君を許す
明菜さん、どうして。
――アラム・ハチャトゥリアン 「剣の舞」――
光樹の指が、鍵盤の上で舞う。
高音で跳ねて、低音を叩きつけるように打鍵する。ズダダダダダダダンンッという衝撃、まるでアスファルトを削るドリルを脳髄に突きつけてスイッチを入れられたかのような振動。
理屈をかなぐり捨てた、力業。
舞台の幕が上がったように、空気が変わる。何もかも吹き飛ばす。
(明菜さん、食事時にこの曲をセレクトするセンスで、「海の星」のマダムが務まるんですか……!?)
観葉植物に囲まれたアップライトピアノの前に座った光樹は、まるでその向こう側の何者かと音楽で喧嘩するかのように鍵盤を叩き続けている。力強く、勇猛果敢。
暗黒ピアニストの面影もなく、魔王に立ち向かう勇者のように決然とした後ろ姿。
角度を変えて横顔を見る。ここではないどこかを見つめる強いまなざし、奥歯を噛みしめたかのような唇。静香にも香織にもどこか似たその面差しに浮かんだ勝気そうな、光。不敵。
ホールに立った伊久磨は、ぐるりと周りを見回す。
食事中の客たちが手を止め、会話もやめてピアノに耳を傾けている。
無視できない。
(一音ごとに心臓をガツンガツン叩かれているみたいな。ドキドキする)
キッチンに足早に戻る。
聖と由春から鋭い視線を向けられる。それも一瞬。聖が風のようにキッチンを横切り冷蔵庫に向かう。由春は出来上がった料理を差し出してくる。ひりついた空気。
由春は眉間に皺を寄せていたが、やめさせろとは言わない。
(聞かせるための曲。弾き手としての一線を守っている)
光樹の音。迷走しておらず、目的が定まっている。闇を払いのけて、突破すべき一点を見据えて、奏でている。
この曲を聞きたいとリクエストした相手を思って、弾いている。
受け取った皿を手に、ホールに戻る。圧倒的な音の洪水。呼吸もしづらい。短い曲で良かった。
弾き終わって、数秒。鍵盤の上で指を静止させた光樹は、ふっと息を吐きだして身体ごと振り返る。
ぱらぱらと拍手が上がり、そちらに目を向けた光樹はにこりと笑った。老夫婦。演奏用の椅子から立ち上がってそばに歩み寄り、「もしよろしければ何かお好きな曲を」と声をかけていた。
曲目はあらかじめ決めていたのだ。光樹のこれは打ち合わせにはない行動。伊久磨はひとまず黙って見守ってみた。老夫婦はにこにこと笑み交わし「いまのすごかったねえ。何をお願いしようか」と空気は和やかな様子。
光樹の視線が一瞬、伊久磨に向けられる。細めた目に、悪戯っぽい光を閃かせて。
(この野郎。やりやがったな)
軽く睨みつける。光樹の唇に、してやったりの会心の笑みが浮かんだ。
アドリブですれすれ、大胆不敵で危な過ぎる。それが単純な反発心ではないのがわかってしまって、(この野郎)という感情に結びつく。
まるで、キッチンやホールの浮足立った空気を看破していたかのようだ。光樹なりに、自分の領域から変化を起こそうと立ち向かっている。
身を翻して、ゆかりの席へと向かう。
底の深い白の皿に、真っ赤なスープ。中央に雲丹。赤系統のエディブルフラワーが散らしてある一品。
目の前に置いた瞬間、その色彩の鮮やかさにゆかりが息をのんだ。
「『三陸のブラッディ・メアリー』トマトとウォッカをミックスした雲丹の冷製スープを、雲丹と一緒にどうぞ」
伊久磨が慇懃に説明をすると、指を組み合わせて「すごい綺麗」と感嘆の声をもらした。
「料理が本当にすごい。一品目から見た目も綺麗で、食べても美味しいの。ひとりでレストランなんて、本当はやめておこうかって思っていたけど、来て良かった。それと、ピアノ」
料理への賞賛は心地よく受け取っていた伊久磨であるが、ピアノの一言には若干緊張した。
「どうでした?」
慎重に尋ねると、ゆかりはふふっと声を立てて笑う。
「すっっごくかっこよくて、立ち上がって見ちゃった。シェフじゃなくて、さっきの男の子だったね。高校生くらい? あんなにピアノ上手い人、初めて生で見たから震えがきたよ」
(……技術でねじ伏せやがった)
食事をする場としての「海の星」に似合うかとか、そういうのを全部。弾く為に生まれた指で奏でる音が、空気を染め上げた。
「ありがとうございます。本人に伝えて……」
言いかけた伊久磨は、近づいてきた人影に気付いて思わず口を閉ざす。
「こんばんは。『本人』です」
(おい)
心でつっこみ、顔をしかめた伊久磨に一切構うことなく、光樹はゆかりのテーブルに歩み寄る。
「曲の希望を聞いてまわっているんです。リクエストはありますか?」
「うっそー!? 弾いてくれるの!? 嬉しい!! なんでもいいの?」
「もちろん。知らない曲でも耳コピである程度いけるので、曲名とアーティスト名を頂ければ」
抜群の笑みのまま伊久磨の隣に立って、さりげなく肘をぶつけてくる。ぶつかったのではなく、明らかにやる気でやっていた。
「えーとね、じゃあEveの……」
乗り気のゆかりはいそいそとスマホを取り出し、動画を検索して光樹に差し出してくる。伊久磨も隣から一緒に覗き込んでみた。ごくボリュームを絞って再生された瞬間、光樹が頷いた。
「あ、大丈夫。これわかります。俺も好きです」
「アニソン?」
伊久磨が言うと、光樹が触れあうほどの近さから、笑みを浮かべて視線を流してくる。
「知ってる? 伊久磨さんアニメとか見るの?」
「深夜アニメだよな。帰ってテレビつけると結構その時間で、そのまま見たり。これは俺でも知ってる。面白い」
普通に会話してしまってから、(いやいま仕事中……)と自己嫌悪と後悔ないまぜの感情に襲われる。
もっとも、お客様であるところのゆかりも気にした様子もなく、にこにことしながら言った。
「蜷川さん、結構なんでも好きですよね。学食で友達から借りた漫画積んで読んでて、昼前に見かけたまま同じ場所で夕方もそのまま読み続けていて『授業どうしたんですか!?』みたいな……」
思い出しながら自分が面白くなったようで、ゆかりが笑い出す。伊久磨は返答に詰まって無言になってしまったが、光樹がしずかに尋ねた。
「学生時代のお知り合いなんですか」
笑いを収めたゆかりは、いまだ明るい表情のまま光樹に視線を向けた。
「ええ。すごく久しぶりに会いました。元気そうで嬉しくなっちゃって。学生時代のノリでいっぱい話しかけちゃったんですけど、仕事中なんですよね。ごめんね、蜷川さん。仕事に戻ってください。本当はすごく忙しいんですよね」
言うだけ言って、スープに向き直る。
「冷める料理じゃないけど、話し過ぎちゃった。いただきます」
スプーンを持って一口。「んん~~~~、美味しい」と楽し気に言う。
視線が逸れた一瞬、真顔になった光樹はじっとその様子を見ていたが、不意に表情筋をぐっと動かすかのように力の入った笑みを浮かべた。
「食事中、お邪魔しました。順番に弾きます。お待ちくださいね」
顔を上げたゆかりは、光樹に尋ねる。
「嬉しい。楽しみです。あの、ピアノ演奏って毎日……?」
「そういうわけでは。今日はたまたまです」
伊久磨が答えると、ゆかりは唇をきゅっと持ち上げて心底嬉しそうに笑った。
「そうなんだ。今日思い切って来て、本当に本当に良かった」
光樹は頭を下げてから背を向けた。伊久磨の顔を見ないまま、伊久磨の腕を強く掴む。指が食い込むほど。ごく小さな声で「ゆるす」と呟いて、離れて行った。
(無駄に緊張した)
こっそり吐息していると、視線を感じた。ゆかりに見られていた。なんと言うべきか悩んで、本音が口をついて出てしまう。
「また、食事に似合わない曲をリクエストしてくれたな」
「聞きたかったんだもん。めっっっちゃ上手いピアノの生演奏でこの距離で聞けるってすごくない? 他のお客様だってそれぞれ希望を言っているなら、いいじゃない」
「それを言われると……」
流れを作ったのが明菜という、半分身内のお客様だと思うと、強くは言えない。
スープを一口飲んでから、ゆかりは一つ頷いてスプーンを置く。
座ったまま、伊久磨に向き直り、まっすぐ見上げてきた。
「蜷川さん。すごく元気そうで、安心しました」
「元気ですよ。見ての通り」
応えた伊久磨を、ゆかりはやや長いこと見つめていた。
「……何か」
「うん。私ね、蜷川さんが一番辛いときに、支えになれないで逃げちゃったじゃない? 放っておいたら死んじゃうかもしれないって、わかっていたのに。こわくて、逃げちゃった。どうやって受け止めたら良いのかわからなくて」
少しだけ早口で、まるで今を逃したら言えないと、焦るように。
実際に焦っているのだろう。
店員として微笑みを浮かべることを放棄した伊久磨は、まっすぐにゆかりを見下ろした。互いに無言。
真摯なまなざし。言葉にも、態度にも嘘が無い。
(馬鹿だな)
「受け止められなくて、当然だよ。あのときゆかり、何歳だよ。たとえ彼女とかそういう名目があったとしても、俺が抱えたものを受け止められる奴なんか世界のどこにもいなかったよ」
雪降る夜に手を差し伸べてきた、ただ一人以外。それができたのは椿香織、この世でただ一人。
目を逸らさないままのゆかりの瞳が滲むように濡れて、目尻がきらりと光った。
「蜷川さんなら、そう言うと思ってた。逃げた私を怒ってはいないだろうし……、興味関心すらないだろうなって。だけど私は」
瞼を伏せたが間に合わず、閉じた瞳から涙がこぼれ落ちる。
(その一言を言う為だけに。今日までずっと苦しんできたのか。本当に馬鹿だな)
「お客様の悪口はご法度だけど。滑川様をふった山本様、見る目がないな」
しれっと言うと、慌てて指で涙を拭きながら、ゆかりは噴き出した。
「どの口が言うのかな。私、ふられたの初めてじゃないんですけど」
「あっ。あー……」
そうだった、と言うように伊久磨が瞑目して顔を逸らすと、ゆかりが笑いを含んだ声で素早く呟いた。
「今の私、肩の荷がおりて結構安心してる。蜷川さん、そのまま幸せになってね」