共に生きることを
ど・う・し・て。
静香に目で聞かれて、伊久磨はひとまず笑みを浮かべて小刻みに首を振った。
ごめんなさいの意味を込めて。
「おはようございます。お久しぶりです」
東京一泊二日目。
朝イチの仕事を終えた後は時間があるという静香と、十時に静香の仕事先近くの駅前にて待ち合わせ。香織同伴。静香は母親の紀子同伴。
その紀子に、香織が天真爛漫な笑みを浮かべて挨拶をしているのだ。お久しぶりです、と。
言われた紀子は笑みを浮かべているが、頬のあたりが強張っている。
「椿さん。おはようございます。お元気そうで」
「元気ですよ。健康ですし、特に落ち込む理由もないですから。静香、それで怪我はどうなの。痛いの?」
紺色のコートの裾を翻してすたすたと近づいた香織が、静香のギプスを拳で軽くノックする。
「い、痛ッ……痛ッッ。何すんのよっ!!」
明らかに演技ではない悲鳴を上げて、静香は香織を睨みつけた。うっすら涙目になっている。
「うん。痛そう。その怪我でなんで仕事だなんだってぐずぐず出歩いているの? 往生際悪くない? さっさと帰ってくればいいじゃない。良かったね、伊久磨がいて」
しれっと言われて、静香はあうあうあと唇を震わせながら香織を見上げた。やがて、なんとか絞り出したような声で言う。
「良かったね、って……」
儚い抵抗の気配。香織は、ふっと軽く笑い飛ばして静香を見下ろした。
「なんのアテもなく帰ってくるわけじゃないから。静香が変に遠慮しなくても良いように、あの馬鹿すっ飛んで迎えにきてるわけでしょ。自分も仕事あるのに。その辺考えた? もしあいつが今顔を見せなかったら、それはそれで静香困ったはずだよ。というか、絶対困ったから。間違いなく」
「何が」
なおも反論しようとした静香に対し、香織は目を細めた。追撃の構え。
「『今さっさと生活をたたんで帰ったら、結婚をあてにしていたようにしか見えない。仕事はおろか家事も満足にできないただの重荷なのに』『彼氏ができた途端に結婚だー! って専業主婦生活夢見ていたって思われないかな。そういうわけじゃないんだけど』とかさ。静香、こういうことぐずぐずぐずぐず考えて、いつまでも帰れなかったと思うよ、絶対。昨日、伊久磨はなんて言ってたの? そういうこと気にしなくていいように、先手打って『迎えに来た』って言ってたんじゃないの?」
容赦のないことこの上ない攻めに、静香は唇を引き結ぶ。
唖然としていた伊久磨であったが、我に返ったように歩み寄り、香織の肩に手を置いた。
「香織……? まだ酒残ってるのか? いつもより、こう」
舌鋒鋭いというか。
ドSじみているというか。
伊久磨の言い淀んだ内容を正確に察知したように、香織は艶やかに微笑んだ。
「言わなきゃわかんないでしょ。命に関わらない怪我だってわかってんのに、『他人』の伊久磨が仕事差し置いて駆けつけてくれるありがたさとか。静香、伊久磨にちゃんと感謝した? そういうの当然だって思ってると、そのうち見捨てられんぞ」
立て板に水。
(止められない)
と、伊久磨の顔には書いてあったし、静香もまったく同じことを考えていた。
「感謝なんて、人からしろって言われてするものじゃないだろ。今回のは、俺が勝手にやってることで、押し付けみたいなものだし。それで感謝しろなんて思ってないから」
伊久磨が、香織を落ち着かせようとすかのように、ことさらゆっくり言う。
しかし香織はゆるく首を振ってから、きっぱりと言い切った。
「わかってない。そういう問題じゃない。親しき仲にも礼儀あり。伊久磨が来たことに関して、嬉しいと思ったなら静香はそう言うべきなんだ。言わなくても伝わるとか、正直言えば迷惑だな~なんて思ってるならもう別れろよ面倒くさい」
最終的に結論が出た。いきなり、かなり唐突に。
「香織。ちょっと待て。いまの極論だったけど、なんで香織が面倒くさがってるんだよ。顔つっこんできた挙句に面倒がられても、俺だって困る」
「そうだよ香織。まさかわざわざそんなこと言いにここまで来たの? 別れろって?」
伊久磨と静香で慌てて言い募るも、香織は気にした様子もない。
「それもいいんじゃない? 顔合わせても嬉しくも楽しくもないなら潮時だよ? いっそ別れたら? 一応二人を引き合わせたの俺だから、最後の責任とりにきた感じかな。うん」
うんうん。などと、力強く頷いている。
(なに……なんでこのひと一人で納得してんの……? いまの何……?)
取り付く島の無さに伊久磨も静香も絶句してしまう。
「椿さん、髪切ってからすごく印象変わりましたよね」
取りなすように、紀子が世間話を振った。
振られた香織は抜群の笑みを浮かべて紀子に視線を向けた。
「それは俺の親父と比べてってことですか? たしかに、親子そろって黒髪のイメージはなかったでしょうね」
胸にダメージを受けて、静香と伊久磨は瞑目したり顔を逸らしたりしてしまった。
紀子は目元に柔和な笑みを浮かべながら香織を見上げる。
「そうですね……。そうしていると、どことなく」
そこで、言葉を切った。
(あの)(それ以上は)
静香が制止するか迷ったように口を中途半端に開く。伊久磨はといえば息を止めてしまっていた。
たぶんいま何かまずいことを言いかけた、と。
なお、香織は特に黙らなかった。
「どことなく、光樹に似ているような、って感じですか? でも光樹が生まれたときってうちの親父とっくに死んでるし、その線はないですよね」
_人人人人人人人_
>香織…………!!<
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y
静香は無事な左手で頭をおさえつつ、目を閉じた。足元がふらついている。見かねた伊久磨が腕を伸ばして軽く抱き寄せた。
「なにあれ……」
伊久磨にだけ聞こえる音量で、静香が息も絶え絶えに囁く。
「俺にもさっぱり。なんだあの最終兵器」
ちらりと伊久磨を横目で見上げて、静香はぼそりと言った。
「伊久磨くんが連れてきた」
「森に帰してくる」
「今見捨てたらタタリ神にならない?」
「ヤックルに乗って会いにいけば大丈夫」
動揺しすぎて会話がもののけになってしまう。
香織と紀子はひとまず談笑していた。話が続いている。何かの奇跡で。
伊久磨も静香も、見ているだけで生きた心地がしないが、視線の先の二人は極めて友好的な空気をかもしだしていた。
「は~……もう何がなんだかわからない。あそこの二人って、もっと仲悪いというか、いびつで会話もままならない関係だと思ってた」
脱力して静香は伊久磨にもたれかかる。しっかりと支えるように抱き直しながら、伊久磨も遠くを見る眼差しになってしまった。
「そう、だな。香織、昨日すごく良いワイン飲んだって。まだ酔ってて口がすべりやすくなってるんじゃないか」
「すごく良いワイン?」
「五大シャトーの、値段は怖くて考えたくないようなやつ。俺が悔しがってるのを見て、そこのセカンドラベルをホテルのルームサービスで開けてくれたんだけど、美味しかった」
前夜の出来事を回想して、伊久磨はしみじみと呟く。
静香はなおさら伊久磨に体重を預けつつ「ごめんなさい……」と呻いた。
「伊久磨くん、そっちに行きたかっただろうに、昨日は粗食に付き合わせてごめん。というか、なに? 誰かのお誕生日か何かの食事だったの? 香織はなんで……」
「それを話すと長くなるんだけど……。マイフェアレディ」
独り言のように呟いてから、伊久磨は静香を見下ろす。
「それはそうとして。なんだか香織に先走って色々言われてしまったけど。俺は静香の居場所を作って待ってるから。腕が折れたって、実際すごく大変なことだよな。でも、折れたものは折れたものなわけだから、少しゆっくりすればいいのに。人生この先長いですよ」
視線が絡んで、そのあまりの優しさに静香は落ち着かなげに目を瞬く。
「その……長い人生のはじまりに、いきなりこういう……。寄りかかることしかできなくて。あたしからは伊久磨くんに何もしてあげられないというか。だって、一緒に暮らしたって、セ……」
静香が何かを言いかけてやめる。聞き洩らさなかった伊久磨は思わずのように噴き出した。
「べつに。そういうのが目的で一緒に暮らそうって言ってるわけじゃなくて。全然焦る必要ないし、怪我に響きそうなことはひとまず何も考えないでいいから。怪我をしている静香と、物理的に離れているのが落ち着かないだけ。そばにいれば何かと手伝えるはずだし、落ち込んでいたら慰められるし。そういう風に、一緒の時間を過ごしませんか、という提案です。それこそ結婚だって急ぐ必要もない」
「それは」
赤面したまま聞いていた静香が、そこで口を挟む。
「ん?」
「あ、いや。ええと、そこはべつに異論があるわけじゃなくてなんといいますか大丈夫というか気持ちの上で納得しているというか先送りしようとも思ってないしわりと近々でもいいかなって」
早口。
面白そうに目を輝かせて聞いていた伊久磨は、そのまま「静香」と内緒話でもするように名前を呼んで、身をかがめた。
――……病めるときも、健やかなるときも。
足元に集っていた鳩が、羽音を響かせながら空に飛び立つ。
紀子と話していた香織は、ふと気をひかれたように鳩を目で追いながら肩越しに振り返った。
身をかがめた伊久磨と静香の姿が重なっているのをみとめて、唇にやわらかな笑みを浮かべる。
花がほころぶような春の気配を漂わせた陽気の中、青空からは明るい光が差していた。