暗黒が微笑む
――どことなく、光樹に似ているような、って感じですか? でも光樹が生まれたときってうちの親父とっくに死んでるし、その線はないですよね
(やばい)
香織が知っていることは、齋勝俊樹も了解している事実だろう。確実に。
光樹の件は(笑えない)冗談にしても、香織の存在は齋勝家にとってアルティメットBombのはず。出会い頭に笑顔で和やかな会話が始まるとは考えにくい。
もちろん、伊久磨としては将来的には今より互いに歩み寄る関係になって欲しいと願う気持ちはあるが。
今日じゃなくても、良いだろう、と。
緊張に頬を強張らせた伊久磨に、俊樹は気付いた様子もなく、手にしていた紙袋を差し出してきた。
「これはさっき取引先に持たされた。頂き物そのままで悪いが、店の皆さんでどうぞ」
受け取ってちらりと中を確認すると、前沢牛ラーメンの袋が見えた。伊久磨としては、ここで時間をかけると仕事に障ると判断し、断る押し問答を省略して、にこりと微笑む。
「お気遣いありがとうございます。こういうの、みんな好きです。仕事の後に頂きます。ひとまずお席にどうぞ」
相談せずに勝手に新規を取るのは心苦しかったが、もともとキャンセルも出ているし、やってやれないことはない、と結論付けて俊樹をホールに案内する。
「ピアノの近くに……」
「いや、いい。考えてみたら、光樹には私が来ていることは伝えない方がいいかな。素のままの演奏を聞いてみたい。仕事中にゆっくり食事というわけにもいかないだろうし」
俊樹が顔をほころばせ、どこか気恥ずかしそうに言う。それだけで、内心かなり楽しみにしているのが伝わってきた。
(素……、今日の光樹は暗黒ピアニストです。どう立ち直ってもらおう)
現状、何かすればするほどどころか、何もしなくてもこの場に存在して息をしているだけで裏目に出ている伊久磨である。
悩みつつ、俊樹をピアノから一番離れて死角になる席に案内した。音は十分に聞こえる。なおかつ、上手く配置された観葉植物が目隠しになっていて、隣の席の客とも目が合ったりはしない。
「お飲み物、今日はアルコールNGですね」
「そうだな。ガス入りの水で」
「かしこまりました」
承って、伊久磨は背を向ける。落ち着いて歩き出したものの、数歩進んでから駆け足になってキッチンに飛び込んだ。
「ご新規一名様、お通ししました!」
キッチンで立ち働いていた三人のまとう空気が、一瞬にして殺気に変わった。
(こわい。命とられる)
♥♥♥→♥♥♡
由春と聖から同時に一睨みされ、確実にライフが減った。
「ご新規?」
けぶる青の瞳を細めた聖の美声が、不穏な響きを帯びている。野獣化して噛み殺しにくる一歩手前。
「その紙袋はなんだ」
まだ少し理性を残した由春の問いかけに、伊久磨は手にしていた紙袋を軽く持ち上げる。
「ご新規様、光樹のお父様です。これは皆さんでどうぞって。ラーメン」
「ラーメン。ラーメンは良いな。というか、手土産まで用意してあるってことは、来るつもりだったんだろうな」
いえこれは、と言おうとした伊久磨であったが、言葉に詰まる。
徐々に(ああ……)と理解が追いついた。今日は頭が鈍い、と自覚した。
「そうですね。これ、わざわざ買ってきてくれたのかも。仕事帰りとは言っていましたが、奥様はいま東京ですし。どこか外で食事をとるとして、今日は光樹のピアノ演奏もあるし俺が東京に行ったことも知っていたから、『その御礼がてら顔を見に来た』という感じで、うちに来る理由はいくらでもありましたね……」
これは完全に、来るつもりで、来ている。
まったく予期はしていなかったが、考えてみればごく自然だ。
「オーダーは」
腰に手を当てて、由春が眼鏡の奥から視線を投げてくる。
無理を言っていると重々承知の伊久磨は、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。食材NGはありません。コースはお任せ頂いております。運転があるのでお酒は召し上がりません」
顔を上げて、すばやく必要事項を告げる。
やりとりを見守っていたオリオンが、ふわりと微笑みながら言った。
「今日は一名様の山本様席の進行が遅いから、アミューズとオードヴルを重ね出ししてしまえば、その後からタイミング合わせて同時に進行できるんじゃない」
それを耳にした聖が、ふん、と不満げに息をもらした。
「いっそキャンセルのお連れ様替わりに、山本様の席についてもらえばいいんじゃないか。料理説明も一回で済むし、別々のテーブルに座られるより全然効率が良い」
(山本様とお義父さんが一緒のテーブル)
それができたらもちろん効率が良いと思った瞬間、伊久磨は「うわ」と短く悲鳴を上げた。
敏感になっているキッチンの三人が同時にびくっと反応する。由春がすかさず「なんだよ」と忌々し気に言った。
「いえ……なんでも」
唾を飲み込んで、伊久磨はかろうじて返事をした。明らかに「なんでも」ではない表情に由春と聖が何か言いたそうな顔をしている。それに対して伊久磨は力なく微笑み返すにとどめた。
(香織に気をとられたせいで、完全に失念していた)
事態が頭に染み渡るにつれ、自分の間抜けぶりに痛々しさが募る。他にもテーブルが空いていたのに、なぜああなった、とまるで心臓が今まさに見えない手に握りつぶされるかのようにドキドキする。
元カノと婚約者の父親がいま同じ空間にいます。隣のテーブルで食事をしようとしています。
♥♥♥→♥♡♡
* * *
「蜷川、おかしいぞ」
個室とホールを見て戻った伊久磨に、たまりかねた聖が言った。つかつかと足音も荒く近づいてくる。
心を見透かすような青い瞳を前にして、伊久磨は素直に告げた。
「調子が悪いかもしれません」
「一発殴ろうか」
すでに右手で握り拳を固めて、左の掌にばすっと打ち込んでいる。
「それでどうして調子が出るって思ってるのかわかりませんけど、見えるところはやめてください」
伊久磨はごく冷静に言い返した。が、ステンレス台を挟んだ向こう側からオリオンが「きちんと拒否しなよ。ちょっと受け入れてる場合じゃないでしょ」と呆れたように言ってきた。
「お前、行動範囲広いから、陰気な状態で動き回られると、店全体のワット数が落ちるんだよ」
由春は由春で、言いがかりをつけてきている。
「もともとそんなに明るい店ではないですよね」
照明絞ってるし。
素で言い返して睨み合ってから、そんな場合ではないと気付いて視線を外す。
「その……、やはりお父様も来ていますし、光樹にはきちんと働いている姿を見せて欲しいんですよ。暗黒ってる場合じゃないというか」
「暗黒った原因、お前だよな?」
すかさず聖に言われて、伊久磨は「そうなんですけど」と食い下がった。
「そもそもが誤解なわけですし、どうにか立ち直ってくれないかな」
「まぁな。制御不能の才能ってのも考え物だ。今後のこともあるし……。なんだっけ、お前の元カノを浮気相手か何かと勘違いしたんだっけ?」
軽く説明してあった内容を繰り返され、伊久磨は「そうですね。今日はデートだったみたいなんですが、直前に相手にフラれたと落ち込んでいて。お客様でもあるし、強く拒絶できなくて」と言いにくい内容をなんとか口にする。
途端、由春が「拒絶しろ! あほか!」と声を張り上げた。隣でオリオンが「ハルハル~落ち着いて~」と宥めようとしている。
腕を組んで伊久磨を見上げていた聖は、溜息をつきながら言った。
「わかったよ。俺がお前の元カノをどうにかするから、お前は光樹をどうにかしろ。『あのお客さんは誰にでもああなんです』とでも言っておけ。五秒で落としてくる」
冴え渡った美貌に、にこっと笑みを浮かべて、宣言。
あまりにも凄絶な色気に息を止められつつ、伊久磨はなんとか口を開く。
「さすがにそれは本気の使いどころ間違えてませんか……!?」
落とすと言ったら、本当に落としそうで怖い。
苦笑いをしたままのオリオンが、少しだけ厳しい口調で言った。
「お客さんを弄ぶのはだめです。みんな自分の仕事をしよう」
「そうですね!!」
全力同意。色気にあてられている場合ではないと、伊久磨は軽く首を振る。
「個室、今のところお料理の受けもいいですし、会話も和やかです。皆さん立場は違えど飲食業という共通点があるので、ヒロさんと話も弾むみたいで。というか、ヒロさんの話が上手いんだろうなぁ」
なんとか本来の業務に戻ろうと集中力を高める。
そのとき、ふらっと光樹がホールからキッチンに足を踏み入れてきた。
伊久磨とは目を合わせぬまま、ぼそぼそと言う。
「あの……。ピアノ。そろそろ弾いていいかな」
仕事は仕事としてする気はあったらしい。包丁を手にしたままの由春が、低い声で言った。
「さっきみたいな演奏したらお前、わかってるんだろうな」
光樹はむすっとしたまま「わかってるよ」と呟く。
それから、ふと表情を和らげて由春を見た。
「シェフの彼女さん、すごく感動したみたいですよ。ピアノ弾くの知らなかったんですね。というか俺もびっくりです。ピアノ弾けるだけで女性を落とせるなんて考えたことなかったし」
にこっと笑っていた。うっすら暗黒を漂わせた微笑だった。
「いや……、それはまぁ……、べつに言う機会もなかったし」
妙に落ち着かない様子で、由春が目を逸らす。
(うわ。もぞもぞしてる。むずがゆい。なんだこのむずがゆさ)
少年感出してくるのやめてくれ! と心で抗議をする伊久磨をよそに、光樹が続けた。
「曲、彼女さんからリクエスト聞いてきました。今日は『明菜さん』のために弾きますねって言ったら照れてましたよ。喜んでくれるかな。あ、シェフは自分の仕事に集中していてくださいね。ピアノは俺に任せて」
ああ、うん……? とキッチンが曰く言い難い空気に包まれる中、光樹は伊久磨に視線を向けて低い声で囁いた。
「女の人落とすのって、そんなに面白いのかな。興味出てきた」
さっと身を翻すと、「行ってきます」と朗らかに告げてホールへと出て行った。
♥♥♥→