キラーパス
レストラン「海の星」のキッチンが好きだ。
シミも汚れもないパリっとした白のコックコートを隙なく着こなした三人が、磨き上げられて埃のひとつもない清浄な空間で忙しなく立ち働く姿。
眼鏡のオーナーシェフ・岩清水由春、青い瞳のスーシェフ(仮)・西條聖、英国貴族のショコラティエ・オリオン。
最小限の会話で次々と皿を仕上げていく三人。時折誰かが軽口叩いて、笑み交わす。
動きが派手なのが聖で、神出鬼没。キッチンでもホールでも、風を感じると、すぐそばを早足で抜けていく後ろ姿が見える。
由春は、比較的コンロや作業台周りを離れない印象。とはいえ、決して鈍重なわけではない。動作が静かで速い。さらに言うなら、ひとたびホールに出てくれば視線をさらっていく存在感がある。
オリオンは常に気分が安定していて、無駄口を叩かない。手元はいつも綺麗に片付いており、所作そのものが優雅だ。
それぞれが自信に満ち溢れて、互いを尊重しているからこそ、滅多なことでは揺らがない完璧な調和。
ディシャップ台のオーダーシート越しに三人を見て、伊久磨は微かに目を細める。畏敬の念というものがあるとすれば、いまこの瞬間胸にある感情が、きっと。
動いている三人の耳に届くように、声を張り上げた。
「佐々木さんのお席、ご本人が妊婦なのでアルコールNG、その他生肉や魚卵など生もののNGがいくつか。料理内容は他の三名と違っても良いと本人了承済み。アレルギー食材はどなたもありません。今日は、香織も車の運転があるのでアルコールNG。ファーストドリンクは佐々木さんがアップルタイザー、香織がロイヤルブルーティー、ヒロさんと明菜さんでボランジェのロゼをボトルで。このまま最後まで通す流れになりそうです。明菜さんはそれほど飲まないそうですし。アミューズ行きます」
「ウィ」
必要事項を淀みのない早口で告げて、ステンレス台に並んだ突き出しに視線をすべらせる。
墨色の皿を埋め尽くす箱庭。
一品目から、「海 星 花 岩」と名付けられた「海の星」のスペシャリテ。
苔や岩、流木で風景が立体的に作られていて、春らしく桜の枝も添えられている。その岩や枝の影に四種類のフィンガーフードが配置された一皿。海部分に置かれた貝殻の中にはゼリー状の膜に包まれたスープが注がれており、岩に見立てた竹炭のブラックマカロンには薄く山葵が塗られていて、フォワグラのテリーヌとペドロ・ヒメネスのゼリーが挟まれている。ビターなチョコレートで包んだほろほろ鳥のリエットも岩の見立て。星はフキノトウのコロッケで、花は花びら状に作ったビーツのチュイルで作られた紅梅。
色鮮やかな絵画のように。
繊細な景色を描き出すのは由春。特別コースにおいてはしばしば出される一品であるが、料理内容は季節毎に違う。今回のマカロンは聖、チョコレートはオリオンの意見が反映されているようだ。
息を止めて、見入ってしまう。
「綺麗ですね。遊び心もあるし、季節感もあります。ほろほろ鳥は特産品ですし、地元食材として積極的に話題にしてみようかな」
自分自身の緊張をほぐすように呟いて、皿を手にした。
由春も聖もすでに次の皿にとりかかっている。
ホールには他にも客がいるし、そちらのオーダーも並んでいる状態だ。
「ありがとうございます、いってきます」
崩さないように慎重な手つきで持ち上げて、キッチンへ声をかける。
出来上がった料理を受け取るときは礼を言うのが習慣になっている。
作るのは彼らの仕事で、運ぶのは自分の仕事なのだが、この奇跡を前に「当然」と慣れることなどできない。感謝が自然と口をついて出て来る。
「おう。行ってこい」
目が合った由春の、気合の入った声。思わず微笑み返す。
出だしは上々。普通に、いつも通りに仕事をしていれば、トラブルなど起こりようがないのだ。
* * *
「良かったね、アミューズ。一品目から『驚き』があって、『期待感』を高めるっていうか。趣向も面白かったし、色も綺麗だった。正直に言えば、昨日の店より全然良いよ。迫力があった」
伊久磨が皿を下げるタイミングで、さりげなく席を立った香織が、部屋を出てから声をかけてきた。
「ヒロさんどうだった? 個室はその辺が見えにくいから」
廊下で立ち止まって、肩を並べた香織に小声で尋ねる。
「悪くなかったと思う。楽しんでいるように見えた」
それを言う為にわざわざついてきてくれたのだろうか。
さすが、必要なものが見えている。さりげなくも完璧な気遣い。
「ありがとう。それ、キッチンに伝える。かなり気にしているはずだから、助かった」
香織はもともと店の人間ではないし、今日はお客様で、本当はこんな風に甘えるのはよくないと知りつつも、欲しかった言葉だけにほっとしてしまった。
そのまま歩き出すと、香織もそれとなくついてくる。立ったついでに手洗いだろうかと思ったところで、素早く尋ねられた。
「光樹は?」
「光樹? あっ……」
伊久磨は息をのむと、一瞬だけ、痛みに耐えるように瞑目した。
(忘れてた)
やんごとなき理由により、暗黒ピアニストに変身を遂げていた光樹のこと。
「さっき店に着いたときに見えたけど、表情が死んでた。何? あいつどうしたの?」
普段通りの何気ない口調が、いやに沁みる。
おそらくその生涯において、光樹とは兄弟として接することはないであろう関係性なのに、ずいぶんと細やかに目を配っている。
「ちょっとした勘違いで落ち込んでしまって。俺のせいだけど」
「何したの?」
「今日のお客様の中に昔の知り合いがいて、向こうが俺に対して親し気だったから、その……」
「女の人? あ、もしかしてさっき俺見たかも。伊久磨と一緒にいた子かな」
すぐに事情を察したらしい。伊久磨は力なく頷く。
「今日は光樹に生演奏をお願いしていたんだけど、だめかも。落ち込み方が」
(というか今どこだ)
個室の料理がスタートしたことで、そちらに意識がもっていかれてしまっていた。まさか寒空の下飛び出して行ってはいないだろうが、迂闊だった。
香織はふう、と吐息してから気を取り直したように明るい声で言った。
「どうせお前、手が空かないだろうし。俺が光樹と少し話すよ。個室なら人数増えても大丈夫そうだし。特別コース一名追加できる?」
にこーっと笑顔で言った香織の視線の先に、キッチンから出てきた光樹の姿。事務室で休んでいたのかもしれない。表情はどす黒いままだった。
伊久磨の横をすり抜けて、香織が「光樹」と声をかける。「ご飯一緒に食べよ。お腹空いているんじゃないの? そうだ、東京土産あるんだけど」と優しい口調で話しつつ背中を押して歩くように促して、来た道を戻ってきた。
寡黙に俯いていた光樹だが、立ち止まっていた伊久磨に気付くと、ゆらりと顔を上げた。
「おとなはきたない」
ぼそっと言い捨てて、苦笑を浮かべた香織と一緒に個室へと消えていく。
(いや。いろいろ誤解だし、ていうか高校生にもなってそんな捨て台詞ありなのか……!?)
お前だってそろそろ大人の階段駆け上がっている頃だろ? とよっぽど言いたかったが、それどころではない。
急ぎ足でキッチンに戻り、洗い場に皿を置いてから由春に向かって声を張り上げる。
「シェフ、特別コース一人前追加できますか!?」
続く二品目の仕上げ段階に入っていた由春が皿から顔を上げ、ごくごく冷たく言い放った。
「出来るわけねーだろ。そうそう簡単に……」
途中で、唇を引き結んだ。
――ですよね。無理を承知で申し上げております。いや、だめもとだったんですけど。できません……か?
頬を強張らせたまま薄ら笑いを浮かべた伊久磨の、声なき声を聞き取ったらしく、由春は唾を飲み込んだ。
「なんでそういうことになった……?」
「なんでというと、こう。オウンゴールと言いますか。光樹の暗黒演奏からしてシェフにダメージという意味ではオウンゴールだったんですけど、その勢いでハットトリック決めました! ですね」
「わかんねー。何を言っているのか全然わかんねえ。オウンゴールだけでハットトリックって最悪の試合だな。どうやって勝ちを拾うんだよそれ。マイナススタートにもほどがあるだろうが!」
焦りのあまり、上滑りな会話をする二人をみかねたオリオンが口を挟む。
「ハル。いまそういうこと言っていてもどうしようもない。いくま、どうしたの? 必要なことを簡潔に。営業中だから」
少しだけイントネーションに癖のあるやわらかな声を聞きながら、伊久磨は深呼吸をした。
「個室にゲスト一名追加……うっ」
自分で言ってはみたものの、この事態を招いたまぎれもない責任を感じて伊久磨は胸をおさえる。痛い。胸がとても痛い。
「ゲスト……? 叔父貴の知り合いでも飛び込みで来たのか? ……そういう、店側に無駄に負担をかけるようなこと、あのひとがするとは思えないんだが」
あっ、はい。
ヒロさんじゃないです。
思案するように呟く由春を前に、ひたすら胸の痛みを感じつつ、伊久磨は重い告白をしようとした。
その矢先。
「面白ぇなあのオッサン。俺たちが急なアクシデントに対応できるか見たいってことか。おい由春、ここで『できない』なんて言おうものならオッサンの思うつぼだぞ」
聖が唇の端を吊り上げ、不敵な笑いとともに言う。
(違います、違います西條さん。香織です。というか元をただすと俺です)
勘違い暴走特急が走り出してしまっていて、止めなければと思うのに、うまく言えないうちにキッチン勢が闘志を燃やし始めてしまう。
「なるほど、やるしかないってことか」
由春までそんなことを言い出し、頼みのオリオンまでなぜか大変安らかなやれやれ顔で「仕方ないね」なんて言い出す始末。
違います……!
その一言を絞り出す前に、キッチンの三人の意志がひとつになってしまった。
「ふん。目に物をみせてやるぜ、叔父貴」
オーナーシェフの一言。
伊久磨はひたすら痛む胸をおさえて(ちがいます……)と言えなかった言葉を噛みしめていた。