、由春が眼鏡越しに睨みつけてきた。
「光樹だろ。五人目。ピアノに合わせて料理止められればさすがにわかる」
「わかります、か。そうですね。ごめんなさい」
「あとで殺す」
「謝ったのに」
いつもの会話を交わして、個室のドアは伊久磨が開けた。「シェフ、先に」と促して後に続く。
タイミングを合わせて二人で皿を配り終え、伊久磨は由春のやや後方に控えるように立った。
「メインの舌平目の塩焼きです。どうぞ」
由春がさらりと言い、テーブルを囲んでいた五人がそれぞれフォークやナイフを手にして食べ始める。
「あ、すごい。身が魚っていうより、肉みたい。普通の焼き魚と全然違う。どうなってんの?」
香織が一口食べて、由春に水を向ける。
大豪は黙々と食べている。そちらを一瞬だけ気にしてから、由春が口を開いた。
「活け締めした舌平目を四日間熟成させて、提供する一時間前に捌いて塩を振り、常温に戻して炭火で焼いています。歯ごたえや旨味が違ってくるので」
由春が言い終えたところで、大豪が顔を上げた。
「三十点」
辛。
(辛すぎっ)
無言のまま、伊久磨は顔をしかめそうになる。由春の表情を窺おうにも、位置的に顔が見えない。
「三十点満点……」
その由春がぼそりと呟いて、「あほ」と大豪に却下されていた。三十点は三十点らしい。
「うまいのはうまいけど、気負い過ぎ。俺は喧嘩しに来たんじゃなくて、食事しに来てる。美味しいとか楽しいより先に『認めさせてやる』ってお前の我が出過ぎ」
咄嗟に、由春は返事をできなかったらしい。
大豪は座った位置から由春を見上げて、その目を見るようにしながら言った。
「地方で店を開く意味。東京と同じ食材、同じ製法じゃ世界からここまでお客様を呼べない。どうするかといったときに、土地のものを取り入れて、そこでしか食べられない料理を作らないと、とは言われているが。お前はその正論の範囲でしか作っていない。どの皿にもきちんと地元の食材が使われている。なおかつ、お前が修行してきた店の系譜を継ぐ正統な料理を、自分なりに作っているように見える。それでいて、活け締めなんて技法を取得しているところに努力のあとも見られるし……」
すらすらと語られることを聞いている限り、伊久磨としては(百点じゃないか。そんな料理人が地方で店を開いていてくれたら、地元のお客様にも生産者さんにもいいことづくめというか)とよほど口を挟みたくなったが、耐えた。
「見せたい食材や技があることは伝わってきたけど、これは自分が食べたいものなのか。誰に食べさせたい料理なのかっていう。どうなんだ、由春」
少し間を置いてから、由春が硬質な声で問いかけた。
「喧嘩になってましたか」
「まぁな。神経が張りつめていて、楽に食うのを許さない感じ。客も用向きもわかっていたはずなのに、客を見ていない。自分を見せる方に気を取られている。お前の客は俺だけじゃないぞ」
(そもそもの予約者は佐々木さんで、用向きはお疲れ様会。そこにヒロさんが割り込んできたからそっちに気を取られていた……のは、あると思うけど。「俺を意識しすぎ」みたいな言い草はどうなのかな)
意識しないわけにはいかないだろう、自分を誰だと思っているんだ。少なくともこのメンツに混ざって食事するのは完全にイレギュラーな存在だろう、と。
伊久磨としては思うところもあったが、言えない。
勝手に意識したのはそっちで、お客様の用向きより重んじた言い訳にはならないぞ、と言われそうだ。
「話は以上だ。戻っていいぞ、忙しいだろ。あ、そうだ」
皿に向き直ってから、大豪は思い出したように付け加えた。
「もう一人いたな。西條聖だろ。あいつは面白い。この後、あいつ何をするつもりなんだ」
「引く手あまただとは思いますが、本人は店を出すつもりみたいです。故郷の札幌に戻るか悩んでますけど、この辺でも物件探してみるとは言ってました」
香織が、食事の手を止めて由春に視線を流した。知らなかった、という様子。
(西條さん、そうなんだ……)
そうだったらいいなとは思っていた伊久磨も、実際に耳にすると心臓のあたりがざわつく。
店を開いてもうまくいくとは限らないし、何年続けるかもわからない。だが、今すぐ別れにならないかもしれないというのは、素直に嬉しい。
「なるほど。西條、西條……。俺も気に留めておく」
もういい、と言うように話を打ち切ると、大きく切った魚を一切れ口に放り込む。
由春が背を向けた瞬間「うまいな」と呟いていた。
肩で風を切るように、由春は退室した。
* * *
「客席に親父がいたんだけど……ッ。聞いてねえしッ。普通に飯食って……リクエストまで!」
メインを食べ終えた光樹が、個室を出てきて伊久磨につっかかる。
「お父さんのリクエスト曲ってパッヘルベルのカノン? あの辺でようやく普通のレストランに戻った」
思わず伊久磨が噴き出しつつ言うと、光樹は眉を寄せたまま「伊久磨さんは」とごく小さな声で言った。
「俺?」
「リクエスト!」
笑いを収めて、曲名を告げる。
光樹と入れ替わりに、個室に足を踏み入れた。ドアは開けたまま。
紅茶とコーヒー、心愛にはデカフェのコーヒーを配りながら、伊久磨は明菜にさりげなく声をかける。
「明菜さんの選曲には驚かされました。どうして『剣の舞』だったんですか」
「んー……。ハルさんがそういう感じかなと思って。だめでした?」
最後はこそっと尋ねられて、伊久磨は少しだけ考え込んだ。
それから、小声で問い返す。
「明菜さん、『おもてなし』の語源って聞いたことあります?」
試すつもりではなく、雑談。
明菜は軽く目を瞬いてから、同じく小声で答えた。
「『思ってもいないことを成す』と聞いたことがあります。諸説ありそうだから、違うかも」
「はい。当たり外れというより、自分もそれは聞いたことがあります。『剣の舞』は思ってもいないことでしたけど、反応を見る限り、嫌だったお客様はいないと思います。その意味では明菜さんのセンス、凄いなって素直に思いました」
明菜は「ん?」と楽し気に言った。
「褒められてますか?」
一瞬迷ってから、伊久磨は正直に告げた。
「お客様が、このお店を出るときに『今日来て良かったな』って思ってくれたら、成功だと思います。あの曲で良かったと、俺は思っています」
その時、ホールからピアノの調べが響いて来た。選曲は「春よ、来い」。
柔らかな歌声のように、優しい。風が胸の中に吹き込んでくる。
――今日思い切って来て、本当に本当に良かった
未来のマダムが仕掛けた選曲が功を奏して、心動かされたひとがいるのを知っている。
きっかけがなければ、あの一言は出てこなかったかもしれない。
(料理やピアノで、ゆかりの気持ちが軽くなって、話が出来た。それは俺も同じ)
心に刺さっていたいくつもの棘が抜け落ちたかのように、目の前の霧が晴れて、急に呼吸がしやすくなった。
まるでゆかりの明るい気持ちが、自分の内側にまで染みこんできたかのように感じた。
「椿屋さんで職人を新たに採用する? 調理師学校に募集かけているんですか?」
「悩んでてさ。さすがにいまの時期に就職決まっていないのは、決まっていない理由がある子しかいないって言われて。春からの新卒採用したかったんだけどね」
心愛の質問に香織が答える。声を上げて笑った大豪が「俺はどう?」と言って、香織は「絶対に嫌です」と満面の笑みで拒絶していた。
季節がめぐって、冬が終わり、春が来る。
ピアノは歌い続けている。目を瞑れば薄紅色に霞んだ桜の幻想。瞼の裏が鮮やかに染まる。
ホールの音がよく聞こえるようにと開け放たれたままのドアから、デザートプレートを持ったエレナとオリオンが現れた。
バレンタインを意識したチョコレートとタルトタタンを合わせた皿に、心愛の分だけお疲れ様の文字。
思わぬサプライズに黙ってしまった心愛に、オリオンが照れ臭そうに笑った。
「日本語で書こうとしたらすごく下手な字になっちゃって」
「ううん、そんなことない。嬉しい……」
そろそろ退店する客がいるかもと気にしたエレナがホールに戻って、入れ替わりに大きな花束を持った由春が現れて心愛に差し出した。
「佐々木、お疲れ。今日までありがとうな。元気な子供を産むように。叔父貴も立ち退きを迫る気はなさそうだし、皆でここで待っているから」
それとなく大豪に釘を刺す由春。花束を前にして動きを止めていた心愛は、一度俯いてから顔上げた。
にっこりと笑って由春を見つめる。
「ありがとうございます。蜷川くんと、明菜と、待っていて頂けると嬉しいです。なるべく早く復帰したいので、よろしくお願いします」
ピアノは鳴り続けていた。