春が行方不明
「今すぐやめさせろ。今すぐだ」
キッチンに立ったオーナーシェフの由春が、まなざしに怒気を滲ませて言った。
「さすがにいきなりやめさせたら、何かアクシデントでもあったのかと、お客様に不審がられませんか」
正面に立ったエレナが、控えめながらも抵抗を示す。
「アクシデントで良い。とにかくあれはダメだ。絶対にダメだ。俺の店で、あれは……」
両手を広げて、仕草でも訴えかけていた由春であるが、徐々に勢いを失い、眉を寄せた沈痛な面持ちになって目を閉ざす。
関わる気もなさそうに淡々と下ごしらえをしていた聖が、見かねたように口を挟んだ。
「自分ひとり拷問に耐えているみたいな顔しやがって。働く気がないなら出てけ。お前の店だけどな!」
言い終えて鍋に向かったものの、「焼きゴテでも押し付けて、本当の拷問も味わわせてやろうか?」と独り言のようにぶつぶつと言っていた。
三人の会話を曖昧な微笑みを浮かべて見つめていたオリオンは、小声でJesus、という類の呟きをもらしてから、日本語で言った。
「空気最悪だね。光樹が弾いているあの曲、なんていうタイトル? 『来たれ暗黒の夜』?」
ニコッと笑いながらエレナは「違います」と答える。
「『春よ、来い』です。ごく普通に演奏すれば、あんな荘厳な葬送曲のようになるはずはない曲です。光樹くんの手にかかると、なんというか『才能の暴力』って感じですが……」
言いながら、光樹の才能から放たれる闇をまともにくらっているオーナーシェフにちらりと視線を流す。
「やめ……させろ……」
由春は、目を瞑り、歯を食いしばりながら、息も絶え絶えに訴え続けていた。
「すごいダメージ。感受性が高いとここまで苦しめるものなのね」
感心しきりの様子でエレナが呟く。
「なんだよ光樹の奴、さっきまで全然普通だったのに、なんでああなるんだ? 何があったんだよ」
まな板を布巾で拭きながら、聖が不思議そうにホールとの境目に視線を向ける。
立ち去りかけていたエレナは、立ち止まって肩越しに振り返る。
「んー……。蜷川さん、かな。原因は、たぶん」
「蜷川がどうした? そういや姿を見てないけど」
夜のスタンバイでキッチンにこもりっぱなしになっていた聖は、はじめて思い当たったように首を傾げる。
エレナは、逡巡してから、暗い微笑を浮かべて素早くその一言を口にした。
「女の人」
「ん? お客様?」
普段は鬼のように察しの良い聖が、今日に限って鈍い。エレナはもう知らない、とばかりに開き直った口調で告げた。
「知り合いだと思う。蜷川さんにべーったり。普通、ただの知り合いにあそこまで露骨なスキンシップは……。そう、それほど鋭いわけではない私にもわかる。あれは『男女の仲』多分、以前そういう関係にあった……」
途中まで「???」と顔に浮かんでいた聖であるが、最後まで聞いて「ああ、そういうこと」と低い声で笑う。
「光樹、ただでさえその辺潔癖みたいだからな。そんな中、フローリストと真剣交際していると信じていた蜷川に、女か。荒れるな」
しょうがねぇ奴だなあ、とでも言いたげな聖に対して、エレナは鉄壁の笑みを維持したまま頷いた。
「そうね。あのお客様、お店を勘違いしているみたいにベタベタベタベタうちはそういうサービスはしてないですよって。普通に考えてわからないのかしら、男性客が女性店員に同じことをしたら痴漢で通報レベルのお触りよ。男女逆だからって許されることじゃないわよ図々しい女」
背後に青い炎が揺らめくがごとく。
「藤崎……?」
いまの何? と聖は目を瞬いていたが、エレナは笑顔のまま「行ってきます!」と身を翻して出て行った。
その後に続くように「ピアノやめさせてくる」と言い訳しながら、由春まで出て行った。
「いや……、お前は働けよ!? 何普通に出ていってんだよ、お前の店だろうが!」
叫んだ聖に、オリオンが「とりあえずがんばろ」と軽い調子で声をかけた。
* * *
「蜷川さん、この間の綺麗な彼女さんは、今日は出勤ですか?」
店の入り口に向かう途中、腕に取り付かれた上に、胸をぎゅうぎゅうと押し付けられて(なんだこいつ)と正直なところ思った。わざとなのか、考え無しなのか。咄嗟に判別がつかないまま、「くっつきすぎ」と素で言って、腕を軽く持ち上げる。
指が食い込んでいて、振り払えない。
一瞬、もう少し強引に振り切ることも考えたが、加減を間違えて転ばせたり怪我をさせたりしてはいけない、と思いとどまる。
ドアを見ると、顔をのぞかせていた光樹の姿はすでに見えない。
(見間違い……錯覚? そんなわけないよな)
確かにいたはず。見られた、という感覚があった。なんだか、とてつもなくばつが悪い。べつに光樹は伊久磨の交際相手ではないが、極めて重要な人物であるには間違いなく。
(言い訳がしたい。切実に)
何も気にせず、ゆかりは「ねえねえ」と言い続けている。
「この間の……。彼女はフローリストです。店内のグリーンの維持管理をお願いしているので、常駐ではありません」
「蜷川さん、話し方が固い。冷たい感じ? もう少しふつうに話してよ」
しなだれかかってくるゆかりを押し返しながら、伊久磨はドアハンドルに手をかけて、ドアを開く。
「職場なので。お客様とはいつもこういう話し方」
「その客が『やだ』って言っているの。その辺融通きかないの? お客様ごとに微妙に接客変えたり、相手に合わせたりしないの?」
「変えません」
もちろん、例外は常にある。だが、認めるつもりはない。言ったら最後「自分もその例外にしてくれ」と言い出すのは目に見えている。
エントランスを通り過ぎるときに、エレナが「いらっしゃいませ」と完璧な微笑を浮かべて声をかけてきた。
「二名様でご予約の山田様です。お連れ様が急遽お見えにならないことになったそうで、一名に変更です。食事は召し上がっていかれるそうです。いま、お席を」
状況説明をしている間、エレナの視線が自分の右腕に向かっていることに気付く。なんだろう、と思ってまだゆかりに取り付かれていたことを一気に思い出して身体が硬直した。
エレナは「キッチンにお伝えしてきます」と言ってその場を去る。
気のせいではなく、声も態度も冷ややかだった。
「滑川さん、さすがにその手は離しましょう。店内では滑って転ぶ心配はありません。俺にしがみつく必要もありません」
掌で軽くゆかりの腕を押すも、目が合うとにこにこと底知れない笑みを向けられる。
(なんだ?)
言い知れぬ嫌な感触。
表情をこわばらせた伊久磨に対し、ゆかりは余裕を見せつけるかのように言い放った。
「蜷川さん、普段の接客で『俺』って言わないんじゃない? 私に対して言ってるのは、気を許してくれているの? 嬉しいな。それにしても、今日は彼女さんいないの残念。綺麗な女だったし、また会いたかったんだけどな」
会って、
どうする。
(友達になるほど店に通い詰める気か? 高いぞ?)
忠告とも反発ともつかない苛立ちが胸の奥をざわつかせる。
先程から、妙に話があちこちに飛ぶ。彼女のこと、伊久磨のこと、そしてまた彼女のこと。
失恋のせいで精神的に不安定で、絡まずにはいられないのか? 正直に言えば、やりにくい。
しかし、出会った瞬間から「相性が悪い」と感じるお客様は、これまでたくさんいた。だからといって、逃げるわけにはいかない。どうにかして、来店から退店まで大過なく、食事を楽しんで頂けるように、心を砕いて接してきた。
たとえ相手が元カノとはいえ、やってやれないことはないはず。
憂さを抱えて店に足を運んだのだとしても、帰るときには最高の時間を過ごしたと、笑顔でいてほしい。
その気持ちに偽りはない。
「いまお席を用意するので、少しお待ちください」
「ここで? パーテーション動かすんだっけ。手伝うよ」
「とんでもない。店の者でご用意させて頂きますので、ここで」
エントランスで待機を。
そう言っているのに、なぜか伊久磨の動きに合わせてついてくる。
(どうして)
日本語通じてないのか?
何が何でも主導権を明け渡す気のない、強い決意を感じる。
結局、予定の席に通した後「座っていてください」と椅子をすすめ、手早くパーテーションや植物の位置を変えた。ゆかりはとても嬉しそうな顔をして「秘密基地みたい。何しても他のひとからは見えにくいの、良いね」とはしゃいだ声で言う。
(「何しても」って何する気だよ。店に放火でもする気か?)
素で言いそうになったが、耐える。挑発にのっている場合ではない。
「お料理はご注文頂いていましたが、変更はなしでそのままで大丈夫ですか」
「うん。生演奏は時間決まってるの?」
「何回かに分けてなので。一回目はもう少し後……」
会話の最中に、ピアノの音が響き始めた。
(……光樹!)
何を弾いているか理解するまでに、時間を要した。
あまりにもダイナミックなアレンジ。まるで知らない曲であるかのような、重々しく痛々しく胸を踏みつぶしてくるほどの悲愴さ。
聞かせる音ではある。それこそ、手も足も止めて、全身を捧げて聞きたくなる音色ではあるのだ。
そのまま、もう仕事なとせずにまっすぐ家に帰って布団をかぶって枕を濡らしながら眠りに落ちたくなるほどの、澄み渡る果てしない暗黒。
「なんだろう、こう……気持ちが真っ黒に塗りつぶされる……春よ、来い? 来ないでしょこれ」
(ゆかりがうまいこと言っているけど、言い返せない)
食事中に聞く曲ではないのは確かだ。止めなければ。
その思いから足を向けたとき、キッチンからコックコート姿のままの由春が姿を見せた。
問答無用で、ピアノを弾き続ける光樹の横に座る。指を鍵盤にのせる。
力強く、奪いに行く。
曲を途切れさせぬまま、空間を染め上げた黒い歌を塗り替えて、光の中に浄化させるように。
(シェフ……。相変わらずすごいですけど、キッチンは大丈夫ですか?)
今晩そういう余裕ある日だっけ、と思ったそのとき。
エントランスから、澄んだドアベルの音が鳴り響いた。




