家族に
人の出入りがある度に、何度も店の入り口を見てしまう。
ガラス戸の向こうはすでに陽が落ちて、夜。繁華街の雑多な灯りの中、行き交う人の通りは多い。
(待っていれば来るのよね。ここ駅からすぐだし、迷いようもないし)
伊久磨から「静香の最寄り駅まで先に帰っていて」と連絡があったので、その通りに移動。ほどよく混雑した駅前のカフェにて待っている。
既に新幹線を下りて電車に乗り換えて向かっていると、連絡もあった。
間もなく到着。落ち着かない。
「娘の彼氏に会うの、緊張する……」
向かい合って座った紀子までそんなことを言い出して、チラチラと入口を見ている。
「やめてよ。なんでお母さんが緊張するの? 会ったことあるじゃない」
自分も浮ついているのを包み隠して、静香は平然とした態度を装ってみた。
二人の前のマグカップは既に空になっている。
紀子は不意に目を輝かせると、静香の顔を見てにこりと笑った。
「蜷川さん、この間は仕事中だったから。そんなに話せていないの。少しシャイな感じだったし。ね、静香は何が決め手だったの?」
「決め手?」
何を言い出したのだと聞き返すと、力強く頷かれた。
「静香から今まで彼氏の話聞いたことないじゃない。それが突然、『たぶん結婚する』なんて言い出すし。蜷川さんのどこが良かったのかなって」
とてつもない愛想の良さで尋ねられ、静香はまじまじとその顔を見返してしまった。
(こ……、恋話!? 母親と!?)
何やら衝撃が走った。
「聞いてどうするの?」
挙動不審になりながら、可愛くない返事をしてしまう。防衛本能。紀子は困ったような微苦笑を浮かべて言った。
「もちろん、今さらあなたの選んだ相手にとやかく言うつもりはないわ。でも、家族になるわけだから。蜷川さんのこと知りたいと思うのは自然じゃない」
家族。
心臓の、位置がずれたんじゃないかと思うほど、ドクン、と鳴った。
「そっか。家族、そうだね……。そういう意味ではお母さんには無関係なひとじゃないもんね」
「当たり前よ。光樹なんか、ああ見えてかなり喜んでいるんだから。実の兄みたいに懐いて……」
笑顔で話し続ける紀子を、静香は息を止めて見つめてしまった。
気付いた紀子も、ふと口をつぐむ。
(……実の兄は、別にいるでしょう)
おそらく、一生名乗り出ることはないけれど。彼は、この母親や齋勝の家とは無関係な人間として、椿の家で生きていく。
ほとんど自動的に母を心の中で詰ってしまう。視線が非難がましくなるのを自分でもどうにもできず、横を向いた。
責めたいわけじゃない。何か、どうしようもない事情だったのだと、自分の中で納得して終わりたい。
頭ではわかっているのに。
それこそが心の奥底で鍵になっていると感じる。
恋愛に対する忌避感。
静香とて伊久磨と出会えた今となっては、「今さら」蒸し返して母親を糾弾したいとは思っていない。だけど、割り切って恋愛トークする気にはどうしてもなれなかった。
視線を戻すと、紀子は何度か瞬きをしてから、静香を見つめた。
「この間話したとき。蜷川さん『産んでくださってありがとうございます』って言っていたの。『会えて良かった』って」
「そんなこと」
いつ話したの、と聞き返そうとして絶句する。紀子は目の縁に涙を溜めながら笑っていた。
「すごく短い時間だったのに、はっきり言っていたの。嘘偽りのないひとね。本当に思っているんだなってわかった。地に足のついたひと。『家族』というものを明確に持っているんだって感じたわ」
(ああ……。うちの家族が、どう足掻いても、手が届かない)
家族らしきもの、ぼんやり思い当たるのだ。普通はこうなんだろうなというのが。
屈託なく、「お母さん、お父さん」と言って、なんの問題もないように振舞いたいと何度思ったことか。
そのたびに、家の中にはいない「兄」の影が。ようやく乗り越えたかと思えば、父に女性の影が。
うまくいかない。両親と自分と弟。たった四人だけの人間関係で「家族」であろうとして、数えきれないほどの挫折を味わってきた。
「伊久磨くんは、良い家で育ったんだろうなって。そういう感じあるかな。『家族』のこと、すごく大切に思ってきたひとだと思う」
それ以上何を言っても、目の前の母親を責めるような内容になりそうで唇を引き結んだ。
もし彼の心を打ちのめした悪夢のような事故が起きていなくて、家族が健在であれば。
あの拭い難い影を背負うこともなく、全然違う人生を歩んでいたはず。
(あたしと出会うこともなく。もっと彼に似合うひとと巡り会って大切にしていたと思う)
想像すると心が冷え冷えとする。彼のいない人生など考えられない。
それでも、もし自分が彼を失うことになっても、彼の本来の人生を取り戻す術があるなら、悪魔と契約してもいい。
入口の方へ顔を向けた紀子が「あ」と言った。
その動作だけで何が起きたか察して、静香は凝固する。
固まっている場合ではないと思い直し、おそるおそる顔を向けた。
客席の間をすり抜けてくる、黒いコートを羽織った長身の姿が見えた。
* * *
実はまだ、最後に会ってから二週間経っていない。
それどころか、知り合って半年も経っていない。それなのに、姿を見るとほっとする。
通路を歩いて彼とすれ違った女性客が、その長身に気付いて横目で見た。すらりと姿勢が良く、清潔感のある面差しをした彼は、触れ合うぎりぎりで身を引いて感じよく道を譲り、笑いかけていた。
伊久磨の顔が窓際に座った母娘に向く。
その目に映り込んだのを感じて、静香が軽く手をあげると、小さく頷かれた
「こんばんは。お待たせしました」
テーブルまで着くと、低く落ち着いた声で伊久磨がそう告げた。
「うん。あの、伊久磨くん、ご飯は?」
四人掛け。静香が右隣を目で示すと、伊久磨は椅子をひいて腰を下ろす。ちらりと目がギプスを見た。
「まだ。思ったより遅くなって、ごめん。もう食べましたか」
最後の一言は、正面に座った紀子に向けられたもの。
「遠い所をわざわざすみません。食事はまだなんですけど、どこか、静香」
紀子は深々と頭を下げてから、素早く静香に話を振ってきた。
この辺のお店わかるわよね? と。静香はひとまず頷く。
話し声を聞いているうちに(ほんとに遠くから、わざわざだよっ)と実感に襲われてきた。何故か震えがきている。
一方の伊久磨といえば、居住まいを正す気配があった。
そのまま、紀子へ深々と頭を下げる。
「すぐに来ることができなくてすみません。静香のこと、ありがとうございました」
(……ええと?)
意味を掴みかねて、思わずその横顔を見てしまった。
伊久磨が駆けつけなかったのは、そもそも知らなかったからであって。紀子がこの場にいるのは、静香の母親であり、緊急事態だから静香が呼んだわけで。
「伊久磨くん……?」
なんで謝ってるの? なんでお礼を言っているの?
不思議な思いから名前を呼ぶと、顔を上げた伊久磨にじっと見つめられてしまった。
「右腕、仕事どころかお母さんがいないと生活そのものが無理だと思うんだけど。地元に帰って来れそう?」
無理じゃない、とは言い切れない。
現状、仕事が出来ない状態で三か月、家賃を払って東京で暮らし続ける理由があまりない。本音を言えば、もし伊久磨のことがなくても、これをきっかけに地元に帰っても不思議はないくらいの怪我だ。
いきなり、前触れもなくつきつけられたが、誤魔化すことはできない。
「うちのお母さんも、いつまでもというわけにはいかないから。そうだね、帰ることになると思う。仕事もいま引き継ぎ先探していて……」
口にすると、どんどん現実感が伴ってきた。
(あたし、帰るんだ。生活を畳んで)
「来週、店の定休日の前後に連休にできるように、俺の仕事は調整する。迎えに来るつもりでいるけど、早い? 東京での仕事を片付けるの、もっと時間かかる?」
伊久磨はと言えば、特に動揺した様子もなく事務的に話を進めていく。
「迎えに」
オウム返しに尋ねると、しっかりと頷かれた。
「明日不動産屋に連絡しても、すぐには解約できないはず。それでも、仕事の後処理が目途着き次第、本人は帰ってきてもいいんじゃないか。引越し屋の手配がつくタイミングで、改めて東京に来ればいいだけで。俺の休みに合わせてもらえたら動きやすいけど、先々見てもなかなかあることじゃないし、オーナーには無理きいてもらうつもりでいる。というか、岩清水さんもそのつもりだから」
流れるような話しぶりに耳を傾けてしまってから、静香は伊久磨の顔を見上げた。
「そっか……。引越しまでこっちにいないで、仕事が片付いた時点で帰れば良いんだ……」
目の前のことに気を取られて、そこまで考えていなかった。
伊久磨はしっかりと頷いてから、紀子に向き直った。
「うちでも暮らせないことはないと思うんですけど、どうしても夜が遅い仕事なので。日中何かと不便があるかもしれません。静香さんはひとまずご実家で、ということで大丈夫でしょうか」
言われた紀子は「あら」と小さく呟いてから、遅れてくすりと笑った。
「そうよねえ。せっかく帰ってきたら一緒に暮らしたいわよね」
(一緒に暮らす……!?)
自分を置き去りにしてどんどん進んでいく話に、静香は目を瞠る。
先程から感じていた違和感の正体に唐突に行き当たった。
伊久磨の話しぶりが、完全に身内なのだ。静香の。
だから、紀子に謝るし、お礼を言う。けじめのように。
めまぐるしく、事態が動いていくのを実感する。何をどう確認すればいいかわからず、静香は伊久磨の目を見つめて尋ねた。
「帰ったら……、一緒に暮らす、の?」
伊久磨は、目元を和らげて甘やかな笑みを浮かべた。そのまま静香の目を見つめてはっきりと言った。
「正式な申し込みは改めて。ひとまず、俺としてはそのつもりでいることを伝えに来た。さすがに、直に会って言った方が良いかと思って。お互いの人生がかかっていることだから」