居場所
空気が冷たい。
南から、北へと帰ってきたのだと感じる。
二月中旬くらいまでが、体感的には雪国における「真冬」だ。
春の訪れを感じる日のすぐ後にその冬一番の冷え込みや、とんでもない猛吹雪の日が巡ってくる。けれど一日ごとに陽射しが温かくなり、根雪がとけて、冬の間すっかり葉を落として茶色くなっていた枝の先にいつしかほんのり緑が芽吹き始めるのだ。
凛と凍てついた風に陽気が混じり始め、夕暮れ時に、ふと日が長くなったのを実感する。
春だなぁ、と。
東京から新幹線で取って返し、駅から一路勤め先である「海の星」へ。
ランチタイムを終えてクローズしているタイミングに着き、裏口ではなく正面に回って門をくぐった。
アプローチは綺麗に除雪されていて、雪吊りで守られた木々や瀟洒な洋館の庇にはアイス状に凍り付いた白雪が軽くのっている。
扉上部にステンドグラスの嵌め込まれた入口扉は、アンティークランプに仄かに照らし出されていた。
伊久磨が見ている目の前で、ドアが内側から開かれる。ちょうどコックコート姿のオーナーシェフ、岩清水由春が出てきたところであった。
すぐに気付かれた。目が合った。
空気が冷たい。
恋人の住む東京から、仕事を放り投げて抜け出てきた職場へ戻ってきた事実に思い至る。
眼鏡越しにちらりと向けられた視線には、真冬の冷たさが漂っていた。
まさしく極寒。
春間近なのに。
「いま戻りました」
素知らぬふりをして、笑顔で声をかけてみるも、無言。
その冷ややかな対応にめげることなく、蜷川伊久磨は両手を広げて近づいて行った。
「昨日ぶりなのになんだかもう懐かしいです。ハグしていいですか?」
「死ね」
簡潔に言い放って、由春は腕を組み、つんとそっぽを向く。そのままぼそりと付け足した。
「こんなにすぐ帰ってこなくても、明日休みなのに」
開口一番の「死ね」とは打って変わって、声にはすでに優しさが滲んでいる。伊久磨はつられたように目元を和ませながら、穏やかに告げた。
「今晩どうしても店にいたかったんです。佐々木さんをきちんとお見送りしたかったので」
由春は物言いたげな瞳で視線を流す。
すぐそばまで歩み寄っていた伊久磨は、問答無用で両腕を由春の背に回して抱きしめた。
「隙あり」
「ねーよ。やめろ」
次なる攻撃を警戒するかのように顔を背けながら、由春は心底嫌そうに言った。
「そんなに警戒しなくても、明菜さんの分は残しておきますよ」
至近距離で、伊久磨はにこりと微笑みかける。
「残すって何をだよ。無駄に生々しいこと言うな」
腕を突っ張っるようにして伊久磨の拘束から逃れながら、由春は乱れた胸元を軽く手で整えた。表情や全身に警戒心を漂わせつつ、口を開く。
「昨日、叔父貴が行った店な。情報あって良かった。メニューも全部じゃないけど出ていたし、参考になった。べつにそれで俺の料理が変わるわけじゃないけど、食材かぶりを避けるくらいは考慮する。連日同じものを食べても楽しくないだろうし」
「そうですね。思いっきり比べられますし」
よくわかります、と頷いた伊久磨に、由春は軽く体を傾けて回し蹴りを入れた。特に痛くはなかったが、当たった瞬間「いてっ」と言いつつ伊久磨は身を捩る。
「いちいちうるせぇぞ。お前は手頃価格で料理に合うワインの品ぞろえがいいところをきっちり見せつけるのが仕事だからな」
そのまま由春は身を翻してドアに手を伸ばしたが、やや後方から伊久磨が素早く手を伸ばし、先にドアハンドルを掴む。エスコートの見本のように優美な所作で開いて、由春が先に入るように促し、後に続きながら淡々と言った。
「うちはさすがに五大シャトーなんか置いてませんからね。仕入れから出るまで何年かかることか。維持管理にものすごく気を遣いそうですし。あ、そうだ。いつもの石沢さまがいつか飲みたいって言っていたんですよね。何かの記念日のときに予約段階ですすめてみようかな。きっかけ、大事」
話しているうちにあれこれ気になり始めた伊久磨を、エントランスで向かい合った由春が呆れたように見上げた。
「お前な……。勧めるにしても無理のない範囲でな。そういうワインじゃなくても、料理に合うワインはたくさんあるわけだし」
もちろんです、と伊久磨はまたもや力強く頷いてみせる。
「わかっています。だけど、経験として、一生に一度飲みたいというのならそれを手伝って差し上げるのもまた自分の仕事だと思っています。それに、岩清水さんなら絶対にワインに負けない、五大シャトーすら名わき役にしてしまう料理が作れると信じていますから」
つい。
立ち止まったまま、見つめ合ってしまう。
カウンターに立っていた藤崎エレナが「お帰りなさい」と声を上げていたが、にわかに「先に目を逸らしたら負け」のような緊張感に包まれ、視線を外せなくなる伊久磨と由春。互いに無言のまま、ほとんどにらみ合いの強さで向き合う。
店の奥からオリオンがのんびりと歩いて現れ、カウンターの横で足を止めると「ん。おかえり」とおっとりとした調子で言うも、そちらに顔を向けることもできず。
オリオンは「あの二人、どうしたの」とエレナに話しかけ「よくわかりません」と傍観者の会話を交わしていた。
その視線の先で。
均衡を崩したのは伊久磨で、ふっと目を細めて唇に笑みを浮かべてみせた。
「なんですかね、こう、岩清水さんの並々ならぬ緊張感が伝わってきます。今日のご予約に向けて、闘志がみなぎっているといいますか。良いな、そういうの。好きです」
真面目な顔で聞いていた由春であったが、たっぷり五秒くらいの沈黙ののち、眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
大きなため息。
「お前おかしいぞ。というか、気持ち悪い。なんださっきから。寄るな」
「寄らないと仕事ができないんですが。打ち合わせしましょう」
寄る必要なんか全然ねぇよこっち来んな、とぶつぶつ言いながら由春は店の奥へと足を向ける。
伊久磨はエレナとオリオンに「ただいま戻りました。お休み頂きありがとうございました」と深々と頭を下げてから、さっと体勢を立て直す。
おかえりなさーい、と声を揃えた二人に笑顔で軽く手を振ってから、由春の後を追いかけた。
「西條さんは」
「寝てるんじゃないか」
「へえ。起こしちゃおう。ただいまって言わないと。そうだ、光樹。時間あるならピアノお願いできないかな。連絡しておけばよかった」
二人連なり、早足でホールを横切りつつ会話は続く。スマホを取り出した伊久磨に、由春は「光樹には連絡してある」とそっけなく言って振り返った。
「なんだかやけに浮足立っているみたいだが。いつもと変わらない。いつも通りの日だ。そのつもりでいろ」
伊久磨は胸に手を当てて、淀みなく柔らかな口調で答える。
「はい。いつも通りの特別な日です。店にとっても、お客様にとっても。思い出に残る食事をご提供できるように、力を尽くします」
由春は、溜息をつきたそうな顔をしながら、噛みつくことなく、最終的に小さく噴き出した。
顔をくしゃっと歪めながら、腰に手を当てて伊久磨の顔を見上げ、目を合わせる。
「べつに骨折したフローリストを置いて帰ってくる必要もなかったんだが、帰ってきてしまったものは仕方ない。夜まで時間が無い、やるぞ」
「はい」
背を向けて、歩き出しながら、振り返ることなく由春は低い声で呟いた。
おかえり、と。