Loved one
From:岩清水由春
――殺すぞ。
スマホ越しに聞こえてきた脅し文句に、伊久磨は一瞬真顔になる。
物騒極まりない一言。着信時、スマホに表示されていた相手ではない人物が喋っているのは、その明瞭な美声からすぐに知れた。
駅前の騒音がすっとひく。視線を遠くに投げると、細かなヒビの入ったアスファルトが陽射しにきらきらと光って見えた。
――家出癖のあるガキとか、放浪癖のある風来坊じゃあるまいし。連絡くらい入れろ馬鹿。
矢継ぎ早の罵声。
伊久磨は思わず唇に笑みを浮かべて、口を挟んだ。「家出」と「放浪」と言えば。
「それ、香織と穂高先生のことですか」
そばに立っていた香織が、目を見開いて「なに?」と口の動きだけで聞いてくる。なんでもない、と軽く手で遮るような動きで答えつつ、伊久磨はスマホから響いている声に意識を向けた。
伊久磨が夕方「海の星」を出た後、それはそれはいろんなトラブルがあったということ。従業員一同で辛くも乗り切ったということ。細々とした報告を申し訳なさ半分、あとの半分は興味津々で楽しく聞いてから、本題。
――それでお前、どうするんだ、今日。
「帰ります。午後一の新幹線で帰りますので、夜の営業には出ます」
スマホの向こう側が静まり返る。
目元に笑みを滲ませながら、伊久磨は「どうしました?」と軽い口調で水を向けた。
――そっちはもういいのか。明日休みなのに。そんなに急いで帰って来なくても。
どうするんだ、と聞いてきたくせにわずかな動揺が透けて見える。
(こういうところ、可愛いよなぁ。西條シェフ)
口に出したら冗談ではなく殺されそうなことを思いつつ、伊久磨は素早く答えた。
「はい。今晩の予約はどうしても外せないお席がありますし、俺も店にいたいですから」
――なんだ、お前の彼女はどうだったんだ。腕、平気なのか?
「平気ではなさそうです。日常生活にも支障がありますが、仕事に区切りがついた時点で、本人だけでも東京を引き上げると話はまとまりました。引越しなどはまた改めて。そこを話し合えたので、今回はもう十分です。帰りますよ、『海の星』に」
ごく自然に「帰る」と何度も口にしている。
(住んでるわけじゃないんだけどな。ただの職場だっていうのに)
――あ、そ。それなら今晩の特別コースの打ち合わせも時間的に余裕か。
「ですね。普段と違う料理なら俺も勉強が必要だ。そうだ、その件でぜひお伝えしたいことが」
――何だよ。
伊久磨の声の調子から、何か不穏なものを感じたらしい聖が、警戒を滲ませて聞いて来る。
「今日の特別コース四名様のお席です。ご予約者のゲストがどなたか、確認がとれました」
心愛には口留めをされていたが、朝食の席で顔を合わせた明菜に聞いてみたところ、由春に伝える許可は得ることができた。
明菜本人は、一晩中由春に電話しようか悩み続けて結局できなかったという。悩み過ぎて具合が悪くなった、と呟いていた。
(岩清水さんと明菜さんの距離感もよくわからないんだよな。うまく行っているのか、いないのか。電話するくらいわけないと思うんだけど)
自分と静香の付き合い始めはどうだっただろうと記憶をさらう。
当初、付き合うという話にはなったものの、お互い特に全然連絡していなかった事実を思い出しかけて、速やかに記憶に蓋をした。
「本日のご予約、ゲストにヒロさんがいます。岩清水大豪シェフです」
くっ、と電話の向こうで息をのむ気配。続けて「おい、由春。来るぞ」とそばにいるらしい由春に声をかけているのが聞こえた。さらには、押し殺したような低い声で凄まれる。
――お前、知ってたのか。よくも黙っていたな。マジで殺す。
「はい。それはそれ、これはこれ。その他に香織もいます」
――なんでだよ。もう意味わかんねーよ。
「でしょうね。ちなみにもう一人が当初からのゲスト、ご予約者様のご友人の明菜さん」
――「でしょうね」って、「でしょうね」ってなんだよ!! 想像以上に面倒なことになってんじゃねーかそれ。
「面倒ですよ。しかもヒロシェフが昨日食事したレストラン、西條さんも名前は知っていると思います。いまリンクをメッセージで送ります。ドリンクはドンペリとシャトー・ラトゥールを開けたそうです。今からうちも何か仕入れますか。お金持ってますよ、ふっかけましょう!」
――馬鹿お前馬鹿か、こら馬鹿なのか蜷川。何楽しくなってんだ馬鹿。
珍しく、語彙が貧弱になっている。西條シェフの罵倒のバリエーションとしては物足りないなぁ、と思っていたところで、電話の向こうでガタガタと音がした。
――伊久磨。佐々木の席、叔父貴と椿と……。
由春に代わったようだが、反応がおかしい。
意外とメンタルにきてる? と思いつつ伊久磨は容赦なくたたみかけた。
「明菜さんですよ、明菜さん。まさか岩清水さん、ヒロさんより明菜さんに動揺しているんですか? 大丈夫ですか? 気にするところ違いませんか、もっと集中してくださいよ。正念場じゃないですか」
ごく正直な気持ちで発破をかけてから、自分は彼女案件で仕事を抜けて東京に来ていることを思い出したかけたが、触れずに済ませることに決めた。
――どうしてそういう組み合わせになるのか。
「えーと……。その辺はもう考えても仕方ないので諦めてください。ひとまずもうすぐランチですよね。切ります。夜には明菜さんに会えるので頑張ってください。なお」
言うか言うまいか悩んでいたことを、無理やりねじこむと決めて、伊久磨は不自然に文章を続ける。
「今日はヒロさんと明菜さんデートですよ、デート。デートの締めの食事が『海の星』です。ヒロさんによると、男が女を良いレストランに誘うのは『今晩脱がすぞ』らしいです。岩清水さん、そういうことですから。何かと頑張ってくださいね」
ろくな説明ができなかったが、雰囲気だけ伝わればいいや、と。「脱がす」云々に関しては、前夜飲みの席における香織からの口伝だが、いかにも言いそうなセリフなので間違いないと思われる。
(それ以上でもそれ以下でもないですし、その辺はもう自分で考えてください)
頑張ってください、と無駄に繰り返して通話を終えた。
「なにいまの。西條?」
横で聞くともなしに聞いていた香織に尋ねられる。
メッセージアプリを起動して、前夜のレストラン情報を由春に送りつつ伊久磨は返事をした。
「そう。今晩の話。俺、先に新幹線乗るから。向こうで待ってる」
ふと顔を上げて香織へ目を向けると、まだ何か言いたそうな表情をしていた。
「……どうした?」
「なんでもない」
香織は視線を遠くへ投げ、行き交う人の波を眺めながら目を細める。
駅ビルのお手洗いに、と言って場を外していた静香と紀子が戻ってくる姿が見えた。
「お待たせしました。さて今日はこの後どうしよう」
静香の明るい表情を前に、伊久磨は「それなんですが」と切り出す。
「この近くのショコラトリーに予約を入れているんです。小さいお店なので無理かなって思ったんですけど、受けてくれました。十一時のオープンと同時に遅れずに入店すること、と念押しされていますが。勝手にごめん。軽食もあるみたいなのでランチを一緒にと」
説明してから、店名を告げる。朝食の席で話題に出したら、開店前で電話が繋がる時間でもなかったにも関わらず、大豪が知人経由で予約を入れてくれたのだ。
「ショコラトリー……良いかも」
静香は目をきらっと輝かせて頷いた。それから、小声で続ける。
「お母さん来てもらってるけど、どこにも連れて行けてなくてさ。もともとうちの母親は旅行するタイプじゃないし、東京なんて今後なかなか来ることもないだろうし。そういうとこ行きたいなって思ってて。本当はあたしが色々段取りするべきなんだろうけど、気がまわらなくて……」
なんかごめん、と勢いをつけて謝ってから、はにかむような笑みを浮かべて「ありがとう」と付け足してきた。
静香を見下ろしながら、伊久磨はにこりと笑いかけた。
「良かった。サプライズってほどじゃないけど、相談もなく決めてしまったから。怪我に食材NGはない? チョコレートってカフェインあるけどそういうの怪我に響いたりしない?」
「聞いたことない。大丈夫じゃないかな。妊婦さんでもないし……」
言いかけて、静香は不意に口をつぐむ。視線を絡ませてお互いをその瞳に映してから、同時にそっと顔を逸らした。少しばかりデリケートな話題に足をつっこみかけた焦り。
「その、一応バレンタインなんです」
「え?」
遠くを見たまま伊久磨が呟く。予期していなかったらしく、静香は再び伊久磨に視線を戻した。
「当日はどうにもできないと思うんですけど、せっかく会えたので。この機会に」
重ねて説明をすると、わかりやすく静香が焦り始める。
「……ああああ、あたし、あたし、何も用意してないんですけどっ」
「それは別に。たまたま俺が用意できただけで、二人でチョコを食べればそれで良しということで」
「バレンタインってそういうイベントだったっけ……?」
紀子と待っていた香織が「二人の世界してるけど、おまけもついていくからよろしくね」と呼び掛けてくる。
「何から何まで。えっと、その後は……」
「そこはごめんなさい。そんなにゆっくりしていられないんです。仕事があるので、昼過ぎの新幹線で帰ります」
きょとんと見上げてきた静香に、伊久磨はごめん、とはっきりと告げた。
「今日の夜に、どうしてもお会いしたいお客様のご予約があります。この機会を逃すと、しばらく間が空いてしまいそうで。大切なお客様です」
さらさらと説明をした伊久磨に、黙って聞いていた静香はしっかりと頷いた。
「今回はわざわざ来てくれてありがとう。あたしはもう十分だから、伊久磨くんの仕事を優先してください。大切な……」
伊久磨もまた大きく頷いて、笑みを浮かべた。
「ずっとご来店をお待ちしていた大切なお客様なので、最後のお見送りまでしたいと思っています。行ってきます」