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ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
34 アンサンブル・キャスト
232/405

何かと痛い

 ちがいます。―― dying message――(by蜷川伊久磨)

 死にそう。


 * * *


「ええっ!? 言えば良かったじゃないですか、というか、なんで言えないんですか?」

 キッチンとホール席から死角になる、個室へと続く廊下にて。

 瞬間的に目が合って、話す時間がほんの少しあると踏んだ伊久磨が、にわかに慌ただしくなったキッチンの事情をエレナに打ち明けた。

 それを受けて、エレナはごくごく普通の反応を示した。

 キッチン勢の勘違いが走り出したとはいえ「違います!!」と声を張り上げれば良かっただけのことでは、と。

 どうして? なぜ? という疑問いっぱいの目で見られ、伊久磨は歯噛みするように呻いた。


「なんでと言うと……『様式美』とでもいうのかな。個室に増えたゲスト一名が光樹だろうが別の誰かだろうが、根本的なところで違いは無いので。確かにこのケースの場合、店側としては『増えるなんて聞いていない』と突っぱねることもできますけど、突っぱねても事態は何も変わりません。お腹を空かせたゲストが一名個室にいて、目の前で四人が美味しくご飯を食べられると思いますか。もし仮にゲストが光樹だとキッチンに伝わり『まかないパスタで良い?』という話になったところで、特別コースの四人とまかないパスタの光樹というこの不釣り合いな空気、光樹本人が良くても光樹を部屋に招いた人物の顔を潰すだけです。もうお客様が『一名追加』とオーダーしてその気になっている時点で『できません』という退路は断たれているんですよ。つまり、キッチンに光樹か光樹じゃないかを告げたところで特別コースを用意しないという選択肢自体がもうないので。やるしかないんです。だから言う言わないはたいした問題ではありません」


 おそらく途中からぼーっと話を聞き流していたエレナは、伊久磨が口を閉ざしたことに気づくと、冷ややかに言った。


「往生際の悪さ、今世紀最大級の言い訳ですね」

 うっ、と伊久磨は胸をおさえる。特に容赦するつもりのないエレナが追撃する。

「言い出せなかったこと、ものすごく正当化していますけど、こじつけもいいところですよ。大丈夫ですか蜷川さん。今日ちょっとおかしいですよ。さては綺麗な女性にちやほやされて、脇が甘くなってるんじゃないですか。いけないなぁ。静香さんというひとがいるのに。光樹くんが気分悪いのもわかる。私が同じ立場でも『無い』って思いますね。間違いなく」

 氷点下、ブリザード。

 目を細めたエレナから、雪女もかくやという冷気。

 伊久磨は、あまりの寒気に唇を震わせながら、エレナを見下ろす。

「ふ、藤崎さん……?」

 明らかに、つっかかられている。とはいえ、身に覚えがあるだけに言い返せない。胃が引き攣れるようにぎりぎりと痛んだ。


(不可抗力とまでは言わないけど……。「お客様」である以上、無視するわけにもいかない。これが、女性店員につきまとう男性客だったら出禁にするけど、ゆかりはなんというか)

 そこまで深刻な問題ではないはず。少なくとも伊久磨の認識では、「危険人物」ではない。

 何かあるとしても、実害は自分にしかないし、自分に降りかかる火の粉くらいは払えなければ。仮にもホールの責任者の立場で、逃げるわけにはいかない。接客は、する。

 そういった理屈は思い浮かぶ。

 口にすると、また「史上最大、空前の言い訳」くらいの文言にねじ伏せられそうで、言いにくい。

 伊久磨が落ち込んだ空気を感じたのだろう、エレナが苦笑をもらした。


「そこまで凹まないでも。言っていること自体はわかりましたよ。料理を用意できなければ香織さんの顔を潰す、あちらの岩清水シェフには『その程度』と思われる。事故みたいなものですけど、状況が出来上がってしまった以上、ゲストが光樹くんだと伝えても料理を用意することに変わりはないということですよね。変わらないならむしろ言わない方が緊張感が続いて良いって判断でしょうか」

(よく言えばそうですけど、なんで言わなかったかはバレた時点でごく普通に怒られます)

 この先同じ状況になっても、藤崎さんはこんなミスだめですよ、とよほど言いたかった。どのツラ下げて「お前が言う(おまゆう)」感が凄まじく、時間を置いてほとぼりがさめてから言うことに決めた。


「たしかに、今日の俺、だめですね。せっかくの佐々木さんのご予約なのに。あ、胃が痛くなってきた。気持ち切り替えないと」

 顔をしかめて、軽く腹部を手でさする。

 苦笑いを和らげて、エレナは伊久磨の手の甲すれすれの位置に自分の手を近づけるとすばやく囁いた。


「痛いの痛いの、飛んでいけ。……なんちゃって」


 柄にもないことをした、と急に我に返ったらしい。恥じらうようにてへっと笑う。その表情が普段のエレナとはまた違って抜群の甘酸っぱさで、伊久磨もつられて「あはは」と軽い笑い声を上げてしまった。

 それから、ふとエレナが凍り付いていることに気付く。

 笑った空気のまま、伊久磨は明るく言った。

「そこまで後悔しなくても。いまの可愛かったですよ。痛いの、ひいた気が……?」

 伊久磨と目を合わせないまま、ふるふると首を振られる。顔色が悪い。

 不意に、ひやりとした冷気を感じて伊久磨は肩越しに振り返った。目が合った。

 目が。

 見られていた。


「……光樹」

 ※目にハイライトなし。


 * * *


「一名様に変更の山本様のお席、料理説明はどんな感じだ。前菜(オードヴル)に変更が入っても大丈夫か。伊久磨?」

 全力落ち込みでキッチンに入ってきた伊久磨とエレナに、由春が眼鏡の奥で目を細める。


「どうした? 何かあったのか。二人ともおかしい。お客様は大丈夫か?」

 ホールで致命的なミスでもあったのかと。

 オーナーシェフの厳しい問いかけに、顔色が悪いまま伊久磨が答える。


「特に問題ありません。山本様のお席に関しては、ご予約時にも料理の細かい問い合わせはありませんでしたし、NG食材もなしです。料理はすべてお任せ頂いています」

「そのしけたツラどうした。何かあったならフォローに入るから、早く言えよ。隠すとろくなことにならない」

 隠すと、ろくなことにならない(本日の金言 by岩清水由春)。

 くっと奥歯を噛みしめた伊久磨に、由春はなおも何か言おうとしたが、オリオンが「アップルパイ焼けたよ」と声をかける。


 特別コースの前菜(オードヴル)。真空パックにして高温でしっかり熱を入れた毛ガニの身をほぐし、サラダに。サクサク生地で熱々のアップルパイと合わせる。林檎の甘みと酸味がカニの風味を引き立てる一品。

 個室の四名分と一名の山本様席分で焼き上げていたアップルパイを、個室の特別コース五名分にスライドさせるらしい。

 聖がサーモンとアボカドのマリネに、焦がした桜の木片(チップ)を合わせてガラスのドームで煙を閉じ込め、瞬間燻製を作っている。一名分。

 ディシャップ台のオーダーシートと、すでに仕上がっていた前菜二名分を確認してエレナに声をかける。


「榎本様席のポワロ―です。藤崎さん」

「行きます」

 さっと歩み寄ってきて皿を手にしたエレナが、すれ違いざま伊久磨に沈痛な横顔をさらして言った。

「本当に、ごめんなさい」

「俺の方こそ」

 最小限の会話を交わし、エレナは出て行く。

 手早く皿にアップルパイを並べ、常温の蟹をのせながら、由春が「なんだよ」と今一度呟いた。

 伊久磨は「ぶつかっただけです。二人とも皿を持っていなかったので、被害はありません」と強引に話を切り上げて、聖から上がってきたサーモンを手にした。

「ありがとうございます。行ってきます」


 ゆかりのテーブルに着くと、簡単な料理説明とともに皿を差し出す。

 何か話したそうにしていたが、「どうぞ」と有無を言わさぬ笑みで押し通しさっと背を向け、キッチンへ戻ろうとした。光樹が加わった一件があったせいで、個室の進行が若干遅い。気になる。

 そのとき、エントランスでドアベルが鳴った。

(予約はもう入り切ってる。飛び込みか?)

 今日は席はまだあるが、通すかどうかはキッチンと相談が必要だと思案しつつ、足を向ける。


「いらっしゃいませ。おっと」

 ドアを開けて入ってきたのは、見知った男性。長身で、姿勢の良い立ち姿の齋勝俊樹。

「お父様。どうされました?」

 家族連れでお客様として店に来たときの印象が強かったため、「そのつもりで」呼びかけてしまったのだが、俊樹には苦み走った笑みを浮かべられてしまう。

「気が早いな、蜷川さんは」

(気……あっ)


 お義父(とう)さん。


 おそらく、俊樹の耳にはそう聞こえているのだろう。そういうわけではなくてと言い訳をしたいが、堪える。今日は何かと、言い訳しすぎている。

(べつに怒られたわけじゃないし)

 どちらかというと、照れているようだ。伊久磨までつられて照れてしまう。

 二人で妙な空気になったのを払うように、俊樹がさばさばとした早口で言った。


「東京に行ってくれたんだってね。連絡があった。静香もこちらに戻って来るようだし、その話は追々。ところで、光樹はいるかな」

「はい、店内に。何かありましたか?」

「ああ、いや。ピアノが終わる頃に迎えに行くと連絡を入れていたんだが、全然返信がない。ちょうど出先から帰る途中に近くを通りかかったから、一応確認に。忙しい時間帯に悪いね」

「そうでしたか。生演奏は三セットでこれから……」

 あいつ弾くかな。弾か(け)ないんじゃないか? と、言いかけた言葉を飲み込む。

 俊樹はその間にちらっと店内に目を向けた。

「今日は予約でいっぱいかな。席が空いているなら食事をお願いしたい。一番気楽に食べられるメニューで良いんだが」

(そっか、帰っても一人だから)

 一人分なら席を作れないこともないかな、と考えたところで、はっと気づく。

 香織。


「光樹は何か食べているのかい? ピアノ以外にどこかで待機しているなら一緒に食事でも」

 のんびりと話す俊樹を前に、伊久磨は強張った笑みを浮かべた。


 光樹はいま。

 椿香織と食事をしています。

 店内に、香織がいます。


(このひとたち、顔を合わせて大丈夫なのか?)


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― 新着の感想 ―
[一言] 今回、めちゃくちゃ面白くて、Twitterで言いきれなさそうなので、珍しくこちらに来ました。|д・) 心愛さんが抜けたあとを埋めるように、伊久磨に容赦ない駄目出しをするエレナさん。 だけど…
[一言] 冒頭の出だしから、すでに……!www それにしても、話を聞いている間の態度も含めてエレナの反応が面白過ぎて最高です! そして、伊久磨の間の悪さを見てると、本当に似た者同士のカップルと言わ…
[一言] 大豪「(読者のみんな俺のこと覚えてるかな?)」
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