遠雷、未来
――この手の高級レストラン、お客様の感覚として、何回利用したら「常連」だと思う?
* * *
ドアに取り付けられたドアベルが、清涼感ある澄んだ音を響かせる。
外に出た途端、二の腕に刺すような寒さを感じた。
大気は紫紺に透き通り、すでに陽が落ちて、夜。
吐きだす息は白い。
伊久磨は表門までの道を踏みしめて歩く。
正面の道路に人影がないのをざっと見てから、振り返って「海の星」を見上げた。
星月夜を背景に、木々に囲まれ、ライトアップされた洋館。
オープン前。あるいはランチタイムの後。
店の前に出て、草むしりをしたり雪かきをしたりするたびに、道行くひとに視線を向けられる。
好奇や憧れの目。瀟洒なアンティークランプに照らし出された入口のドア、その向こうにどんな世界が広がっているのだろうか、と期待と興味ないまぜの。
ランチだといくらくらいなの? ドレスコードは? どんな人がくるの?
話しかけられることもあれば、伊久磨から話しかけることもある。
何度か見かけたことがある、よく視線を感じる、そういう相手に挨拶をしてから、さりげなく。
――こういうところで食事ができたら素敵でしょうね。いつか来てみたいわ。
羨望のまなざしで「海の星」を見つめて、独り言のように呟いた女性。
いつでもお気軽にどうぞ。予約が確実ですので、まずはお電話ください。そう言うものの。
ランチも、決して安くはない。足を踏み入れるまでに、かなり悩んでからというお客様もたくさんいる。何かとても良いことがあったときに「自分へのご褒美」場合によっては、一生の思い出になる食事を期待して。大げさではなく。
夜に聳える「海の星」は、今日もドアに温かな光を灯し、今夜のゲストの訪れを待っている。
(いつも通りの営業。お客様にとって、特別な夜になるように)
――この手の高級レストラン、お客様の感覚として、何回利用したら「常連」だと思う?
三年前、入社早々、由春から問いかけられた。
――常連って、通い詰めているひとのことですよね? 何回……。毎日とは言わないまでも、毎月来る、とか……。それこそ、店員が顔を覚えるくらい。
話にならない、という態度を取られたのを覚えている。
――三回。理想は、二回目にはもう「常連」としてお迎えする心構えでいること。
無茶なことを言う、と思った。
お客様なんて、目の前を素通りしていくだけの存在。二回目の来店は一か月後かもしれない、一年後かもしれない。名前や顔なんて覚えられるはずがない。それなのに、出来るようにしろ、と。
一事が万事その調子。
要求されることのすべてが、理解を越えていた。頭ごなしに「とにかくやれ」と強いられて、何度も「出来るはずがない」「理想が高過ぎる」「レストランにそこまで求める客なんていない」と反発を覚えてきた。
同時に、理解していた。「それが出来ない人間は、ここにはいらないのだ」と。
長時間労働、薄給、やりがい搾取。サービス業にありがちなブラックワードが頭をぐるぐるする中、ふと顔を上げて見れば、目の前に立つ由春も、幸尚も、自分よりずっと努力していた。「出来ない」なんて弱音を吐くこともなく、いつも倒れる限界まで働きづめ。意地の張り過ぎだろと何度思ったか知れない。
中途半端な気持ちで働いているのは自分だけだった。
二人とは違い、料理を作ることができない、「ただ皿を運ぶだけ」の役割に何度も劣等感に苛まれ。
仲間じゃない。仲間になれない。最初に切り捨てられる。(嫌だ)
胸が焼け爛れる。逃げてもどこにも行けない。(やるしかない)
決して前向きな気持ちだけではなかった。失敗も多かった。自分のせいで謝る由春を見てきた。その背にかばわれて。(子どもみたいに)
嫌だ。変わりたい。二人の負担を減らせるように、支える側に回れるくらいに。
(海の星が「大切な場所」になるまで、実際にはそんなに時間がかからなかった……)
ほどなくして、ここがひどくうつくしい建物だと気付いた。価値などわからないけれど、見渡せばたくさんのアンティークが身の回りにあり、そのどれもがこの空間を特別に彩っていた。
ここはただ「食べる」ためだけの場ではなく、「楽しむ」ための場であり、憧れの店なのだと。
いつか自分が老齢になり、手足が不自由になり身動きかなわなくただ身を横たえるだけになったとき。
夢に見るだろう。
明るい陽射しに満ちたランチタイム。窓から見えた緑なす庭。
仄暗く柔らかな光の中、食器とシルバーのかなでる音と笑い声が響くディナータイム。
ここで出会った何人ものお客様の笑顔。仲間たちの働く姿。彼らと笑い合う今の自分。
かけがえのない日々のことを。まるで憧れのように。
(……そんな「遠い未来」のことを考えるようになったのは、ここ最近)
自分にも未来があるのだと、ほんの少しだけ、思えるようになってきた。今はまだ、本当に少し。
吐きだす白い息の向こうに「海の星」を見て、背を向ける。
そろそろ今日の最初のお客様のご予約の時間。
表門に近づいてくる人影が見えた。
白いコート姿の女性が一人。
どことなく見覚えが、と思ったのもつかの間、目が合った瞬間にわかる。
滑川ゆかり。
正月に顔を合わせて、静香とのひと悶着の原因ともなった、元カノ。
(予約に名前はなかったけど、時間帯的にはお二人でご予約の山田様のお連れさまかな。カップルで彼女が先に到着……)
めまぐるしく状況の推測をするものの、にわかに緊張が走ったのは、ゆかりが涙を浮かべていたせいだ。
「に、蜷川さん……」
ぐすっと鼻を鳴らしながら門をくぐって小走りに駆け寄ってくる。
まずはお迎えしよう、と伊久磨も数歩進んだところで、真正面から向き合う形になった。
ゆかりは立ち止まらず、体当たりをかまして胸に飛び込んだ。
「えっ」
避けることもできずに、伊久磨は受け止める。さすがに腕を回して抱き留めるまではしなかったが、まともにぶつかられた。
「どうした」
どうしました、と聞くはずが素になっていた。
ゆかりはその対応を気にした様子もなく、伊久磨にすがりつきつつ涙目で見上げてくる。
「私、フラれちゃったの……」
情感たっぷりに言われたセリフの内容を、伊久磨は考えてみた。
(……「俺、関係ある?」て聞くのは悪手だよな。なんていうか)
冷たい云々というより「関係ある!」と断言されて、引きずり込まれるのが恐ろしい。そもそも今の状況そのものが、「巻き込む気満々」に見えて仕方ない。
「そっか……」
結果的に、きわめて中途半端な返答になった。否定も受け入れもしない。優しくも冷たくもしない。どうとでもとれる。
ゆかりは、伊久磨の黒いシャツの合わせ目を、手袋もしていない、寒さにかじかんだような指で握りしめながらぐすぐすと鼻をすすり、しゃくりあげる。
「せっかく、今日のディナー楽しみにしていたのに、ひとりになっちゃったの」
(そうくるかと思っていたけど、やっぱりそうか)
ここはレストラン。
駆け込み寺と勘違いしているのでない限り、足を運ぶのは食事を目的としたお客様。
「ご予約名様、お伺いしても?」
「山田さんの名前で入っていると思う。二人で」
「ありますね。ご予約者様の山田様は、この後お見えにならない?」
ごく当然の、必要事項の確認であったがなぜかゆかりは一瞬、きょとんとした顔をした。それから、思い出したように大きく首肯した。
「来ない。フラれたってそういうことよね。蜷川さん、どうしよう」
(「どうしよう」か。まさか、無計画でここまで来たのか?)
山田様、振るなとは言わないが、もう少し計画的に振ってくれ。レストランの予約時間直前ってどんな状況なんだ。そんな文句が頭の中を過ぎった。
「待ち合わせで喧嘩とか、そういう感じですか」
「うん。もう、絶ッッ対来ない」
いやに力強く言われて、伊久磨は予約状況を思い浮かべる。直前のキャンセルは痛手と言えば痛手だが、来ないものは仕方ない。
「わかりました。予約はキャンセルにしましょうか」
「ええっ、ここまで来たのに!? 美味しいごはん食べられるはずだったのに、今からコンビニかスーパーで何か買って帰れってこと!? 蜷川さん、冷たい……!!」
シャツをぐいぐい引っ張られ、「さすがに皺になるから、離して」とゆかりの手に手をかけて素早く引き剥がす。それから、可能な限り穏やかに言った。
「相手が来ないとわかっているなら、無理に食事をしなくても」
「いや。二人分払うことになっても、今日はここで食事をして行く! ずっと楽しみにしていたんだもん!」
ずっとというより、かなり近々に入った予約だったような、と思い浮かべながら「それなら」と頷いてみせる。
「召し上がっていない方の分まで会計にのせることはないです。一人でも気にならないようにパーテーションを動かして席を作りますね。今日はピアノの生演奏もあるから、退屈しないんじゃないかな」
「生演奏? ステキ! 私の席にはもちろん蜷川さんがついてくれるよね? 話し相手になってくれるよね?」
「席の担当にはつけないけど、少しくらいなら」
「えー、やだー! 蜷川さんを指名したいのに!」
(そういう店ではない)
もちろん、中にはそういうことを言うお客様もいるが、複数人でサービスにあたっている現状、予約段階で一言なければ当日には対応しきれないこともある。
突っぱねたい気持ちなのはやまやまだったが、少しばかり同情心が首をもたげてしまった。
失恋のせいで、顔見知りに甘えたい気分なんだろうか、と。
「まずは、寒いから中へどうぞ」
案内するつもりで、手でドアを示しながら体を傾けて道をあける。何を勘違いしたのか、ゆかりは伊久磨の腕にしがみついてきた。
「ん!?」
「エスコートしてくれるんだ、嬉しい」
(そういう、店ではない)
よっぽど言おうと思ってゆかりを見下ろしてから、ふと視線を感じてドアの方を振り返る。
夜道でくんずほぐれつじゃれ合う(ように見えているだろう)伊久磨とゆかりを、光樹が目を丸くして見ていた。