若君の道楽
「ずっと表情が暗い。静香、迷惑だった? 俺は来ない方が良かったのかな」
振り返らなくてもわかる。
(伊久磨くんも暗いね、声が……)
傷つけた。
一目会えて嬉しいとか、来てくれると聞いてドキドキしたとか。そういうポジティヴな感情を、素直に伝えていない。
遠距離をものともせず、怪我と聞いて駆けつけてくれたなら、本来は感謝するべきなんだろう。
感謝「するべき」……。そこから間違えている。
軌道修正がきかない。
心の動きが鈍い。
ゆっくり呼吸してから、振り返った。背の高い伊久磨と目を合わせるために、少しだけ、視線を上向ける。
目元に光がない。月も星もない夜の海のようだ。深くて底が見えない。服装も黒いので、闇に沈んでいまにも消えてしまいそうに見える。
看板の灯り、車のライト、周囲にはいくつもの光がある。決して真っ暗ではないというのに。
静香の視界そのものが、いつもよりも狭くて暗い。
「迷惑なわけじゃなくて……。悪いのはあたしなの。こんなときに怪我しちゃって。やっぱり落ち込んでるし、うまく笑えない。そういう、元気でも明るいわけでもない自分を見られるのが嫌なんだと思う」
伊久磨のせいではないと伝えたい。切実に。
それなのに、話しているうちにどんどん声が小さくなる。正直に本音を告げているはずなのに、間違えている気がする。
視線を絡めながら、伊久磨は淡々とした調子で言った。
「俺はそういうの、大丈夫だよ。人間っていろんなときがあるわけだし。落ち込んでいるなら無理して明るく振舞わなくても良いから」
(そうじゃ、なくて)
微妙に違う。もどかしい。
「自分が伊久磨くんの立場だったら、あたしも同じことを言うと思う。『困っているときはお互い様』とか、『もっと頼ってよ』って。だけど……、無理で」
伊久磨くんだから、無理で。
最大の誤解を生みそうな言葉は、なんとか飲み込んだ。
「無理って、どういうこと?」
言いながら伊久磨が距離を詰めてきた。
肩がびくっと震えるも、軽く右腕側をかばいつつ抱き寄せられる。
静香の背後から、自転車が通り過ぎて行った。咄嗟に、ぶつからないようにしてくれたらしい。
(……うん)
触れられて、かばわれる。優しくされることに、きちんとドキドキしている。
好きなのは間違いない。
――ね、静香は何が決め手だったの?
(「海の星」で一番最初に出会ったときに、もう「良いな」って思ってしまっていた……)
香織と一緒に暮らしていた相手とは聞いていた。それ以上の情報がなく、いざ「海の星」に出向いて会ってみたら、滅多に見ない背の高さに少し驚かされた。
素を知っている香織と一緒だったせいか、店員だというのにいわゆるビジネス的な愛想の良さはなく、良く言えば朴訥、正直に言えば妙にさばさばとして素人っぽかった。
仕事中の姿は、その第一印象を大きく裏切ることはなかった。しかし、押しつけがましくない華やかさがあり、目をひいた。
いざ面と向かってにこっと笑われると、最初の印象との違いに目を奪われてしまった。
遠距離で、その場限りで、お店の店員さん。交際関係に発展する要素は何もない。好きにならないようにしようと思った。好きになってもどうしようもない、付き合えるはずがないのだから。
それが、事故のような告白から、交際が始まってしまい。
いざ付き合いはじめてからは、すごく真剣だ。
大切な人間として扱って考えてくれているのはわかるし、困ったことになればすぐに駆けつけて「迎えに来た」とまで言ってくれる。
その言葉を噛みしめて、静香は俯いた。
(好きです。本当に好き。重荷になったり、迷惑をかけたりするのが本当に申し訳ない。これ以上頼りたくない。寄りかかり過ぎるとだめにしてしまいそうで)
顔を上げて、伊久磨の目を見つめる。
「家族じゃないから」
口がうまくまわらずに、用件のみを言ってしまった。
「うん?」
伊久磨の手が離れていく。ほんの少し、距離が空く。
手を伸ばせば届くけど、腕は折れてしまっているから、この距離を詰めることができない。
「たぶん、あたしの気持ちがまだ『彼氏彼女』で『家族』にシフトしていないの」
伊久磨のことが好きで。
どうせ顔を合わせるなら笑っていたい。デートをしたいし、可愛いと思ってもらいたい。まだまだ全然結婚の覚悟がついていない、子どもっぽい思いがたくさんある。情けないほど。
さらに言えば、右手が使えないことで、実際はトイレも風呂もかなり大変だ。そういう、舞台裏で足掻いている姿を「彼氏」である伊久磨に見られるのは抵抗がある。
「もう少し、待って欲しいの」
言葉が足りない自覚はあったが、できるだけの誠意を込めて精一杯言った。
「何を? いつまで?」
……ぜんぶ。
伝えきれないのがもどかしいまま、絞り出すように続ける。
「伊久磨くんを、家族のように思えるまで。もう少し時間をください」
* * *
窓に向かって一人掛けと二人掛けのソファをL字型に配置し直し、ローテブルを目の前に。
男二人に無駄な夜景を仰ぎつつ、香織は足を組んでゆったりと座っていた。
なお、伊久磨はグレー色のルームウェア姿で、二人掛けのソファにめりこむほどに轟沈している。
「ご、五大シャトー……」
「シャトー・ラトゥール。美味しかった」
「……そのランクのレストランで開けると、それ一本で、俺の給料より高い……」
岩清水“ヒロ”に同行して同席したレストランでの出来事を香織から聞き、伊久磨は立ち直れない、とばかりにソファに身を沈める。
香織は目の前のテーブルからグラスを手に取り、今一度言った。
「すっごく美味しかった。ごめんね、香りとか舌触りとかソムリエみたいに表現できなくて。美味しいなーってことしかわからなくて」
言えば言うほど伊久磨がダメージを受けているのを満面の笑みを浮かべて眺めつつ、グラスを置く。空いた手を伸ばして、伊久磨の湿った髪をぐしゃぐしゃとかきまぜた。
伊久磨は呻きながら体を起こし、香織の手を振り払う。
乱れた髪のまま、両膝に両肘をつき、掌で顔を覆った。
「ソムリエの教本には『唎酒用語』が出ているんだ。見た目の表現、香りの表現。香りも細かく色々あって、干し草とか、すみれやイチゴ、ラズベリー、ミラベル、焼いたアーモンドのような、とか。ワインの匂いは樽の木材の匂いもあるんだけど。あとはもちろん味わい。柔らかい、重い、濃厚、コクがある……」
ぶつぶつ言っている。言い終わるのを待って、香織は念押しのように言った。
「ごめんね。わかんない。美味しかったのは確か」
恨みがましそうに顔を向けてきた伊久磨に対し、片目を瞑ってみせる。
「しかもヒロさん、ファーストドリンクにドンペリ開けてたし」
「ドンペリ」
「そ。三人で一杯ずつ飲んだ後、『あとは店でどうぞ』って。閉店後みんなで楽しく飲んでるんじゃない? で、その後にシャトー・ラトゥール。料理にも合ってたと思うよ」
またもや落ち込む気配を感じつつ、伊久磨のグラスにボトルで注文したワインを注いだ。
「飲みなよ~。レ・フォールド・ラトゥール。シャトー・ラトゥールのセカンドラベルだって。置いてて良かったね」
愛想よく笑う香織を陰気な目で見ながら、伊久磨はグラスを手にする。
「料理と合わせて飲みたかった……。こんなヤケ酒みたいなタイミングでがぶがぶ飲むようなものじゃない……」
テーブル上にはナッツとサンドイッチが上品に並んでいる。
「ヤケ酒なの? 何かあったの? そろそろ話してみる気になった?」
片肘を肘掛について、香織はにこにこと伊久磨の顔を覗き込んだ。
黙ってグラスを傾けていた伊久磨は、一口飲んでからしみじみと呟く。
「美味しい。本当に美味しい……。値段が怖い」
そのまま、じっとグラスを見つめる。
「値段は見てなーい。ま、いいんじゃないの。ヒロさんには後から俺が何か御礼しておくから」
気安く言って、香織は足を組み直して自分もグラスを手にする。
「そういえば明菜さんは」
はっと思い出したように言ってから、伊久磨は香織を見た。
「大丈夫、ヒロさんと部屋は別。あそこに何かあったら“ハル”の方がどうにかなっちゃうでしょ」
「……何かあるかもって思わせるヒロさんが恐ろしい。男っていつまで現役で男なんだろうな」
「え?」
「ん?」
伊久磨が妙なことを口走ったのを、耳聡く拾った香織が聞き返す。伊久磨がすらっとぼける。
「なに、どういうこと? んん? 伊久磨、いまのなに?」
「なんでもない」
「なんでもないってことないと思うんだけど~」
「ないない」
絡まれるのが面倒とばかりに、伊久磨はグラスを傾ける。
一気に空にしてしまってから、しまったという顔をする。「美味しいな。いくらでも飲める」と呟いた。
「ボトル開けちゃったし。残されても面倒だから飲んじゃいなよ。気持ちよく酔えそうでしょ?」
「そうだな……。若君の道楽に付き合ってる感がすごいけど、開けたものは飲むしかない」
無理やり納得しようとしている伊久磨の呟きを、香織は健やかな笑い声で笑い飛ばした。
「ヒロさんと食事楽しそう。いいな。明菜さん勉強になっただろうな」
「そうだね。すっごく神経研ぎ澄ませていたよ。それでヒロさんに『食事しに来てるんだ、楽しまないのは野暮だぞ』って言われてた。ぼんやりしているとお前の『海の星』での立場も明菜ちゃんに奪われるからな」
「それは大変だ」
香織がテーブルに置かれたグラスにワインを注ぐ。伊久磨が手を伸ばしたところで、自分のグラスを寄せてかちりと軽くぶつけた。
「忘れてた。乾杯。グラス割れるからこういうのマナー違反なんだっけ?」
「べつに。割らなきゃいいだけだろ。なんの乾杯?」
何気なく伊久磨が聞き返すと、香織はにこりと笑った。
「明日は俺もついて行こうかな、そっちに」
そっち? と首を傾げた伊久磨に、にこりと笑いかける。
「そっち。ヒロさんと明菜ちゃんは二人でも大丈夫だろうし、俺もたまには静香の顔でも見てみようかなって。ついていくね?」