ご到着
柔らかな灯りの下、見事な銀髪が見えた。
実際の身長よりずっと大きく見える岩清水大豪の威容。その背後から、並ぶと小柄に見える明菜が顔を出す。背の高い香織が、心愛に腕を貸して「足元気を付けて」と声でもかけながらエスコートしている姿が続いた。
店内には、由春の節くれだった指が打鍵するピアノの調べが、光の洪水のように満ち溢れている。
音の一粒一粒が、煌きを放って跳ねまわっているようだった。
(うん。来るよな)
岩清水“ヒロ”様御一行。
いつの間にか予約時間五分前。到着のタイミングとしては絶妙だった。
いらっしゃいませ、とエレナが声をかけて先頭の大豪と軽く話し始める。
明菜は、何かを気にして、店の奥を覗き込むようにしていた。
朝にホテルで顔を合わせたときとは趣が違う。ディナーに合わせてすっかり髪も美容院で整えてきたようだ。黒髪は編み込みにして片側、左耳の辺りに丸くまとめて、残りを背に流している。花のような飾りも刺していた。クロークに預けるためにコートを脱げば、清楚なオフホワイトのAラインワンピース。胸元にフリルをあしらっていて、スワロフスキーの飾りボタンが並んでいる。レースのカーディガンを羽織っており、足元は雪道には不向きなヒールの高いパンプス。
ゆったりとした、赤にチェック柄のワンピースを身に着けた心愛が、明菜に話しかける。驚いたように大きく目を見開いてから、もう一度店内に視線を投げかけてきた。
心愛が先に立って、明菜に「はやく」と手招きする。
明菜はおそるおそるといった様子で床を踏みしめて歩いてきた。姿勢は良いが、足元が少し覚束ないのは、ヒールに慣れていないのかもしれない。
「いらっしゃいませ」
ゆかりの席を辞してきた伊久磨が声をかけると、心愛が淡く微笑んで頭を下げた。
「今日はよろしくお願いします。楽しみにしていました」
「こちらこそ、御来店を心待ちにしていました」
顔を上げた心愛と笑み交わす。嘘偽りのない言葉を告げる。
とても小さな女性。
仕事上、何度も叱られ、ぶつかり、緊張感のある間柄だった。「どうしてそこまで言うのか。そういう言い方しかできないのか」と苛立ちや不満を募らせたこともあった。
それでも、フォローされること、教えられることも多く。勤務時間の少なさ故に、深く話すこともできないことを、ずっともどかしく感じてきた。もっと、かけがえのない信頼関係を築けるはずなのに、と。
その日々が、今日で一度終わりとなる。
出産、妊娠を経て人生がどんな変わり方をするか、未来は誰にもわからない。
ここに残る者に出来るのは、いつか帰ってくる日のために、この場を守り続けること。
「ごゆっくりなさってください」
「ありがとう」
瞳にいたずらっぽい光をひらめかせて、口角をきゅっとあげて笑う。それから、軽く目配せをくれた。
両腕を垂らし、細い指を身体の正面で組み合わせ、立ち尽くしている明菜を目で示してから小声で言ってきた。
「明菜、知らなかったのよ、春さんがピアノ弾くこと。これは演出?」
「えっ……知らない?」
知らないでこれを見て、聞いてしまったのか、と伊久磨は大げさなまでに驚く。
心愛が大きく頷いた。
コックコート姿で、「邪魔だ」と言わんばかりに黒いシャツにジャケット姿のピアニストの横に座り、演奏する後ろ姿。
十本の指が、情熱に突き動かされるままに光の旋律を奏で続けている。
料理をしている姿にも負けない、岩清水由春の華やかさと繊細さを同時に見せつけるようなパフォーマンス。
「なぁに、あのひと、コックさん? ピアノ、超うまい」
ひとりで座っているのに早くも飽きたのか、ゆかりが立って伊久磨の横まで歩いてきていた。
曲が終わる。滑らかに動かしていた指を鍵盤の上で静止させ、由春は流れの一環のように肘で軽く光樹をどついた。
立ち上がって、振り返る。
眼鏡の奥の瞳が、驚いたようにみはられた。
その瞬間まで、明菜が背後に立っていたことに一切気付いていなかったのだろう。
「あ、あの、あの、びっくりして……。春さん、ピアノ弾くって知らなくて。春さん……だよね?」
明菜は、うかがうように言い終えたところで、前に進もうとしたのか後ろに下がろうとしたのか、不意にバランスを崩す。ヒールに足がもつれたらしく「あっ」と小さな悲鳴が上がった。
目覚ましい速さで駆け寄った由春が、腕を伸ばして明菜を支える。
「あぶない」
「す、すすす、すみませんあの、ヒールが。こんな靴はじめてで。ひとりで転ぶならいいんだけど、心愛にぶつかったら困るから、離れてって言ってるんだけど。ええと……」
言っているそばから、頬がどんどん赤く染まっていく。
寄り添って、ほとんど抱き寄せていた由春は、神妙な顔で囁いた。
「大丈夫か? 離すぞ、転ぶなよ」
「……はい」
目元まで真っ赤になった明菜は、それだけ言うのがやっととでも言うようにかすれた声で返事をする。
「……」
無言で、心愛が伊久磨の腕をぱしっと叩いた。行き場のない思いの発露。甘んじて叩かれながら、伊久磨も高まる思いを噛みしめて、吐息を漏らす。
(グッジョブ。いいものをありがとうございます)
何か、ものすごく、いいものを見た。ピンヒールの勝利。ドレスアップの圧倒的勝利。
「コックさん、イケメン!」
心愛とは反対側に立ったゆかりもまた、何を思ったか伊久磨の腕に手をのせてきた。いや、ゆかりはだめだ、と思ったが咄嗟に振り払うことはしなかった。代わりに言った。
「たしかに。岩清水さんがイケメンであることには完全同意だ。うちのシェフはカッコイイ……!」
ゆかり、よく言った、わかっているな、という気持ちをめいっぱい詰め込んで。
「……蜷川さん?」
何やら不審そうな反応をされたが、構わない。
「伊久磨。久しぶりって言うか、何時間かぶりだな。今日はよろしく。店に差し入れしているから、あとで皆さんでどうぞ」
ジャケットを新調したらしい香織は、気負った様子もないのに様になる姿で近づいてくる。長身で、水際立った美貌。
「差し入れ。そんな気遣いまで、ありがとうございます。お待ちしていました」
かろうじて店員としての態度を崩さずに返事をしたものの、隣のゆかりに腕をぎゅっと掴まれる。「紹介して欲しい」くらいの何かを感じて、伊久磨は速やかに腕を振って束縛を払った。
「個室をご用意していますので、どうぞ皆さん。こちらです」
大豪と話していたエレナが、呼びかけをする。
「今日、すごく楽しみにしてて……。お店、思っていた以上に綺麗でびっくりしました。あと、ピアノも……じゃなくて、お料理。よろしくお願いします」
妙にしどろもどろになりながら、明菜は由春に向かって頭を下げる。
「うん。来てくれるの、ずっと待ってたから。ありがとう」
背筋に痺れがはしるほどの甘い声で囁いてから、由春は大豪に顔を向ける。
「お待ちしておりました」
さっと頭を下げる。
「おう。しっかりやれよ」
軽い調子で受け流して、大豪はエレナの後に続いて個室へと向かった。
「じゃ、俺たちも行こう」
香織が女性二人に声をかけるが、心愛が「明菜は少し店内見てみたら? お客様入る前だし、今なら」と言って、明菜が頷いた。
話がまとまる気配を見て取り、伊久磨はゆかりに「ドリンクご用意しますので、どうぞお席で待ちください」と座るように促してから、キッチンに戻った由春の後を追いかける。
ホールの死角までたどり着いたところで、由春はよろめいて壁に手をついた。片手で眼鏡を覆いながら、小さな声で呟いている。
「妖精か……?」
(……シェフ!!)
ほとんど反応らしい反応をしていなかったくせに、明菜の可愛らしい姿にしっかりダメージを受けていたらしい。はあ、と溜息まで聞こえてきて、伊久磨は堪らずに肩に掴みかかった。
「岩清水さん、気持ちはわかります、よぉぉぉくわかりますけど! 『我が人生にいっぺんの悔いなし』みたいになるの、早いですから! さすがに燃え尽きるタイミング違いますよ!?」
ああ、うん、わかってる、といった生返事。
つかつかとキッチンを横切ってきた聖が、由春に取り付いた伊久磨を突き飛ばし、代わって胸倉を掴む。
「いい加減にしろ殺すぞ。さっさと働け」
正しい。
(これは西條さんが正しい)
そのままキッチンに引きずられていく由春を、グッドラックな気持ちで見送った。
ふと顔を上げると、にこにことしていたオリオンと目が合う。
「ヒロ、相変わらず貫禄あるよね。そういえば、帰国してからハルの家にはまだ来てないと思うんだけど。いつもどこにいるんだろう」
何気ない疑問のようだったが、聖の魔手から逃れて、乱れた胸元の皺を伸ばしていた由春が「ああ」と低い声で呟いた。
「叔父貴とうちの母親、ものすごく仲が悪い。もう、顔を合わせた瞬間、『神々の黄昏』がはじまる」
こう、もう、手の施しようがない、と由春は身体の前でろくろを回すような手つきをした。よほど何かあるのだということが伝わってきた。
ラグナロク? とオリオンが口の中で呟く。
個室から戻ってきたエレナが、キッチンの曰く言い難い空気に不審そうな顔をしながら「ラグナロク? 北欧神話?」と首を傾げる。
伊久磨はごく控え目に咳ばらいをしてから言った。
「シェフのお母さまがオーディンだって話です」
「お母さまが?」
エレナはきょとんとしてから、すぐに忙しそうにパントリーでドリンクの準備に着手した。
それから、何気ない調子で言った。
「姑がオーディンって、明菜さんも大変ね」
「藤崎さんいまの話ついてきていたんですか?」
かなり突拍子もなかったですよね、と伊久磨が言うと、ふっとアンニュイに笑い飛ばされた。
「慣れた」
「もう立派な『海の星』の一員ですね」
「なぜかあまり嬉しくない」
笑顔のままうっすら拒否反応を示しつつ、キッチンに向き直る。表情をすっと引き締めて、通る声で告げた。
空気を鮮やかに変える一言。
「特別コース四名様ご到着です。はじめてください、お願いします」